『能狂言』下143 集狂言 ぼんさん
▲シテ「これは、この辺りに住居致す者でござる。こゝに、誰殿と申して、盆山をあまた持たれたお方がござるによつて、度々所望致せども、しわい人で、今に一つもくれられませぬ程に、今日はあれへ参り、案内なしに一つ二つ借つて参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かやうの事を致せば、次第次第に面白うなつて、後にはほんのものになると申すが、私は中々、左様の事ではござらぬ。いや。参る程に、これぢや。扨も扨も、用心厳しい体ぢや。これでは中々、這入られまい。それそれ。先度、裏道を通つたれば、まだ塀の手の合はぬ所があつた。さらば、裏道へ参らう。
《これより「連歌盗人」の如く、垣を切りあけ、座敷の戸をあけ、扨、内へ這入つて、普請見て、一遍廻り、盆山を見付けて》
扨も扨も、夥しい盆山かな。これは、どれに致さう。これに致さうか。いやいや。これは、山が低い。これに致さうか。これも気に入らぬ。をゝ。それそれ。これが良い。これに致さう。
《など云ふ内、亭主聞いて、「連歌盗人」の如く云ふ》
これはいかな事。聞き付けられたさうな。隠れずばなるまい。
▲亭主「《見て》これはいかな事。あれは、誰でござる。をゝ。それそれ。かねがね、盆山をくれいと申したを、今に遣はしませぬによつて、取りに来たものでござらう。扨々、憎いやつでござる。散々になぶつて戻さうと存ずる。
はあ。あの盆山の蔭へ隠れたを、人かと思へば、あれは猿ぢや。
▲シテ「や。猿ぢやと云ふ。
《これより「柿山伏」の如く云うて、「犬ぢや」と云ふ。「扨、何ぞ、きやつが困る事が、ありさうなものぢやが」》
▲亭主「はあ。あれをよくよく見れば、猿でも犬でもない。鯛ぢや。
▲シテ「や。鯛ぢやと云ふ。
▲亭主「鯛といふものは、鰭を伸すものぢやが。おのれ、鰭を伸さずば、人であらう。鉄砲を持つて来い。打ち殺いてやらう。
▲シテ「鰭を伸さずばなるまい。
《扇をひれにして、ひれを立つる真似する》
▲亭主「はゝあ。鰭を立てた。その後で、必ず鳴くものぢやが。鳴かぬか、鳴かぬか。鳴かずば、人であらう。弓矢を持つて来い。射殺いてやらう。
▲シテ「これはいかな事。鯛の鳴きやうに、ほうど詰まつた。何と致さう。
▲亭主「おのれ、鳴かぬか、鳴かぬか。
▲シテ「鯛。《と云うて、跳ぶ》
▲亭主「たいとは。
▲シテ「鯛。
▲亭主「たいと云ふ事があるものか。
▲シテ「あゝ。許いて下されい、許いて下されい。
▲亭主「あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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