『能狂言』下144 集狂言 ちやつぼ

《アド、茶壺を背負ひ、「ざゞんざ」を謡うて出る》
▲アド「あゝ。酔うた、酔うた。この道はひと筋ぢやが、今日は、ふた筋にもみ筋にも見ゆる。これでは中々行かれまい。ちと、この所に休んで参らう。やつとな。
《と云うて、左の肩を外して、寝る》
▲シテ「これは、昆陽野の宿を走り廻る、心もすぐにない者でござる。今日は、こやのゝ市でござるによつて、あれへ参り、何ぞ良い物もあらば、調儀致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。今日は、門出を祝うてござるによつて、何ぞ仕合せのない事はござるまい。これはいかな事。これに、何者やら寝て居る。さらば、起こいて遣らう。
やいやい。こゝは街道ぢや。起きて行け。起きて行かいでな。
あゝ。熟柿臭い。酒に酔うたと見えた。見れば、良い物を背負うて居る。これを調儀致さう。
《引いて見て、うなづき》
やいやい。こゝは街道ぢや。起きて行け。起きて行かいでな。起きて行たならば、良からうに。
▲アド「あゝ。よう寝た。誰そ、湯をくれい。茶をくれい。これはいかな事。これに何者やら寝て居る。
やいやいやい。これは身共が物ぢや。こちへおこせ。
▲シテ「これは身共が物ぢや。こちへおこせ。
▲両人「出合へ出合へ出合へ。
▲目代「やいやいやいやい。汝らは、この御政道正しい御代に、何事をわつぱと云ふぞ。
▲アド「私の物を、あの者が取らうと申しまする。
こちへおこせ。
《シテ、同じ様に云ふ》
▲目代「いやいや。某が出ては、聊爾はさせぬ。まづ、これを身共に預けい。
▲アド「こなたは、どなたでござる。
▲目代「所の目代ぢや。
▲アド「目代殿ならば、お礼申しまする。
▲シテ「私も、お礼申しまする。
▲目代「いやいや。礼には及ばぬ。まづ、これを身共に預けい。
▲アド「それならば、預けまする程に、必ずきやつに遣らせらるゝな。
▲目代「遣る事ではない。
さあさあ。汝も預けい。
▲シテ「私の物でござるによつて、預くるには及びませぬ。
▲目代「いやいや。あの者も預けた程に、汝も預けい。
▲シテ「その儀ならば、預けまする程に、必ずきやつに遣らせらるゝな。
▲目代「心得た。
扨、汝は何者なれば、わつぱとは云ふぞ。
▲アド「私は、中国の者でござるが、某の頼うだ者は、殊ない茶好きで、毎年、栂の尾へ茶を詰めにやられまする。又、当年も、まんまと茶を詰めて下りまする処に、昆陽野のしゆくに知る人がござつて、これへ立ち寄つてござれば、殊の外、御酒を強ひられ、正体もなうたべ酔い、この所を路次とも存ぜず、一方の肩を外いて伏せつて居りましたれば、あれ、あの者が、いづかたからやら参つて、私の外いた方の肩へ手を入れ、我が物ぢやと申しまする。それを申し上がつての事でござる。目代殿でござらば、きつと仰せ付けられて下されい。
《この言葉の内、シテ、目代の後ろより立ち聞きする》
▲目代「あれが口をも問はう。まづ、それに待て。
▲アド「心得ました。
▲目代「やいやい。汝は何者なれば、わつぱとは云ふぞ。
《アドの云ひし如くに云ふ》
はて、合点の行かぬ事ぢや。まづ、それに待て。
▲シテ「心得ました。
▲目代「やいやい。あれは何ぢや。
▲アド「あれは、茶壺でござる。
▲目代「茶壺ならば、入れ日記があらうが、知つて居るか。
▲アド「中々。私の、傍に付いて居て詰めさせた事でござれば、書いた物より、よう覚えて居りまする。あれは存じますまい。問うて見させられい。
▲目代「心得た。
《又、シテ、立ち聞きして、同じ様に云ふなり》
あれは、何ぢや。
▲シテ「あれは、茶壺でござる。
▲目代「茶壺ならば、入れ日記があらうが。覚えて居るか。
《同断に云ふ》
あれも、知つたと云ふわ。
▲シテ「あれが知らう筈はござらぬが、知つたならば、あれから先へ云へと仰せられい。
▲目代「心得た。
やいやい。汝から先へ云へと云ふわ。
▲アド「畏つてござる。《謡》
我が物故に骨を折る、我が物故に骨を折る、心の内ぞ可笑しき。《地を取る》《イロ》
さ候へばこそ、さ候へばこそ、おれが主殿は、中国一の法師にて、日の茶を点てぬ事なし。一族の寄り合ひに、ほんの茶を点てんと、五十貫の庫裡を持ち、多くの足を使うて、兵庫の津にも着いたり。兵庫を発つてふつかに、栂の尾にも着きしかば、峯の坊、谷の坊、殊に名誉しけるは、赤井の坊の穂風を、十斤ばかり買ひ入れ、背中にきつと背負うて、兵庫を指して下れば、昆陽野の宿の遊女が、袖をぢつと控へて、今様、朗詠、しほり萩を謡うて、抑へて酒を強ひたり。酒に酔うて寝たるを、日本一の大腑の、あの古博奕打ちが来つて、我が物と申すを。
判断なしてたび給へ。所の検断殿。
▲目代「一段とよう云うた。まづ、それに待て。
▲アド「畏つてござる。
▲目代「やいやい。あの者は云うた。汝も云へ。
▲シテ「畏つてござる。
《アドの舞ふ内、篤と見て、又、同じ様に真似する》
▲目代「一段とよう云うた。
▲シテ「これは私の物でござる。かう持つて参る。
▲アド「遣つて下さるゝな。
▲目代「いやいや。遣る事はならぬ。今度は相舞にせい。
▲シテ「相舞には及ばぬ事でござる。
▲目代「相舞にせいと云ふに。
▲シテ「その儀ならば、畏つてござる。
▲目代「汝も相舞にせい。
▲アド「心得ました。
▲シテ「おのれが相舞にせうと思ふか。
▲アド「おのれが相舞にせうと思ふか。
▲シテ「おのれ、憎い奴の。
▲アド「おのれ、憎い奴の。
▲目代「やいやい。論は無益。急いで相舞にせい。
▲両人「心得ました。
▲目代「どちなりとも、違うたかたを、くせ事に云ひ付くるぞ。
▲両人「畏つてござる。
《相舞にする。とかくアドの方を見て、真似をする。アドも、誑す心して、「兵庫の津にも」、この「も」の字を引く。二度「も」を云うて、「着いたり」と云ふ。扨、後にも、「袖をぢい」と、又、引いて云ふ。これも、二度引く。又、後の、「酒に酔ひて」、この「て」の字も、同断引く。その外、変りなし。シテは、とかくアドの後を後をとして行く心なり》
▲目代「一段とよう云うた。理非を分けて取らせう。これへ出い。
▲両人「心得ました。
▲目代「まだ出い。
▲両人「畏つてござる。
▲目代「やい。聞くか。
▲両人「何事でござる。
▲目代「昔より、論ずるものは、中から取れと云ふ。これは、身共が取つてのくぞ。
《と云うて、目代、茶壺を持ち、逃げ入る。》
▲シテ「そなたの物にもならぬ。
▲アド「和御料の物にもならぬ。
▲シテ「いざ、追ひかけう。
▲アド「それが良からう。
▲両人「あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.

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