『能狂言』下146 集狂言 じゝやく

▲アド「これは、遠江の国見附の宿の者でござる。某、未だ上方を見物致さぬによつて、この度、ふと思ひ立つてござる。まづそろりそろりと参らう。誠に、皆人の仰せらるゝは、若い時旅をせねば、年寄つての物語がないと仰せらるゝによつて、ふと思ひ立つてござる。いや。参る程に、国境へ出たが、これは、何といふ国ぢや。はあ。これは三河の国と見えた。この三河の国には、八橋といふ名所がある。これを見物致さうか。いやいや。これは戻りの事に致さう。誠に皆の者に話いたならば、定めてのぼすまいと存じて、この度は、某いち人で上る事でござる。いや。又、何かと申す内に、国ざかひへ参つた。やあやあ。何と云ふぞ。これは、尾張の国ぢや。扨も扨も、賑やかな国でござる。それそれ。この尾張の国には、熱田の明神といふおほ社がある。これへ参らうか。いやいや。これも戻りの事に致さう。とかく、まづ急いで都へ上り、こゝかしこを見物致いて、路次すがら、名所は戻りにゆるりと見ようと存ずる。いや。又、これは国境へ出た。これは、何といふ国ぢや知らぬ。はあ。向かうに青々と見ゆるは何ぢや。やあやあ。あれは、近江の湖ぢや。すれば、近江の国ぢや。扨々、良い国でござる。いや。又、こちらに夥しう人立ちがあるが、あれは何事ぢや。や。何ぢや。坂本の市ぢや。いや。これこそ承り及うだ市ぢや。その上、程も近いによつて、これへは参つて見物致さうと存ずる。扨も扨も、良い時分に通り掛かつて、珍しい市立ちを見物致す事でござる。いや。参る程に、はや市場ぢや。扨々、夥しい事かな。あれからつゝとあれまで、皆市立ちゞや。ちと見物致さう。
《「長光」の如く云うて、市立ちを見て、褒むるなり》
▲シテ「これは、大津松本の辺りを走り廻る、心も直にない者でござる。今日は坂本の市でござるによつて、あれへ参り、良さゝうなものもござらば、調儀致さうと存ずる。
《道行。「茶壺」「長光」など同断》
いや。これに、田舎者と見えて、売り物に見入つて居る。ちと当たつて見よう。
《これより、「長光」の如く、口真似をして、「なう。久しいの」と云ふ。アド、肝を潰して》
▲アド「これはいかな事。扨々、都は油断のならぬ。知らぬ者が、言葉を掛くる。ちと所を替へよう。
▲シテ「これはいかな事。眉あひの延びた奴かと存じたれば、目の鞘の外れた奴でござる。今一度当たつて見よう。これはいかな事。どちへやら、所を替へた。某も所を替へう。
《又、初めの如く、口真似して、「なう。久しいの」と云ふ》
▲アド「いや。そなたは最前から、久しい久しいと仰しやるが、身共は知る人ではおりないぞや。
▲シテ「こゝな人は、むさとした事を仰しやる。知らぬ者が、何と言葉を掛くるものぢや。そなたはあの、物の国の人ぢや。
▲アド「物の国と云ふ国があるものか。すれば、真実知つておりやるか。
▲シテ「中々。真実、知つて居る。ありやうに仰しやれ。
▲アド「その儀ならば、云はう。身共は、尾張の国の者でおりやる。
▲シテ「をゝ。それそれ。尾張の国の人であつた。
▲アド「尾張の国には熱田の明神というて、大やしろがある。
▲シテ「をゝ。あるとも。
▲アド「その大社をつかつかと行て、伏し拝む。
《シテも、同じ様に「伏し拝む」と云ふ》
いやいや。拝みはせぬ、拝みはせぬ。
▲シテ「誠に、拝みはせなんだ。
▲アド「よう知つて居るの。
▲シテ「中々。知つて居るとも。
▲アド「それならば、ありやうを云はう。
▲シテ「ありやうを云はしめ。
▲アド「ありやうは、三河の国の者ぢや。
▲シテ「誠に、三河の国の人であつた。
▲アド「三河の国には、八橋といふ名所がある。
▲シテ「をゝ。あるとも。
▲アド「あちらへこちらへ架けてあるわ。
▲シテ「誠に、あちらへこちらへ架けてある。
▲アド「その八橋を。
《同じ様に云ふ》
あちらへはちよろり、こちらへはちよろりと渡る。
▲シテ「渡る渡る。
▲アド「いゝや。渡りはせなんだ。
▲シテ「誠に、渡りはせなんだ。
▲アド「扨々、和御料は、よう知つて居るの。
▲シテ「中々。よう知つて居る。ありやうに仰しやれ。
▲アド「それならば、真実を云うて聞かさう。真実は、遠江の国見附のしゆくの者ぢや。
▲シテ「誠に、遠江の国見附の宿の人であつた。
▲アド「見附の宿は、長い宿ぢや。
▲シテ「成程、長い宿ぢやとも。
▲アド「それを真つ直に行て、左へひぢたをる。
▲シテ「たをる。
▲アド「いやいや。左へはひぢたをらいで。
《真似する》
右へきりゝと廻れば、堀掘り廻いた大きな藪がある。
▲シテ「をゝ。あるともあるとも。
▲アド「その藪の内に、大きな家がある。
▲シテ「誠に、大きな家がある。
▲アド「その家の内の者で。
▲シテ「者で候ふ。
▲アド「いやいや。その内の者ではなうて、その脇に小さい家がある。
▲シテ「をゝ。あるともあるとも。
▲アド「その小さい家の内の者で候ふ。
▲シテ「誠に、小さい家の内の人であつた。
▲アド「よう知つておりやるの。
▲シテ「中々。良う知つて居る。扨、そなたの内の、おゝ。
▲アド「をゝ。お寮様の事か。
▲シテ「そのお寮様の事ぢやが、何と、変らせらるゝ事はないか。
▲アド「そなたはあの、お寮様まで知つて居るか。
▲シテ「身共は、あのお寮様に抱き育てられた者ぢや。
▲アド「すれば、そなたの事であらう。都へ上らば、言伝のしたい者があると仰せられた。
▲シテ「それは、疑ひもない、身共が事ぢやが。何と、お息災なか。
▲アド「中々。変らせらるゝ事もおりない。
▲シテ「扨、そなたは今なと上る人ではないが、何として上つたぞ。
▲アド「さればその事ぢや。皆の者に云うたならば、上すまいと思うて、忍うで上る事でおりやる。
▲シテ「定めてさうであらう。扨、これからどれへ行くぞ。
▲アド「身共は都へ上る。
▲シテ「何ぢや。都へ上る。
▲アド「中々。
▲シテ「それは幸ひな事ぢや。身共も明日は、都へ上る程に、同道致さう。
▲アド「中々。同道致さうとも。
▲シテ「この所に、石山の観世音というて、験仏者があるが、お参りやつたか。
▲アド「いや。まだ参らぬ。
▲シテ「それならば、これは戻りの事にさしめ。
▲アド「戻りの事に致さう。
▲シテ「今夜は、身共が定宿へ連れて行て、泊まらせう。
▲アド「何とぞ泊めてくれさしめ。
▲シテ「さあさあ。おりやれ、おりやれ。
▲アド「参る参る。
▲シテ「扨、そなたは何ぞ、用意召されたか。
▲アド「路銭の足しに致さうと存じて、細物を用意致いた。
▲シテ「それは一段の事ぢや。こゝは物騒な程に、泊まりへ着いたならば、某に預けさしめ。
▲アド「何が扨、預けうとも。
▲シテ「いや。何かと云ふ内に、これが定宿ぢや。つゝと通らしめ。
▲アド「心得た。身共は殊の外、草臥れた程に、もはや伏せらう。
▲シテ「これこれ。洗足でも使はぬか。湯も茶も嫌か。
これはいかな事。きやつは旅疲れに疲れたと見えて、正体がない。
いや。なうなう。宵の内、身共は勝手へ行て、亭主と話いて居る程に、何ぞ用があらば、仰しやれや。
扨も扨も、殊の外草臥れた体ぢや。
なうなう。御亭主。ござるか。ござりまするか。
▲亭主「誰ぢや。
▲シテ「私でござる。
▲亭主「和御料の来るを待つて居た。
▲シテ「それは又、いかやうの事でござる。
▲亭主「さればその事ぢや。この間の者は、何の役に立たぬ程に、良い者があらば、取り替へてくれさしめ。
▲シテ「あれは、よう使はるゝ者でござるがの。
▲亭主「いやいや。何の役にも立たぬ者でおりやる。
▲シテ「それならば、今日、坂本の市で、良い若い者を一人誑いて、則ち表の座敷へ連れて参つて、寝させて置きました。あれと替へて進ぜう。
▲亭主「それと替へてくれさしめ。
▲シテ「扨、明日は所用あつて、都へ上りまするが、鳥目が二百疋いりまする。六つ太鼓の時分、表を叩きませう程に、貸して下されい。
▲亭主「易い事。貸しておまさう。
▲シテ「頼みまするぞ。
▲亭主「心得た。
▲シテ「なうなう。洗足でも使はぬか。湯も茶も嫌か。扨も扨も、よう寝た。身共もこれに寝る程に、用があらば、起こさしめや。
《と云うて、背中合せに寝る。初め、アド、シテと亭主と話すを、立ち聞きするなり。シテ、寝てから、アド、そつと起きて、抜き足して》
▲アド「なうなう。恐ろしや、恐ろしや。人売りに出会うた。急いで参らう。が、夜前、身共を鳥目二百疋に売り付けた。これを取つて、路銭の足しに致さうと存ずる。
《太鼓座へ行き、叩く》
▲亭主「心得た。そりや、渡いた。
《と云うて、亭主、出す。受け取つて》
▲アド「なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと調儀致いた。いや。まだ余り夜深な。不案内ぢやによつて、夜を明かいて参らう。
《と云うて、笛の上へ座り着いて、寝る》
▲シテ「扨も扨も、よう寝た。いや。六つ太鼓の時分ぢや。
《太鼓座へ行き、叩く》
▲亭主「誰ぢや。
▲シテ「夜前のをお渡しやれ。
▲亭主「最前渡いた。
▲シテ「いや。まだ受け取らぬ。
▲亭主「いやいや。渡いた。
▲シテ「ちと待たせられい。
《と云うて、寝た所を見て》
南無三宝。
申し申し。夜前の奴が、して退きました。
▲亭主「やあやあ。夜前の奴が、してのいた。
▲シテ「私は追つ掛けませう。
▲亭主「いやいや。最前から、もはや間もある程に、追つ掛けたりとも、追つ付きはすまいぞ。
▲シテ「まづ、待たせられい。
《と云うて、アドの寝た跡をいらうて見て》
申し申し。きやつが寝た跡をいらうて見ましたれば、まだ如来肌でござる。程遠うは参るまいが、私は見させらるゝ通り、丸腰でござる。こなたの腰の物を貸して下されい。
▲亭主「易い事。貸してやらう。それに待たしめ。
▲シテ「心得ました。
▲亭主「これは、某が重代なれども、貸してやらう。
▲シテ「これは、忝うござる。扨、後をも良い様にくろめて下されい。
▲亭主「中々。くろめて置かう。
▲シテ「頼みまするぞ。
▲亭主「心得た。
▲シテ「扨も扨も、腹の立つ事ぢや。《と云ひながら、肩を脱ぎ》
どこ元へ行た事ぢや知らぬ。
▲アド「いや。やうやう夜が明けた。急いで参らう。扨々、夜前は危ない目に遭うてござる。
《と云うて、互に行き当たりて》
▲シテ「やい。おのれは、夜前のすつぱではないか。
▲アド「おのれこそ、人売りなれ。
▲シテ「何の人売り。ひと討ちにしてやらう。
《太刀を抜き、打ち付くると》
▲アド「あゝ。《と云うて、口を開きて、呑まうとする》
▲シテ「あゝと云うたりと、胴斬りにしてやらう。
▲アド「あゝ。
▲シテ「やいやい。汝、何者なれば、某が打ち付くる太刀に、あゝとは云ふぞ。
▲アド「某を、え知らぬか。
▲シテ「いゝや。何とも知らぬ。
▲アド「これは、唐と日本の潮境に、磁石山といふ山がある。その山に住む磁石の精なるが、唐土のくろがねを呑み尽くし、日本へ渡り、鉄を呑まう呑まうと思ふ処に、夜前、某を鳥目二百疋に売り付けたを、取つて呑うだれば、からかねで、のどに詰まつた。今又、汝が抜いた物を見れば、一銘抱へた物と見ゆる。それを呑まう呑まうと思うて、それ故、あゝと云ふ事ぢや。
▲シテ「おのれ、いかに磁石の精なりとも、呑まれさへせば、呑うで見居れ。唐竹割りにしてやらう。
▲アド「あゝ。
▲シテ「あゝと云うたりとも、瓜割りにしてやらう。
▲アド「あゝ。
▲シテ「これはいかな事。きやつがあゝと申せば、太刀の地肌が、どみと致す。
やいやい。
▲アド「何事ぢや。
▲シテ「この太刀をかう振り上げた処は、何とあるぞ。
▲アド「それを呑まう呑まうと思うて、気がせいせいとする。
▲シテ「気が晴々とする。
▲アド「中々。
▲シテ「又、かう隠いては。
▲アド「それでは、何とやら気が遠うなる様な。
▲シテ「それならば、かう鞘に差いては。
▲アド「をゝ。さいてくれそ。
▲シテ「それはなぜに。
▲アド「某が一命が失する。
▲シテ「何ぢや。一命がうする。
▲アド「中々。
▲シテ「いや。おのれをこれまで追つ掛くるも、害せんがためぢや。鞘に差いて、差し殺すぞ。
▲アド「をゝ。差いてくれそ。
▲シテ「差すぞ。
▲アド「さすな。
▲シテ「さすぞ。
▲アド「差すな。
▲シテ「そりや。差いた。
《アド、くるりと廻りて倒るゝ》
はあ。又、磁石が誑すよ。磁石、磁石。
《と云うて、太刀の鐺にて突いて、それをいらうて見て》
これはいかな事。誠にきやつは、虚しうなつたと見えて、太刀の芝引きが冷たうなつた。扨々、これは苦々しい事でござる。この御政道正しい御代に、大津松本の辺りで、若い者が二人して、追つゝまくつゝしたが、いち人は仕留むる、今一人を逃すな、とある時は、某が足の抜けうやうがござらぬ。何と致さう。それそれ。磁石が存生の時分に、この太刀を好うでござるによつて、これを、磁石が氏うぶすなに手向け、再び蘇生致させうと存ずる。《イロ》
いかに、磁石が氏産神も、確かに聞き給へ。元よりも、磁石が好むこの太刀を、鎺元二、三寸抜きくつろげ、磁石が枕元にとうど置き、かつかつのもんを唱へ、磁石が上を、あちらへはひらり、こちらへはひらり、ひらりひらりと閃かし。やあ。いかに、磁石、磁石。
▲アド「《謡》誰そや。辺りに音するは。
▲シテ「《謡》古へのたらたらよ。
▲アド「《謡》名を聞くだにも、恨めしや。
▲シテ「《謡》恨むも道理なり。げに恨むるも道理なり。
《シテ、しほる。この内に、アド、肩を脱ぎ、太刀を取りて》
▲アド「がつきめ。やるまいぞ。
▲シテ「それは切れ物。こちへおこせ。
▲アド「何の切れ物。胴斬りにしてやらう。
▲シテ「又、磁石にたらされた。許いてくれい、許いてくれい。
▲アド「あの横着者。どちへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.

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