『能狂言』下148 集狂言 かうやくねり
▲アド「これは、鎌倉の膏薬煉でござる。某が膏薬程、強い膏薬はあるまいと存ずる処に、又、都にも強い膏薬があると申すによつて、急ぎ都へ上り、膏薬を吸ひ比べて見ようと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、この度都へ上り、膏薬を吸ひ比べて、もし勝つたならば、弟子にせうず。もし負けたならば、身共が弟子にならうと存ずる。いや。参る程に、上下の街道ぢや。まづ、この所に休らうて参らう。
▲シテ「これは、都の膏薬煉でござる。某が膏薬程、強い膏薬はあるまいと、自慢を致す処に、承れば、鎌倉にも強い膏薬があると申すによつて、鎌倉へ下り、膏薬を吸ひ比べて見ようと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、ものには油断を致すまい事でござる。某が膏薬程、強い膏薬はあるまいと存ずる処に、又、鎌倉にも強い膏薬があると申す程にの。いや。参る程に、しきりに松脂臭うなつた。どこ元ぢや知らぬ。
▲アド「いや。殊の外、膏薬臭うなつたが。どこ元ぢや知らぬ。
《互に行き逢うて》
▲シテ「ゑい。こゝな者。この広い街道を、人に行き当たるといふ事があるものか。
▲アド「そなたが行き当たつた。
▲シテ「いや。和御料が行き当たつた。
▲アド「いや。そなたが行き当たつた。
▲シテ「それはともあれ、和御料は、どれからどれへ行く者ぢや。
▲アド「某は、鎌倉の膏薬煉でおりやるが、身共が膏薬程、強い膏薬はあるまいと、自慢を致す処に、又、都にも強い膏薬があると聞いたによつて、吸ひ比べて見ようと思うて、今、都へ上る処でおりやる。
▲シテ「すれば、聞き及うだ鎌倉の膏薬煉は、そなたか。
▲アド「中々。身共でおりやる。して又、和御料は、どれからどれへ行く人ぢや。
▲シテ「そなたの尋ぬる都の膏薬煉でおりやるが、身共が膏薬程、強い膏薬はあるまいと、自慢をする処に、又、鎌倉にも強い膏薬があると聞いたによつて、吸ひ比べて見ようと思うて、今、鎌倉へ下る処でおりやる。
▲アド「すれば和御料が、聞き及うだ都の膏薬煉か。
▲シテ「中々。
▲アド「これは、良い所で出逢うた。
▲シテ「互の心が通じたものであらう。
▲アド「その様な事であらう。
▲シテ「扨、そなたの膏薬には、何ぞ異験でもあるか。
▲アド「中々。関東にはびこる程の異験がある。語つて聞かせう。ようお聞きやれ。
▲シテ「心得た。
▲アド「《語》扨も、鎌倉殿の御時、生食といふ名馬のありしを、何とかして取り放ちけん、虚空をさして逃げて行く。人々、これはこれはと先非を悔ゆう処に、某の先祖のおほぢ、御前へ出で、あの馬を某いち人して、留めて参らせうずると申されければ、物に狂ふかと云うて、どつと笑うた。
▲シテ「ほう。
▲アド「《語》鎌倉殿聞こし召し、急ぎ留めさせよ。え留めぬにおいては、くせ事に仰せ付けられうとのお事であつた。
▲シテ「ほう。
▲アド「《語》その時、先祖の祖父、おめず臆せずお前へ出で、腰なるたゝきより、膏薬を透頂香程取り出し、おゆびの腹にまんまと塗り、息をほつとしかけ、かの馬に向かひ、吸へ吸へと云はれければ、かの馬、拇の腹の膏薬に吸はれて、ぢりゝぢりゝと寄る程に、ぢたぢたぢたぢつたりと吸ひ寄せた。
▲シテ「ほう。
▲アド「《語》鎌倉殿御覧じて、扨も名誉な膏薬かな。銘はなきかとお尋ねある。只、吸ふ膏薬とばかり申し上げゝれば、か程名誉な膏薬に、銘のなきこそ不思議なれ。さあらば銘を下されうとあつて、関東一の馬吸ひ膏薬と銘を下されてよりこのかた、某が膏薬は、関東に隠れがおりない。
▲シテ「扨々、夥しい異験ぢや。さりながら、それ程の事は、こちにもある。云うて聞かせう。ようお聞きやれ。
▲アド「心得た。
▲シテ「《語》扨も平家浄海の御時、六波羅にお庭を造らせらるゝ。立て石になるおほ石を、北山より三千人して引かせ、北門までは引つ着けたれども、御門の内へ入るゝ事がならなんだ。
▲アド「ほう。
▲シテ「《語》その時、人々、これはこれはと先非を悔ゆう処に、某が先祖の祖父、罷り出で、あの石を某一人して直いて参らせうずる間、所をおさし候へと申されければ、物に狂ふかと云うて、諸人がどつと笑うた。
▲アド「ほう。
▲シテ「《語》浄海聞こし召し、急ぎ直させよ。え直さぬにおいては、曲事に仰せ付けられうとのお事であつた。
▲アド「ほう。
▲シテ「《語》その時、先祖の祖父、おめず臆せずお前へ出で、腰なる印籠より、膏薬を芥子粒程取り出し、拇の腹にひつたりと塗り、息をほつとしかけ、かの石に向かひ、吸へ吸へと云はれければ、かの石が、おゆびの腹の膏薬に吸はれて、ぢりゝぢりゝと寄る程に、ぢたぢたぢたぢつたりと吸ひ寄せた。
▲アド「ほう。
▲シテ「《語》浄海御覧じて、扨も名誉な膏薬かな。銘はなきかとお尋ねある。只、吸ふ膏薬とばかり申し上げゝれば、か程名誉な膏薬に、銘のなきこそ不思議なれ。さあらば銘を下されうとあつて、天下一の石吸ひ膏薬と銘を下されてよりこの方、某が膏薬は、天下に隠れがおりない。
▲アド「扨も扨も、夥しい異験ぢや。
▲シテ「扨、とてもの事に、薬種を明かし合はうではないか。
▲アド「一段と良からう。
▲シテ「まづ下におりやれ。
▲アド「心得た。
▲シテ「扨、そなたの膏薬には、何ぞ珍しい物が入るか。
▲アド「別に珍しい物も入らぬが。石のはらわた、木になる蛤、蚯蚓の胴骨などが入る事でおりやる。
▲シテ「扨々、それは珍しい物が入る事でおりやる。
▲アド「そなたの膏薬には、何が入るぞ。
▲シテ「身共が膏薬も、別に珍しい物も入らぬ。まづ、空を飛ぶ胴亀、地を走る雷、雪の黒焼きなどが入る事ぢや。
▲アド「扨々、それは珍しい物が入る。それを何として求むるぞ。
▲シテ「先祖の祖父の求め置かれたを、少しづゝ出いて用ゆる事でおりやる。
▲アド「某とても、その通りぢや。
▲シテ「扨、どこに付けて吸はするぞ。
▲アド「やはり、先祖の祖父の通り、おゆびの腹に付けて吸はせう。
▲シテ「いやいや。某が膏薬は、今では殊の外強うなつたによつて、拇の腹に付けて吸はせたならば、定めてかひなを吸ひ抜くであらう。かう見るに、人間の鼻といふものは、根の強いものぢやによつて、鼻に付けて吸はせうと思ふが、何とあらうぞ。
▲アド「これは一段と良からう。
▲シテ「それならば、身拵へをさしめ。
▲アド「心得た。
《太鼓座と、笛の上とへ行て、膏薬を鼻へ付くる》
▲シテ「何と、身拵へは良うおりやるか。
▲アド「中々。良うおりやる。
▲シテ「それならば、これへ出さしめ。
▲アド「心得た。
▲シテ「必ず出し抜くまいぞ。
▲アド「中々。出し抜く事ではおりない。
▲両人「吸へ吸へ吸へ。
▲アド「ほう。和御料の膏薬は、いかう強さうな。
▲シテ「そなたの膏薬も、殊の外強さうな。
▲アド「ちと、鎌倉のかたへ吸ひ寄せう。
▲シテ「いかないかな。吸はるゝ事ではおりない。
▲アド「と云うたりと、吸はずには置くまい。吸へ。
▲シテ「吸はれはせぬ。
▲アド「吸へ。
▲シテ「吸はれはせぬ。
▲アド「吸へ吸へ吸へ。
▲シテ「吸はれはせぬ、吸はれはせぬ、吸はれはせぬ。
▲アド「何と、吸うたではないか。
▲シテ「誠に、吸はれた。今度は、都の方へ吸ひ戻さう。
▲アド「いかないかな。吸ひ戻さるゝ事ではおりない。
▲シテ「と云うたりと、吸ひ戻さずには置くまい。吸へ。
▲アド「吸はれはせぬ。
▲シテ「吸へ。
▲アド「吸はれはせぬ。
▲シテ「吸へ吸へ吸へ吸へ。
▲アド「吸はれはせぬ、吸はれはせぬ、吸はれはせぬ、吸はれはせぬ。
▲シテ「何と、吸うたではないか。
▲アド「誠に、吸ひ戻された。今度は鎌倉の方へ、ねぢ引きに致さう。
▲シテ「いやいや。ねぢ引きにさるゝ事ではおりない。
▲アド「と云うたりと、ねぢ引きにせずには置くまい。吸へ。
▲シテ「吸はれはせぬ。
《同様に云うて、廻りて引く》
▲アド「何と、ねぢ引きにしたではないか。
▲シテ「誠に、ねぢ引きにされた。又、都の方へ、ねぢ戻さう。
▲アド「いかないかな。ねぢ戻さるゝ事ではおりない。
▲シテ「と云うたりと、ねぢ戻さずに置かうか。
《又、同断にして》
何と、ねぢ戻いたではないか。
▲アド「まんまとねぢ戻された。今度は鎌倉の方へ、しやくり引きに致さう。
▲シテ「いかないかな。今度こそ、しやくり引きになる事ではない。
▲アド「と云うて、しやくり引きにせずには置くまい。《又、同断に云うて、しやくり引きにする》
何と、しやくり引きにしたではないか。
▲シテ「誠に、しやくり引きにされた。又、都の方へ、しやくり戻さう。
▲アド「中々しやくり戻さるゝ事ではない。
▲シテ「と云うたりと、しやくり戻さずには置くまい。
《又、同断にして、シテ柱の際へ行きたる時、「見えたか」と云うて、膏薬を取る》
▲アド「やいやい。今のは、転うだのぢや。勝ちにはなるまいぞ。あの横着者。やるまいぞやるまいぞ。
《シテ、鼻の膏薬を取ると、アド、その儘転ぶなり》
▲シテ「勝つたぞ、勝つたぞ。
《と云うて、シテ、入る》
《薬種、右の他に、赤子の頬髭、天狗の陰干し、海の底の白鳥、空を翔くるひきがへる》
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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