『能狂言』下149 集狂言 すはじかみ
▲アド「これは、洛外に住居致す薑売りでござる。毎日、都へ商売に参る。今日も参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、さすが都でござる。かやうに毎日持つて参つても、つひに売り余いて戻つた事がござらぬ。今日も仕合せを致したい事でござる。いや、参る程に、上下の街道へ参つた。ちとこの所に休らうて参らう。
▲シテ「これは、辺土に住居致す酢売りでござる。毎日、都へ商売に参る。今日も参らうと存ずる。この辺りから、売りもつて参らう。
酢は、酢は、酢は御用にはござらぬか。酢は、酢は。
▲アド「いや。これへ何者やら参る。嚇いてやらう。
やいやいやいやい。
▲シテ「はあ。こなたは、どなたでござる。
▲アド「某を、え知らぬか。
▲シテ「いゝや。何とも存じません。
▲アド「某は、薑売りぢやいやい。
▲シテ「何ぢや。薑売りぢや。
▲アド「中々。
▲シテ「牛に喰らはれ、誑された。目代殿かと思うて、良い肝を潰いた。そちが薑売りならば、某は酢売りぢやいやい。
酢は、酢は、酢は御用にはござらぬか。
▲アド「おのれ、そのつれな事を云うて。某に一礼をせずば、その酢を売らする事ではないぞ。
▲シテ「それには又、仔細でもあるか。
▲アド「中々。仔細がある。云うて聞かせう。よう聞かしめ。
▲シテ「心得た。
▲アド「《語》扨も、からこ天皇の御時、いち人の薑売り、禁中を売りありく。みかど聞こし召し、あれはいかにと御諚ある。さん候ふ。あれは薑と申して、いかにも辛き物にて候ふと申し上ぐる。さあらば、その薑売りを召せとて召されしに、から門をからりと通り、から竹縁に畏る。御門、から紙障子をからからとあけ、からからと御感あつて、その時の御歌に、辛き物からしから蓼から蒜や、から木で焚いてから熬りにせんと遊ばされ、いかにも辛き御酒を下されてよりこのかた、某は、売り物の司を持つて居るによつて、身共に一礼をせずば、その酢を売らする事ではないぞ。
▲シテ「扨々、夥しい仔細ぢや。さりながら、それ程の事は、こちにもある。云うて聞かせう。よう聞かしめ。
▲アド「心得た。
▲シテ「《語》扨も、推古天皇の御時、いち人の酢売り、禁中を売り廻る。御門聞こし召し、あれはいかにと御諚ある。さん候ふ。あれは酢と申して、いかにもすき物にて候ふと申し上ぐる。さあらば、その酢売りを召せ{*1}とて召されしに、すい門をするりと通り、すの子縁にかすこまる。御門、すみ絵の障子をするするとあけ、するすると御感あつて、その時のみ詠歌に、すみ吉のすみにすゞめがすをかけて、さこそ雀のすみ良かるらんと遊ばされ、いかにも酸き御酢を下されてよりこの方、某も、売り物の司を持つて居るによつて、身共に一礼をせずば、その薑を売らする事ではないぞ。
▲アド「扨々、そなたの仔細も夥しい事ぢや。扨、これではいづれとも分からぬによつて、これから都へ上る路次すがら、秀句を云うて、どちなりとも云ひ勝つた者が、売り物の司を持たうと思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「これは一段と良からう。
▲アド「まづ、そなたから行かしめ。
▲シテ「先次第におりやれ。
▲アド「それならば、身共から参らうか。
▲シテ「それが良からう。
▲アド「さあさあ。おりやれ、おりやれ。
▲シテ「参る参る。
▲アド「なうなう。あれをお見やれ。
▲シテ「何とした。
▲アド「雨も降らぬに、からかさをさいて行くわ。
▲シテ「むゝ。和御料は、薑売りぢやの。
▲アド「中々。
▲シテ「薑売りに、からかさ傘からかさ。《笑うて》扨々、良い口ぢや。その後から、すげ笠をきて行くわ。
▲アド「そなたは、酢売りぢやの。
▲シテ「中々。
▲アド「酢売りに、すげ笠菅笠すげ笠。《笑うて》和御料は、殊の外良い口でおりやる。
▲シテ「いやいや。そなたの口には勝つ事はなるまい。
▲アド「いや。これこれ。あの川を、からげて渡るわ。
▲シテ「あれは、すそを濡らすまいためでおりやる。
▲アド「酢売りに、すそ裾すそ。《笑ふ》
▲シテ「薑売りに、からげてからげて。《笑ふ》
▲アド「扨も扨も、面白い事ぢや。かやうに致いて参るならば、いつ参り着くともなう、都へ上り着くであらう。
▲シテ「誠に、いつ上り着くともなう、上り着くであらう。
▲アド「いや。なうなう。あれに、子供がからかうて居るわ。
▲シテ「むゝ。和御料は、薑売りぢやの。
▲アド「中々。
▲シテ「薑売りに、からかふからかふからかふ。《笑うて》あれを、ようよう見れば、すまふをとるのぢや。
▲アド「酢売りに、すまふ相撲すまふ。《笑ふ》これこれ。あの木に、からすが居るわ。
▲シテ「その下に、雀も居るわ
▲アド「酢売りに、すゞめ雀すゞめ。《笑ふ》
▲シテ「薑売りに、からす烏からす。《笑ふ》
▲アド「扨も扨も、そなたは良い口ぢや。
▲シテ「いやいや。和御料の口には勝たれぬ。
▲アド「さあさあ。おりやれ、おりやれ。
▲シテ「参る参る。
▲アド「あの屏風をお見やれ。あれは、から絵ではないか。
▲シテ「誠に、皆、すみ絵に書いてある。
▲アド「この藪を見さしめ。皆、から竹ぢや。
▲シテ「あれをすつぱと切つて、酢筒にしたらば良からう。
▲アド「酢売りに、す筒酢筒す筒。《笑ふ》
▲シテ「薑売りに、から竹唐竹から竹。《笑ふ》
▲アド「いかないかな。そなたの口には勝たるゝ事ではないぞ。
▲シテ「いやいや。和御料の口に勝つ事はならぬ。
▲アド「扨、よくよく思ふに、かやうに云うては、果てぬ事ぢや。とかく、薑といふ物は、酢でなければ喰はれぬ物ぢやによつて、これから酢薑と云うて、両人して売り物の司を持たうと思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「これは一段と良からう。
▲アド「とてもの事に、秀句を云ひのきに致さう。
▲シテ「猶々でおりやる。
▲アド「身共は薑売りぢやによつて、からからと笑うて往なう。
▲シテ「これは一段と良からう。
《アド、真ん中へ出て、笑うて入る》
はゝあ。笑うたり、笑うたり。いや。身共は酢売りぢやによつて、あのすみからこのすみへ、すみかけて参らう。皆そこ元へ、御免すい。《秀句、この他にも、何程もあるべし。大抵を認め置く。三つ四つも云うて、留むべし》
校訂者注
1:底本は、「其酢を召せ」。
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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