『能狂言』下150 集狂言 しやてい

▲シテ「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、兄をいち人持つてござるが、あれへさへ参れば、私のある名は申さいで、舎弟、舎弟と申す。この舎弟と申す事は、良い事か悪しい事か、存じませぬ。それにつき、こゝにお目を掛けさせらるゝお方がござるによつて、今日はあれへ参り、舎弟の様子を承らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、お宿にござれば良うござるが。もしお宿にござらぬ時は、参つた詮もない事でござる。いや。参る程に、これぢや。まづ案内を乞はう。《常の如く》
只今参るも、別なる事でもござらぬ。私の兄をご存じでござるか。
▲教へ手「中々。知つて居るが、何としたぞ。
▲シテ「あれへさへ参れば、私のある名は申さいで、舎弟、舎弟と申しまする。この舎弟と申す事は、良い事か悪しい事か存じませぬによつて、教へて下されうならば、忝うござる。
▲教手「舎弟といふ事は、つゝと難しい事ぢやによつて、中々そらでは覚えぬ。こゝに書き記いた物がある。これを見て教へておまさう。まづそれにお待ちやれ。
▲シテ「心得ました。
▲教手「扨も扨も、世には愚鈍な者があるものでござる。あの年になるまで、舎弟の様子を存ぜぬと申して、習ひに参つた。あの様な者に誠を教へては、いかゞでござるによつて、筋ない事を教へ、兄と喧嘩を致させうと存ずる。
なうなう。おりやるか。
▲シテ「これに居りまする。
▲教手「扨、書き記いた物を見たが、あまり良い事でもない程に、聞かずとも置かしめ。
▲シテ「それは、心掛かりにござる。平に云うて聞かせられい。
▲教手「これを云うて聞かせたならば、定めて兄と喧嘩をするであらう。
▲シテ「いやいや。喧嘩を致す事ではござらぬ。
▲教手「それならば、云うて聞かさう。まづ、舎弟といふは、人の物を案内なしにそつと袖にくらぶるを、舎弟と申す。
▲シテ「すれば、盗人の事でござるか。
▲教手「まづは、その様なものでおりやる。
▲シテ「兄の分として、弟を盗人にするといふは、近頃腹の立つ事でござる。
▲教手「それそれ。それ、お見やれ。はや某が前でさへ、腹を立つるではないか。
▲シテ「いやいや。腹を立ては致しませぬ。扨、私はもう、かう参りまする。
▲教手「もはや、おりやるか。
▲シテ「さらばさらば。
▲教手「ようおりやつた。
▲シテ「はあ。
扨も扨も、腹の立つ事かな。兄の分として、弟を盗人にするといふは、何とも腹の立つ事でござる。まづ、急いであれへ参つて、この存分を申さずには置くまい。いや。参る程に、これぢや。
なうなう。兄者人。内にござるか。居さしますか。
▲兄「いや。舎弟が参つたと見えた。
舎弟、おりやつたか。
▲シテ「何ぢや。舎弟、おりやつたか。
▲兄「中々。
▲シテ「今までは、舎弟の様子を知らなんだによつて堪忍をしたが、向後、舎弟舎弟と仰しやつたならば、聞く事ではないぞ。
▲兄「いや。そちは殊の外機嫌が悪しいが、酒にでも酔うたか。
▲シテ「呑みもせぬ酒に酔ふものか。
▲兄「それならば、誰そ喧嘩でもしたか。
▲シテ「相手もない喧嘩がなるものか。
▲兄「して又、何が腹が立つぞ。
▲シテ「何が腹が立つと云うて、そなたの舎弟舎弟と仰しやるによつて、腹が立つ。
▲兄「すれば汝は、舎弟の様子を知らぬと見えた。まづよう聞け。てゝ親を親父と云ひ、母親をおふくろ、兄を舎兄、おとゝを舎弟と云ふは、皆世上で云ふ言葉ぢやいやい。
▲シテ「まづお聞きやれ。てゝ親をしんぷとなりとも昆布となりとも、又、母親をおふくろとなりとも段袋となりとも仰しやれ。いつ身共が舎弟した事があるぞ。
▲兄「扨又、舎弟といふは、何の事ぢやと思うて居るぞ。
▲シテ「今日、よそへ行て聞いて来たれば、舎弟といふは、人の物を案内なしにそつと袖にくらぶるを、舎弟と云ふと聞いた。そなたこそ、再々舎弟お召さりやつたれ。身共はつひに、舎弟した事はおりないぞや。
▲兄「やあら。汝は人聞き悪しい事を云ふ。いつ身共が舎弟した事があるぞ。
▲シテ「云うたならば、恥をかゝうがの。
▲兄「恥をかく覚えはない。あらば、云へ。
▲シテ「それならば、云はう。それ、先月の地蔵講は、辻の三郎が頭ではなかつたか。
▲兄「それが舎弟か。
▲シテ「まづお聞きやれ。次の間に台天目があつたれば、それをそつと舎弟したではないか。
▲兄「あれは、三郎に貰うて来た。
▲シテ「貰うて来たものが、後で打擲に遇ふものか。
▲兄「おのれは憎いやつの。兄の恥は、誰が恥ぢや。皆、おのれが恥ではないか。
▲シテ「まだある。
▲兄「あらば云へ。
▲シテ「先度、隣の在所から、まだらな牛を牽いて来て、白い所を墨で染め、ならびの市へ持つて行て、お売りやつたではないか。それは、天目舎弟のまだら舎弟といふものぢや。
▲兄「やあら。汝は、云はせて置けば方領もない。兄に恥をかゝする。おのれが様な者は、まづかうして置いたが良い。
▲シテ「兄ぢやと云うて、負くる事ではない。やあやあやあ。参つたの。勝つたぞ、勝つたぞ、勝つたぞ。
▲兄「やいやいやいやい。兄をこの様にして、将来が良うあるまい。どちへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。

底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.

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