『能狂言』下152 集狂言 あはせがき
▲立頭「これは、この辺りに住居致す者でござる。承れば、宇治の乙方の柿が、大なり致いたと申すによつて、いづれもを誘うて、乙方へ参らうと存ずる。
申し。いづれもござりまするか。
▲立衆「これに居りまする。
▲立頭「承れば、宇治の乙方の柿が、おほなり致いたと申すによつて、今日は乙方へ、柿を食べに参らうではござるまいか。
▲立衆一「これは一段と
▲立衆「良うござりませう。
▲立頭「さあさあ。ござれござれ。
▲立衆「参る参る。
▲立頭「今日は、天気も良うござるによつて、ゆるりと慰みませう。
▲立一「仰せらるゝ通り、天気も良うござるによつて、ゆるりと慰みませう。
▲立頭「いや。何かと申す内に、上下の街道でござる。ちと、この所に休んで参りませう。
▲立一「それが。
▲立衆「良うござらう。
▲シテ「これは、宇治のおちかたの者でござる。当年は、乙方の柿が大なり致いてござるによつて、毎日、都へ商売に参る。又、今日も参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、さすが都でござるわ。かやうに毎日持つて参つても、つひに売り余いて戻つた事がござらぬ。今日も、何とぞ仕合せを致したい事でござる。
▲立頭「いや。申し申し。これへ、柿売りが参る。呼うで見ませう。
▲立一「それが。
▲立衆「良うござらう。
▲立頭「いや。なうなう。そこな人。
▲シテ「こちの事でござるか。何事でござるぞ。
▲立頭「いかにも、そなたの事ぢや。その柿は、進上物か。但し、商ひ物か。
▲シテ「私は、宇治の乙方の柿売りでござるが、毎日、都へ商売に参りまする。則ち、商売物でござる。
▲立頭「何ぢや。乙方の柿売りぢや。
▲シテ「中々。
▲立頭「申し申し。乙方の柿売りぢやと申しまする。すれば、あのかたへ参るまでもござらぬ。何と、これで食べうではござらぬか。
▲立一「これは一段と。
▲立衆「良うござらう。
▲立頭「なうなう。柿売り。
▲シテ「何事でござる。
▲立頭「我々は都の者で、今日は乙方へ柿を食ひに行く処ぢや。そちが乙方の柿売りならば、皆寄つて求めてやらうと仰せらるゝが、何と、これで売るまいか。
▲シテ「それは、幸ひな事でござる。乙方へ御出なされて召し上がらるゝも、これで召し上がらるゝも、同じ事でござる。さあさあ。いづれも様。召し上がられて下されい。《と云うて、柿を出す》
▲立頭「どりやどりや。さらば柿を見ませう。いや。これは、渋さうな柿ぢや。
▲立一「いや。申し。これは、合はせ柿でござる。
▲シテ「あゝ。申し申し。いづれも様は、扨々、柿の目利きが下手な。何しに合はせ柿を持つてづるものでござるぞ。これは、乙方でもこねりと申して、いち旨い柿でござる。さあさあ。いづれも様。まづ召し上がられて御らうぜられい。
▲立頭「いやいや。とかく渋さうな柿ぢや。
▲シテ「いや。申し。何しに偽りを申すものでござるぞ。まづ召し上がられて御らうぜられい。
▲立頭「それ程旨い柿ならば、汝、喰うて見よ。
▲シテ「私の食ぶる分は、易い事でござるが、それでは旨い渋いが知れますまい。とかく、いづれも様の内で、召し上がられて見させられい。
▲立頭「いやいや。そちが食うても、旨いか渋いかは、口元で知るゝ事ぢや。平に食うて見よ。
▲シテ「それならば食べませうが、これは商売物でござるによつて、後であたひを下さるゝか。
▲立頭「中々。甘くばやらう程に、早う食へ。
▲シテ「いやいや。とかく、私が食うては知れますまい。平に一つ召し上がられい。
▲立頭「はて扨、くどい事を云ふ。そち、食うて見せいと云ふに。
▲シテ「是非とも食べいと仰せらるゝか。
▲立頭「中々。
▲シテ「後で、柿の価は下さるゝの。
▲立頭「中々。甘くば、何程なりともやらうとも。
▲シテ「いゑ。それならば、食べませう。さらば、これに致さう。
▲立頭「あゝ。いやいや。これを食うて見せい。
▲シテ「扨々、いづれもは、さすが御素人ぢや。これは、中にも旨い柿でござる。これに致しませう。
▲立頭「いやいや。その旨い柿を食へ。
▲シテ「その儀ならば、食べませう。
▲立頭「いづれも。口元を見させられい。
▲立衆「心得ました。
▲シテ「扨も扨も、旨い柿かな。
《と云うて、いかにも渋さうなる顔をして食ふを見て》
▲立頭「さればこそ、渋さうにござるわ。
▲立衆「左様でござる。
▲シテ「いや。申し申し。殊の外旨い柿でござる。平に召し上がられて見させられい。
▲立一「いやいや。渋さうな。
▲立頭「いや。これこれ。それ程旨くば、うそを吹いて見よ。
▲シテ「いや。申し。私も、さもしい商売人でこそござれ、嘘などをついた事はござらぬ。
▲立頭「いやいや。嘘ではない。うそを吹いて見よと云ふ事ぢや。
▲シテ「扨、そのうそとやらは、いかやうにして吹くものでござるぞ。
▲立頭「かやうにして吹くものぢや。
《と云うて、口笛を吹いて聞かする》
▲シテ「その事でござるか。
▲立頭「中々。
▲シテ「いゑ。それは、私の得物でござる。只今吹いて見せませう。
《と云うて、うそ吹かんとて、ぶつぶつと云ふ》
▲立頭「さればこそ、渋いわ。
《と云うて、皆々笑うて》
いざ。さらば、乙方へ参りませう。
▲立一「それが。
▲立衆「良うござらう。
▲シテ「あゝ。待たせられい。
▲立頭「何事ぢや。
▲シテ「柿を買はずば、今のあたひを置いてござれ。
▲立頭「扨々、そちは、むさとした事を云ふ。甘くばやらうと云うたに、何と、渋い柿に価がやらるゝものぢや。やる事はならぬ。
▲シテ「やあら。いづれもは、ご仁体にも似合はぬ。さすが、商売人なればこそ、今まで堪忍をして居たれ。柿を買はぬのみならず、色々の事を云うて、おなぶりやつて、あまつさへ、身共が食うた柿の価まで、おこすまいと云ふ事があるものか。どうあつても、約束ぢやによつて、取らねばならぬ。
▲立頭「やいやいやい。そこな奴
▲シテ「やあ。
▲立頭「やあとは。おのれ、憎い奴の。それ故最前、甘くばやらうと云うたに。何と、渋い柿に代物がやらるゝものか。やる事はならぬ。
▲シテ「見れば、和御料は年輩な人ぢやが、むさとした事を仰しやる。よう思うてもお見やれ。商売物を只食うて良いものか。あたひをやらうと仰しやつたによつて、食うた。どうあつても、代物を取らぬ内は、一寸でもやる事ではないぞ。。
▲立頭「いや。おのれ。柿売りづれに、推参な事を云ひ居る。そのつれを云うたらば、ために悪からうぞよ。
▲シテ「ために悪からうと云うて、何と召さる。
▲立頭「目に物を見せう。
▲シテ「それは誰が。
▲立頭「いづれも。
▲頭衆「大勢が。
▲シテ「はゝあ。いづれもは大勢、身共はいち人ぢやと思うて、侮つて仰しやるが、某も乙方では、口を利く者ぢや。いづれも大勢なりとも、恐らく怖づる柿売りではおりない。
▲立頭「ていとさう云ふか。
▲シテ「おんでもない事。
▲立頭「悔やまうぞよ。
▲シテ「何の悔やまう。
▲立頭「たつた今、目に物を見せう。いづれも。打擲致しませう。
《皆、立ち掛かつて、打擲する》
▲頭衆「憎い奴の、憎い奴の、憎い奴の。
▲シテ「あゝ。許させられい、許させられい、許させられい。
▲立頭「いづれも。これへ寄つてござれ。
《皆々、座着》
▲シテ「やいやいやいやい。卑怯者。返せ返せ返せ。《謡》
返せ、合はせ柿。
▲地「《謡》返せ合はせ柿と、云へども云へども取り残さるゝ、木守りの古への人丸、柿の本に休みて、歌を案じて、そらうそを吹かせ給ひしためしもあり。うたてや、我がうその吹かれぬ口をかきむしり、後悔しつゝ、かしらを柿の串刺しにあらねども、拾ひ入れたる渋柿を、かたげて宿へ帰りけり{*1}、かたげて宿へ帰りけり。
校訂者注
1:底本は、「かたげて宿に帰りけり、(二字以上の繰り返し記号)」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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