『能狂言』下153 集狂言 ふみやまだち
▲シテ「やれやれ。
▲アド「やるまいぞやるまいぞ。
《と云うて、アド、弓矢を持ち、先へ立ち、シテは、後より鎗を持つて出る。一遍追ひ廻して、アドは笛の上の方、シテは名乗座の方へ出る》
いや。どちやら行た。
▲シテ「何ぢや。どちへやら行た。なぜにやつたぞ。
▲アド「和御料が、やれやれと云うたによつて、和御料の等閑なうする者か、又は、一族朋友でもあるかと思うて、それ故やつた。
▲シテ「こゝな人は。やまだちの言葉を知らぬか。やれやれと云うは、やれ、捕らへいと云ふ事ぢや。
▲アド「これといふも、そなたの臆病から起こつた事ぢや。
▲シテ「それは又、なぜにぢや。
▲アド「それ。先度、上の山を山伏が通つたによつて、身共がして取らうと云うたれば、あれも、そなたがやつたではないか。
▲シテ「山伏といふ者は、腰に法螺貝を付けて居て、それを吹けば大勢友が集まるによつて、それ故やつた。
▲アド「総じて、そちと山賊をし始まつて、つひにこれぞといふ仕合せをした事がない。向後は、弓矢八幡申し通ぜぬぞ。
《と云うて、弓矢を打ち付くる》
▲シテ「むゝ。弓矢八幡申し通ぜぬと云うて、弓矢を打ち付けたは、某への面当てか。
▲アド「つら当てならば、面当てゞあらうまでよ。
▲シテ「いゑ。身共も、そなたとやまだちをし始まつてから、つひにこれぞといふ仕合せをした事がない。今日よりしては、愛宕白山申し通ぜぬぞ。
▲アド「愛宕白山申し通ぜぬと云うて、鎗をそれへ投げ付けたは、某への返報か。
▲シテ「返報ならば、返報であらうまでよ。
▲アド「何ぢや。返報であらうまで。
▲シテ「中々。
▲アド「もはや堪忍ならぬ。果たし合はう。
▲シテ「引く事ではない。
▲両人「いざ。ござれ。
《と云うて、互に刀の柄に手を掛け、襟を取つて押し合ふ》
やあやあ。やあ。
▲アド「あゝ。まづ待て待て。
▲シテ「何事ぢや。
▲アド「後ろは大きな茨叢ぢや。
▲シテ「何ぢや。いばらぐろぢや。
▲アド「中々。
▲シテ「それならば、真ん中へ出て勝負を致さう。
▲アド「それが良からう。
▲両人「やあやあやあ。
▲シテ「あゝ。まづ待て待て。
▲アド「何と。後れたか。
▲シテ「後ろはしたゝかな崖ぢや。
▲アド「何ぢや。崖ぢや。
▲シテ「中々。
▲アド「それこそ幸ひ。突き落といてやらう。
▲シテ「あゝ。これこれ。これへ落ちたならば、命があるまい。
▲アド「誠に、微塵になるであらう。
▲シテ「只尋常に、真ん中へ出て勝負を致さう。
▲アド「それが良からう。
▲両人「やあ。やあ。
▲シテ「いや。なうなう。
▲アド「何事ぢや。
▲シテ「男と男が、かう取つ組んだ健気な処を、何と、往来の人に見せたい事ではないか。
▲アド「誠に、往来の人に、この健気な処を見せたい事ぢや。
▲シテ「扨、某が思ふは、かうして死んだならば、誰あつてこの由を、妻子どもに知らせてくるゝ者もあるまい。すれば、犬死にと云ふものではないか。
▲アド「誠に、そなたの云ふ通り、誰も宿へ知らせてくれ手があるまい。
▲シテ「身共が思ふは、書置きをして死なうではあるまいか。
▲アド「これは、良い処へ気が付いた。さりながら、こう取つ組んだ手と手を、放し様があるまい。
▲シテ「それは、良い事がある。声を三つかけて、三つ目に放さう。
▲アド「これは一段と良からう。
▲シテ「それならば、掛けさしめ。
▲アド「心得た。
▲両人「やあ。ゑい。一つよ。やあ。ゑい。二つよ。
▲シテ「今一つぢや。出し抜くまいぞ。
▲アド「出し抜く事ではおりない。
▲両人「やあ。ゑい。がつきめ。やるまいぞ。
▲シテ「まづ、その手を取れ。
▲アド「まづ、和御料から取らしめ。
▲シテ「その儀ならば、相くつろぎに致さう。
▲アド「それが良からう。
▲シテ「扨、そなたは矢立を用意したか。
▲アド「いゝや。用意せぬ。
▲シテ「身共は、何ぞ良い物を取つたならば、書き記いて、後で配分をせうと思うて、矢立を用意した。
▲アド「それは良い心掛けぢや。
▲シテ「扨、某が書かう程に、そなたは文章を好ましめ。
▲アド「心得た。何とであらうぞ。
▲シテ「何とが良からうぞ。
▲アド「新春の御慶と書かしめ。
▲シテ「今死ぬるに、御慶ではあるまい。
▲アド「誠に、その通りぢや。それならば、何とが良からうぞ。
▲シテ「何とであらうぞ。
▲アド「一筆啓上せしめ候ふと致さう。
▲シテ「いやいや。一筆啓上処でもあるまい。よいよい。身共が差し心得て書かう。
▲アド「その儀ならば、良い様に差し心得て、書かしめ。
▲シテ「心得た。
▲アド「書くわ書くわ。何やら黒々に、ぴんぴんとはねて書くわ。
《シテ、書く紙を取り出し、扇子を筆にして書きて》
▲シテ「まんまと書いたわ。
▲アド「何と書いたぞ。
▲シテ「まづ、書き出しを、扨も扨もと書いた。
▲アド「はあ。誠にこれは、扨も扨も処ぢや。
▲シテ「扨も扨も、只かりそめに家を出で、山賊をし、人の物をばえ取らずして、結句友どち口論し、引くなよ、我も引かじとて、刀の柄に手を掛くる。
▲アド「がつきめ。
▲シテ「何とするぞ。
▲アド「刀の柄に手を掛くると云ふによつて。油断をする事ではないぞ。
▲シテ「今のは文章でおりやる。
▲アド「何ぢや。文章ぢや。
▲シテ「中々。
▲アド「文章ならば、それと疾う仰しやらいで。良い肝を潰いた。
▲シテ「それならば、これからは共々に読まう。これへ寄らしめ。
▲アド「心得た。
▲シテ「刀の柄に手を掛くる。
▲両人「《謡》この儘こゝにて死ぬるならば、上り下りの旅人に、踏み殺されたと思ふべし。構ひて構ひてこの事を、人々に語り伝へよと、書きとゞめたる水茎の、跡にとゞまる女房や、娘子供の吠えん事、思ひやられて哀れなり。《両人とも、泣く》
▲シテ「何と、哀れな事ではないか。
▲アド「誠に、哀れな事ぢや。
▲シテ「何と、死ぬる事を、今少し延ばさうではあるまいか。
▲アド「いかさま。少し延ばいたならば、良からう。
▲シテ「それならば、何程延ばさうぞ。
▲アド「五月ばかりも延ばさうか。
▲シテ「五月と云うては、余り僅かな事ぢや。今少し延ばさしめ。
▲アド「その儀ならば、一年か二年も延ばさうか。
▲シテ「一年、二年と云うても、夢の間ぢや。よくよく思ふに、誰見た者もなし、そなたと某さへ了簡すれば、済む事ぢやによつて、何と、死ぬる事を已めにせうではあるまいか。
▲アド「誠に、和御料と身共さへ仲を直れば、済む事ぢや程に、死ぬる事は已めに致さう。
▲シテ「とてもの事に、めでたうこの事を謡うて戻らう。
▲アド「それが良からう。
▲シテ「《謡》思へば無用の死になりと。
▲両人「思へば無用の死になりと、ふたりの者は仲直り、さるにても、かしこ過ちしつらうと、手に手を取りて我が宿に、犬死にせでぞ帰りける、犬死にせでぞ帰りける。
▲シテ「なう。お聞きやるか。
▲アド「何事ぢや。
▲シテ「そなたと某は、五百八十年。
▲アド「七廻りまでも。
▲シテ「それこそめでたけれ。こちへ渡しめ、こちへ渡しめ。
▲アド「心得た、心得た。
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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