『能狂言』下154 集狂言 いろは
▲親「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、伜をいち人持つてござるが、今日は最上吉日でござるによつて、手習ひを致させうと存ずる。まづ、かな法師を呼び出いて、申し付けう。
なうなう。かな法師。おりやるか。居さしますか。
▲シテ「呼ばせられまするか。
▲親「中々。そなたを呼び出す事、別なる事でもおりない。今日は最上吉日ぢやによつて、手習ひを教へうと思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「一段と良うござりませう。
▲親「さりながら、手習ひをするには、白い黒いを知らねばならぬが、知つて居るか。
▲シテ「白いは鷺、黒いは鴉でござる。
▲親「その事ではなけれども、それ程までに合点が行けば良い。こゝに、高野の弘法大師の作らせられた、四十八字のいろはがある。これを教へてやらう。
▲シテ「何と仰せらるゝ。高野の弘法大師は四十八にならせらるゝか。
▲親「いやいや、さうではない。弘法大師の作らせられた、四十八字のいろはといふものがある。これを教へてやらう。
▲シテ「それならば、教へて下されい。
▲親「いろはにほへと、ちりぬるをわか、ゑひもせず京と読め。
▲シテ「その様に、立て板に水を流す様に仰せられては、え覚えませぬ。おほぢの坂を上る様に、ほつくりほくりと、一字一字に教へて下されい。
▲親「これは尤ぢや。それならば、一字一字に教へてやらう。い。
▲シテ「とうしん。
▲親「何事を云ふぞ。
▲シテ「藺を引けば、灯心が出まする。
▲親「その事ではない。ろ。
▲シテ「かい。
▲親「何事を云ふぞ。
▲シテ「舟には櫓櫂がいりまする。
▲親「舟にはいらうと、これにはいらぬ。ちり。
▲シテ「やいやい。お座敷に塵がある程に、掃き集めて火にくべいやい。
▲親「やいやい。何事を云ふぞ。
▲シテ「いつも、お座敷に塵がござれば、掃き集めて火にくべまするによつて、その事かと存じてござる。
▲親「総じて、おのれが知恵は、走り知恵と云うて、何の役に立たぬ。これからは、某が云ふ様する様に、口真似をせい。
▲シテ「畏つてござる。
▲親「いろはにほへと。
《口真似する》
ちりぬるをわか。
《同断》
ゑひもせず京と読め。
《同断》
もうよい。行て休め。
《同断》
行て休めとは、おのれが事ぢや。
《同断》
おのれ、頭を張らうぞよ。
《同断》
つめらうぞよ。
《同断》
おのれは憎いやつの。口真似をせいと云へば、方領もない。親に世話をやかする。おのれが様な奴は、まづかうして置いたが良い。
《と云うて、引き廻し、打ち倒す》
▲シテ「親ぢやと云うて、負くる事ではない。やあやあ。
《と云うて、引き廻し、打ち倒いて》
参つたの。勝つたぞ、勝つたぞ。
▲親「親をこの様にして、将来が良うあるまい。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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