『能狂言』下155 集狂言 はちくれんが
▲アド「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、等閑なう致す者に、米銭の取り替へてござる。もはや、程久しい事でござれども、今に算用致しませぬ。この間も、度々人を遣はせども、留守を使ひ、たまたま内に居ては、悪口致すと申す。ならずばならぬと申して、断りを申したならば、腹も立ちませぬが、沙汰の限りな致し方でござるによつて、今日はあれへ参り、きつと算用を致させうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、世話にも申す如く、借る時の地蔵顔、なす時の閻魔顔とは、よう申した事でござる。いや。参る程に、これぢや。某が声と聞いたならば、出ますまい程に、作り声を致いて呼び出さうと存ずる。《扇をかざし》
物申。案内申。
▲シテ「はあ。表に物申とあるが、あれは確かに誰殿の声でござる。又、例の算用の事でわせたものであらう。逢うては難しい。留守を使はうと存ずる。
▲アド「物申。
▲シテ「《扇をかざして》留守。
▲アド「さう云ふは誰そ。
▲シテ「隣の者でござるが、留守を預かつて居まする。
▲アド「それならば、誰のお帰りやつたらば、さう云うてくれさしめ。誰でおりやるが、内々の算用の事で参つたれども、留守でお目に掛からいで、残念におりやる。ちとあちらへもおりやれと、良い様に云うてくれさしめ。
▲シテ「畏つてござる。
▲アド「頼むぞや。
▲シテ「はあ。
▲アド「これはいかな事。又、留守を使うた。それそれ。いつも裏道から外すと申す。裏道へ廻らう。扨々、憎い奴でござる。今度逢うたならば、致し様がござる。
▲シテ「なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと留守を使うた。さりながら、あの人は、えて小戻りをせらるゝによつて、裏道から外さうと存ずる。誠に、今日はまんまと留守を使うて、この様な満足な事はござらぬ。
▲アド「ゑい。誰。
▲シテ「ゑい。こなたはどれへござつた。
▲アド「今そなたの所へ行ておりやる。
▲シテ「これは、嬉し悲しうお目に掛かりました。
▲アド「こゝな者は。人に逢うて、挨拶の仕様こそあらうずれ、嬉しがなしいといふ挨拶があるものでおりやるか。
▲シテ「さればその事でござる。只今こなたは、私方へ御出なされてはござらぬか。
▲アド「中々。行ておりやる。
▲シテ「それに、宿に居らいで悲しうござるに、又、只今これでお目に掛かつて嬉しさに、それを寄せ合はいて、嬉し悲しいと申しましてござる。
▲アド「久しう逢はぬ内に、口上が上がつた。扨、それはともあれ、内々の算用は何と召さるゝぞ。
▲シテ「さればその事でござる。方々と才覚致いて、大方は出来よりましたが、今少し不足致いてござる。二、三日中には出来まする程に、近々にはきつと算用致しませう。今少し待つて下されい。
▲アド「和御料の今少しも、ほうど聞き飽いた。今日は、某がゝたへ連れて行て、算用さする程に、さう心得さしめ。
▲シテ「いや。今日は、ちと参らいで叶はぬ所がござる。こなたへは、明日参りませう。
▲アド「いや。その行かいで叶はぬ所を明日にして、今日は是非とも某が方へおりやれ。
▲シテ「扨々、こなたは無体な事を仰せらるゝ。とても参りたりとも算用は出来ず、明日でも苦しうござるまい。
▲アド「いやいや。算用が出来ても出来いでも、是非とも連れて行かねばならぬ。
▲シテ「それならば、ともかくもでござる。
▲アド「まづ、そなたから行かしめ。
▲シテ「まづ、こなたござれ。
▲アド「いやいや。そなたの様な者を後には置かれぬ。是非とも先へおりやれ。
▲シテ「その儀ならば、お先へ参りませう。さあさあ。ござれござれ。
▲アド「参る参る。あゝ。そなたは届かぬ人ぢや。
▲シテ「何が届きませぬ。
▲アド「使ひを遣れば留守を使ひ、たまたま内に居ては、使ひの者を悪口召さるとの。
▲シテ「いや。申し。何しにこなたのお使ひを悪口致すものでござる。それは皆、お使ひの者の申しなしでござる。
▲アド「それは、その様な事もあらう。いや。何かと云ふ内に、戻り着いた。つゝと通らしめ。
▲シテ「これが良うござる。
▲アド「いやいや。平につゝと通らしめ。
▲シテ「心得ました。
▲アド「それにとうどおりやれ。
▲シテ「畏つてござる。
▲アド「やいやい。誰を同道した程に、背戸をも門をもさいて置け。ゑい。
▲シテ「申し申し。
▲アド「何事ぢや。
▲シテ「扨々、こなたはお情けない事を仰せらるゝ。私がこれへ参るからは、逃げも走りも致しますまいに、背戸をもかどをもさいて置けとは、余りなお言葉でござる。
▲アド「いやいや。それは、聞きやうが悪しい。この様な算用の場へ、人が来ては悪しいによつて、それ故、今の通り云うた。
▲シテ「これは御尤でござる。
▲アド「さあさあ。算用さしめ。
▲シテ「追つ付け仕りませう。扨も扨も、これは久しう参らぬ内に、御普請をなされてござるの。
▲アド「そなたはこの普請を知らぬか。
▲シテ「何とも存じませぬ。
▲アド「これは、先月致いた。
▲シテ「何ぢや。先月なされました。
▲アド「中々。
▲シテ「存ぜぬこそ道理なれ。先月は田舎へ参りました。この方に居りましたならば、お手伝ひなりと致しませうものを。
▲アド「をゝ。頼まうものを。さあさあ。算用さしめ。
▲シテ「追つ付け致しませう。扨も扨も、結構な御普請かな。あれへ御勝手を取らせられてござるの。
▲アド「何と、良うおりやるか。
▲シテ「中々。一段の御勝手でござる。
▲アド「さあさあ。算用召され。
▲シテ「追つ付け仕りませう。はゝあ。これへ御床を付けさせられてござる。
▲アド「何と、良うおりやるか。
▲シテ「総じて、床と申すものは、付けにくいものぢやと申しまするが、この御座敷では、こゝならで御床の付けさせられ所はござりますまい。
▲アド「身共が物数寄ぢやが、良うおりやるか
▲シテ「一段の御物数寄でござる。
▲アド「さあさあ。算用は何と召さるぞ。
▲シテ「只今仕りませう。はゝあ。懐紙。扨も扨も、見事な御手跡でござるが、あれは、どなたの御手跡でござる。
▲アド「あれは、かな法師が手跡でおりやる。
▲シテ「やあやあ。かな法師様の御手跡ぢやと仰せらるゝか。
▲アド「中々。
▲シテ「扨も扨も、見事な事かな。慮外ながら、こなたにはならせられますまい。
▲アド「いづれもの、後には手にもならうかと仰せらるゝ事ぢや。
▲シテ「天晴な御手跡でござる。
▲アド「いゑ。懐紙に付けて、思ひ出いた。そなたは、いづれもの初心講に交じつて、推参を云ふと聞いたが、誠か。
▲シテ「いや。左様の事は致しませぬ。
▲アド「な隠しそ。口が良いと聞いた。表八句なりと致さうか。
▲シテ「一段と良うござらう。
▲アド「それならば、ろくに居さしめ。
▲シテ「心得ました。許させられい。
▲アド「扨、そなたからさしめ。
▲シテ「まづ、こなたからなされい。
▲アド「いやいや。客発句に亭主脇と申す。平にまづ、そなたからさしめ。
▲シテ「左様ならば、私を客になされまするか。
▲アド「まづ、今日の客でおりやる。
▲シテ「その儀ならば、出合ひに致しませう。
▲アド「それが良からう。
▲シテ「何とでござらうぞ。
▲アド「何とであらうぞ。
▲シテ「かうもござらうか。
▲アド「何とでおりやる。
▲シテ「花盛り。
▲アド「《吟じて》
▲シテ「御免あれかし松の風。と仕りませう。
▲アド「御免あれかし松の風。
▲シテ「中々。
▲アド「はゝあ。この間に承らぬ発句でおりやる。
▲シテ「左様に仰せらるゝな。私も致し習ひでござるによつて、悪しい所があらば、何とぞ直いて下されい。
▲アド「そう仰しやる事ぢやによつて、云うても見ようか。
▲シテ「それが良うござる。
▲アド「花盛りまでは良うおりやるが、後の御免あれかしが、何とやら気に掛かる様な。
▲シテ「はあ。この御免あれかしがの。
▲アド「中々。
▲シテ「いや。又、私はいつまでも、この御免御免で持つた句かと存じまする。
▲アド「それならば、脇の致し様があらう。何とであらうぞ。
▲シテ「何とが良からうぞ。
▲アド「かうもあらうか。
▲シテ「何とでござる。
▲アド「桜になせや雨の浮き雲。
▲シテ「《吟じて》この間に承らぬ御脇でござる。
▲アド「某も初心なによつて、あしい処をば、直いておくりやれ。
▲シテ「こなたのお句を直すと申すは、慮外にござるが、それならば、申しても見ませうか。
▲アド「それが良からう。
▲シテ「桜にまでは良うござるが、後のなせやが耳に障る様にござる。
▲アド「このなせやがの。
▲シテ「中々。
▲アド「いや。身共は幾度も、なせやなせやで持たせた句かと存ずる。
▲シテ「それならば、第三を致しませう。
▲アド「それが良からう。
▲シテ「何とてござらうぞ。
▲アド「何とであらうぞ。
▲シテ「かうもござらうか。
▲アド「はや出たか。
▲シテ「幾度も。
▲アド「《吟じて》
▲シテ「霞に佗びむ月の暮。
▲アド「恋せめかくる入相の鐘。
▲シテ「あゝ。せはしうなりました。ちと、付け延べませう。
▲アド「それが良からう。
▲シテ「鶏もせめて別れは延べて鳴け。
▲アド「人目漏らすな恋の関守。
▲シテ「名の立つに使ひなつけそ忍び妻。
▲アド「なう。こゝな人。
▲シテ「何事でござる。
▲アド「いつ、そなたの方へ名の立つ程、使ひを付けた事があるぞ。
▲シテ「まづ御心を静めて、よう聞かせられい。最前も申す通り、皆お使ひの申しなしの悪しさでござる。それ故、使ひな付けそではござらぬ。使ひな告げそ忍び妻でござる。
▲アド「むゝ。何ぢや。告げそ忍び妻。
▲シテ「中々。
▲アド「一段と良う直つた。それならば致し様がある。余り慕へば文をこそ遣れ。と致さう。
《と云うて、懐より借状を出す》
▲シテ「余り慕へば文をこそ遣れ。これは何でござる。
▲アド「それは、そなたの書いた借状ぢや。
▲シテ「いや。申し。これがこのお座敷へづる処ではござらぬ。きんきんにはきつと算用致しませう。まづ、それへ仕舞はせられい。
▲アド「いやいや。さうではない。今の句が余り良う直つたによつて、褒美にこれをおまするといふ事ぢや。
▲シテ「やあやあ。これを私へ下さるゝ。
▲アド「中々。
▲シテ「まづ以て、忝うは存じまするが、只今まで遅なはつたさへござるに、何と申し受けられませう。これは、辞退仕りまする。
▲アド「いやいや。せっかく身共が志いて遣る事ぢやによつて、平に取つて置かしめ。
▲シテ「何程に仰せられても、これは御辞退仕りまする。
▲アド「これはいかな事。人の志をもどくといふ事があるものか。平に取つて置かしめ。
▲シテ「いやいや。近々には算用致しまする。どうあつても納めて置かせられい。
▲アド「いやいや。平に取つて置かしめ。
▲シテ「幾重にも御辞退仕りまする。
▲アド「それ程に仰しやるならば、納めて置かう。
▲シテ「あゝ。申し申し。
▲アド「何事でおりやる。
▲シテ「せっかく下さるゝものを頂戴致さぬは、かへつて無礼ぢやと申しまする。これは、ありがたう頂戴致しませう。
▲アド「をゝ。それでこそ良けれ。扨、かやうに致すも、別なる事でもおりない。某も、お知りやる通り連歌に好けども、似合はしい相手がない。これからは再々来て、連歌の伽をしてくれさしめ。
▲シテ「只今まで参らぬも、これがあるによつてゞござる。これからは再々参つて、御連歌のお相手を致しませう。
▲アド「扨、某もこれに居て話したけれども、勝手にちと用の事があつて、あれへ参る。ゆるりと休んで行かしめ。
▲シテ「私も、もはやお暇申しませう。
▲アド「もはやおりやるか。
▲シテ「さらばさらば
▲アド「ようおりやつた。
▲シテ「はあ。
扨も扨も、夢の覚めた様な事ぢや。これと云ふも、日々連歌に好くによつて、天神の御納受あつての事であらう。只戻る処ではあるまい。和歌を上げて戻らう。《謡》
優しの人の心や。いつ馴れぬ花の姿の色顕はれて、この人の借り物を許さるゝ、類なの人の心や。
これさへなければ、世上に誰恐いとも存ぜぬ。
《と云うて、借状を引き裂き、丸めて打ち付けて、留める》
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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