『能狂言』下156 集狂言 むねつき

《初めは「八句連歌」と同断》
▲アド「作り声を致いて、案内を乞はうと存ずる。
物申。案内申。
▲シテ「はあ。表に物申とあるが、あれは確かに、誰殿の声でござる。又、例の算用の事でわせたものであらう。逢うては難しい。留守を使はう。
▲アド「物申。
▲シテ「留守。
▲アド「さう云ふは誰そ。
▲シテ「隣の者でござるが、留守を預かつて居りまする。
▲アド「何ぢや。隣の者ぢや。
《と云うて、シテの扇子を取る》
▲シテ「ゑ。こなたでござるか。
▲アド「あゝ。和御料は、届かぬ人ぢや。身共が来たに、何として留守を使うたぞ。
▲シテ「さればその事でござる。今日は、ちと逢ひともない者が参る筈でござるによつて、それ故、留守を使ひました。何しに、こなたと存じて留守を使ひませうぞ。近頃、面目もござらぬ。
▲アド「久しう逢はぬ内に、口上が上がつた。扨、そなたは聞こえぬ人ぢや。
▲シテ「何が聞こえませぬ。
▲アド「使ひを遣れば留守を使ひ、たまたま内に居ては、使ひの者を悪口を召さるゝと聞いた。その様な、沙汰の限りな事があるものか。
▲シテ「いや。申し。よう思し召しても見させられい。何しにこなたのお使ひを悪口致すものでござるぞ。それは皆、お使ひの申しなしの悪しさの儘でござる。
▲アド「それはともあれ、内々の算用は何と召さるぞ。
▲シテ「その事でござる。私も、方々を走り廻つて才覚致いて、大方は調ひましたが、今少し不足致いてござる。これも、近々には出来るはずでござる。今、二、三日待たせられて下されい。
▲アド「そなたの二三日にさんにちも、ほうど聞き飽いた。今日は、某がゝたへ連れて行て、算用さする程に、さう心得さしめ。
▲シテ「近頃御尤ではござれども、これまでさへ待つて下された事でござる程に、何とぞ二、三日待つて下されい。
▲アド「いやいや。二三日と云うても、又、延々になれば悪しい。どうあつても、今日は是非とも同道する程に、某が方へおりやれ。
▲シテ「その上、今日は他へ参らいで叶はぬ所がござるによつて、こなたへは明日参りませう。
▲アド「はて。その行かいで叶はぬ所を明日にして、今日は是非とも身共が方へおりやれと云ふに。
▲シテ「扨々、こなたは聞き分けもない人ぢや。参るまいではござらぬ。明日参らうと申すに、その聞き分けのないといふ事が、あるものでござるか。
▲アド「いやいや。某も云ひかゝつた事ぢやによつて、どうあつても連れて行かねばならぬ。
▲シテ「何ぢや。どうあつても連れて行かねばならぬ。
▲アド「中々。
▲シテ「いよいよ云ひたい儘な事を仰しやる。いかに身共ぢやというて、こなたの自由になるものか。その様に仰しやらば、某も、どうあつても参るまいが、何と召さる。
▲アド「それならば、腕づくで連れて行て見せう。
▲シテ「何ぢや。そなたの腕づくで。
▲アド「中々。
▲シテ「《笑うて》腕づくで行くものか行かぬものか。ならば、連れて行てお見やれ。
▲アド「云はせて置けば方領もない。身共も云ひかゝつた事を、連れて行かいで何とするものぢや。これでも行くまいか。
▲シテ「これは何と召さる。
▲アド「何とすると云うて、連れて行く。
▲シテ「いやいや。参るまい。
▲アド「どうあつても連れて行かねばならぬ。
▲シテ「あゝ痛、あゝ痛、あゝ痛。胸をしたゝかに打つた。これでは定めて死ぬるであらう。人殺しぢや。出合へ出合へ出合へ。
▲アド「あゝ。これこれ。和御料は何としたぞ、何としたぞ。
▲シテ「何としたとは情けない。身共が胸の砕くる程打つて。あれ。目が舞うて、今死ぬるわ。出合へ出合へ出合へ。
▲アド「扨々、それは気の毒な。某も、強う当たつたとは思はねども、ふと強う当たつたものであらう。怪我ぢや程に、堪忍をしてくれさしめ。
▲シテ「何ぢや。堪忍せい。
▲アド「中々。
▲シテ「なう。そこな人。世に金銭を負うせた者もあれども、金銀故に命を取られた者もないものぢや。その上、堪忍も事によつたものぢや。今死ぬる者が堪忍どころか。あゝ。人殺し。出合へ出合へ出合へ。
▲アド「あゝ。これこれ。扨々、そなたは気の弱い。それ程の事で、何と死ぬるものぢや。某も、思はず強う当たつた。その詫び言に、今までの利分をば、負けておまさうぞ。
▲シテ「はあ。利分を負けてやらう。
▲アド「中々。
▲シテ「いや。なう。この痛みが、何と利分くらゐで治るものぢや。ありやありや。胸が割るゝ様な。人殺し、人殺し。出合へ出合へ出合へ。
▲アド「あゝ。これこれ。その様に姦しう云うても、治りはすまい。まづ静かにさしめ。それならば、是非に及ばぬ。元利ともに、やつた分にせう程に、堪忍をして、早う快うなつてくれさしめ。
▲シテ「や。何ぢや。元利ともに、やつた分にせうと仰しやるか。
▲アド「中々。
▲シテ「それではちと、快うなつた様なが。やつた分では、まだ落ち着かぬ。そりやそりや。又、痛むわ痛むわ。あゝ。目が舞ふ。人殺し。出合へ出合へ出合へ。
▲アド「扨々、苦々しい。あゝ。これこれ。それならば、さつぱりと元利ともに、そなたへおまするぞ。これでは快うなるであらう。
▲シテ「やあやあ。元利ともに、さつぱりと下さるゝ。
▲アド「中々。それではもはや、云ひ分はあるまい。
▲シテ「それは近頃、忝うござる。元利ともに、さつぱりと貰うたと思へば、余程快うなつた様にござるが。はあ。まだ何とやら、借状程の物が、鳩尾へさし込むわ。ありやありや。痛や痛や。今死ぬるわ。人殺し。出合へ出合へ出合へ。
▲アド「あゝ。これこれ。扨々、そなたは姦しい人ぢや。今日はそなたに算用させうと思うて、借状も持つて参つた。これこれ。則ち、これも和御料へ遣る程に、さあさあ、早う快うなつてくれさしめ。
▲シテ「はあ。誠にこれは、私の書いた借状でござる。すれば、真実これを下さるゝか。
▲アド「中々。
▲シテ「やれやれ。それは忝うござる。それならば、引き裂いて捨てませう。
▲アド「とても遣るからは、いかやうになりともさしめ。
▲シテ「《引き裂き捨てゝ》これこれ。これで一段と快うござる。
▲アド「をゝ。それで身共も落ち付いた。それならば、立つて見さしめ。
▲シテ「慮外ながら、手を取つて下されい。
▲アド「これは尤ぢや。手を取つて遣らう。さらば、立たしめ。
▲シテ「やつとな。
▲アド「何と、良いか。
▲シテ「何ぢや。良いか。
▲アド「中々。
▲シテ「《笑ふ》
▲アド「あゝ。これこれ。和御料は、今まで胸が割るゝの、今死ぬるのと仰しやつたが、何がその様に可笑しいぞ。
▲シテ「何が可笑しいと云うて、身共はどこも打ちは致さぬが。ありやうは、あの借状が取り戻したさの調儀でおりやる。《笑うて、逃げ入る》
▲アド「なう。腹立ちや。まんまと誑された。あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
▲シテ「あゝ。許さしめ、許さしめ、許さしめ。

底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.

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