『能狂言』下157 集狂言 どひつ

▲シテ「これは、この辺りに住居致す者でござる。この間は、久しういづ方へも参らねば、心が屈して悪しうござるによつて、今日は野遊山に出うと存ずる。それにつき、こゝに等閑なう致す人がござるが、かねがね、どれへぞ行かば誘うてくれいと申されてござるによつて、これを誘うて参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、かう参つても、お宿にござれば良うござるが。もしお宿にござらぬ時は、参つた詮もない事でござる。いや。参る程にこれでござる。まづ、案内を乞はう。《常の如く》
只今参るも、別なる事でもござらぬ。今日は天気ものどかにござる程に、野遊山に参らうと存じて、かねてお約束故、お誘ひに参りました。
▲アド「やれやれ。それはようこそ誘うて下されて、忝うござる。幸ひ今日は、私も暇でござるによつて、御供致しませう。
▲シテ「扨は、ご同心でござるか。
▲アド「中々。同心でござる。
▲シテ「それは近頃、悦ばしい事でござる。いざ、さらば参りませう。
▲アド「それが良うござらう。
▲シテ「まづ、こなたからござれ。
▲アド「先次第にござれ。
▲シテ「その儀ならば、私から参りませう。さあさあ。ござれござれ。
▲アド「参りまする、参りまする。
▲シテ「今日はこなたもお暇で御供致いて、この様な満足な事はござらぬ。
▲アド「私も暇で、御供致いて悦びまする。
▲シテ「今日は、日もうらゝかにござるによつて、ゆるりと慰みませう。
▲アド「何が扨、ゆるりと慰みませう。
▲シテ「いや。何かと申す内に、これは早、野へ出ました。
▲アド「誠にはや、野へ出ました。
▲シテ「申し。見させられい。草木の青々と致いた処、又、遠山に霞のかゝつた景色などは、格別春めきまして、宿に居ると違うて、心も清々と致しまする。
▲アド「仰せらるゝ通り、広々と致いた所を見ますれば、殊の外良い慰みでござる。
▲シテ「申し申し。これに、土筆が夥しく出ました。
▲アド「いかさま、これは夥しいつくづくしでござる。
▲シテ「いざ、これを拾うて、土産に致しませう。
▲アド「これは、一段と良うござらう。
▲シテ「扨も扨も、夥しいつくづくしでござる。
▲アド「その通りでござる。
▲シテ「いや。申し申し。見させられい。中に、もはや伸び過ぎて、小首を傾け、物案じ姿になつたのもござる。
▲アド「誠に、物案じ姿になつてござる。
▲シテ「私は、このつくづくしに付けて、一首思ひ寄りました。
▲アド「扨は、歌を詠ませらるゝか。
▲シテ「中々。一首詠みませう。
▲アド「これは、承り事でござる。早う詠うで聞かさせられい。
▲シテ「つくづくしの首しをれてぐんなり。と致しませう。
▲アド「何ぢや。つくづくしの首しをれてぐんなり。
▲シテ「中々。
▲アド「ぐんなり、ぐんなり。《笑ふ》
▲シテ「申し申し。こなたは、なぜに笑はせらるゝぞ。
▲アド「いや。申し。ぐんなりと申す歌が、あるものでござるか。
▲シテ「左様に仰せらるゝな。これには、引き歌があつて詠みました。
▲アド「それは、何と申す引き歌でござるぞ。
▲シテ「ご存じなくば、云うて聞かせませう。我が恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さはぐんなり。と申す歌がござる。
▲アド「何ぢや。風さはぐんなり、ぐんなり、ぐんなり。《笑うて》
▲シテ「いや。申し。こなたは、なぜに古歌を笑はせらるゝぞ。
▲アド「それは、私がよう覚えて居りまする。慈鎮和尚の歌に、我が恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さはぐなり。とこそござれ。いつの習ひに、ぐんなり、ぐんなり、ぐんなり。《笑うて居る》
▲シテ「いや。申し申し。もはや、野辺も退屈致しました。ちと所を替へませう。
▲アド「いかさま、それが良うござらう。
▲シテ「さあさあ。ござれござれ。
▲アド「参りまする、参りまする。
▲シテ「誠に、かやうに雑談を申して笑ひまするも、一つは路次の慰みではござらぬか。
▲アド「仰せらるゝ通り、良い慰みでござる。
▲シテ「いや。何かと申す内に、これは早、沢へ出ました。
▲アド「誠に、沢へ出ました。
▲シテ「又、野とは様子も替つて、水の流れなどは、良い景色ではござらぬか。
▲アド「中々。景色も替つて、ひとしほ良い慰みでござる。
▲シテ「申し。これに何やら、見事に芽を出しました。
▲アド「誠に、何やら夥しう芽を出しました。
▲シテ「はあゝ。これは、芍薬さうにござる。
▲アド「いかさま、芍薬と見えました。それにつき、この芍薬と申すものは、花は見事なものでござるが、詩にも歌にも載つてないものでござる。
▲シテ「はあ。こなたは、芍薬の歌をご存じござらぬか。
▲アド「いゝや。何とも存じませぬ。
▲シテ「ご存じなくば、云うて聞かせませう。難波津に咲くやこの花冬籠り今は春べと芍薬の花。と詠うでござる。
▲アド「何。今は春べと芍薬の花、芍薬の花、芍薬の花。《笑ふ》
▲シテ「こなたは、なぜに又、笑はせらるゝぞ。
▲アド「これも、私がよう覚えて居りまする。それは、王仁の歌に、難波津に咲くやこの花冬籠り今を春べと咲くやこの花。とこそござれ。いつの習ひに、芍薬の花、芍薬の花、芍薬の花。《笑ふ》
▲シテ「いや。なうなう。和御料は最前から、身共が云ふ程の事をお笑やる。それ程可笑しくば、相撲を取らう。
▲アド「身共は野遊山にこそ参つたれ。相撲取りには参らぬ。
▲シテ「と云うたりとも、取らずには置くまい。
▲アド「取つたりと、負けはすまいぞ。
▲両人「いざ、ござれ。
《常の通り取つて、アド、シテを引き廻し、打ち倒す》
▲アド「参つたの。勝つたぞ、勝つたぞ。
▲シテ「やいやい。相撲は三番のものぢや。あの横着者。どれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。
《「難波津」の歌を、アドの方にて云うてもするなり。云ひ合はせ次第》

底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.

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