『能狂言』下158 集狂言 よこざ
▲アド「これは、この辺りに住居致す耕作人でござる。この間、牛を求めてござるが、良い牛か悪しい牛か、目利きを存ぜぬ。それにつき、こゝに誰と申す牛博労がござるが、牛の目利きをば、形の如くよう致すによつて、今日はあれへ牽いて参り、見て貰はうと存ずる。
させい、させい。
かう参つても、宿に居れば良うござるが。内に居らぬ時は、参つた詮もない事でござる。
《この内にシテ、一の松にて名乗る》
▲シテ「これは、この辺りに住居致す牛ばくらうでござる。この間、私が秘蔵の牛が放れて、いづ方へやら参つて、見えませぬによつて、占はせてござれば、私のかたより戌亥に当たつてあると申す。則ち、戌亥の方に当たつて、等閑なう致す人がござるによつて、今日はあれへ参り、詮議して貰はうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。
いゑ。こなたはどれへござるぞ。
▲アド「いゑ。誰。今、そなたの所へ行く処であつたが、和御料は又、どれへ行くぞ。
▲シテ「私も、只今こなたへ参る処でござつたが。こなた又、何と思し召して、私方へ御出なされまするぞ。
▲アド「別なる事でもおりない。この間、牛を求めておりやるが、良い牛か悪しい牛か知れぬによつて、和御料に見て貰はうと思うて、牽いて行く処でおりやる。
▲シテ「これは、良い処でお目に掛かりました。牛の目利きは形の如く致しまする。見て進じませう。綱をこれへ下されい。
▲アド「心得た。篤と見てくれさしめ。
▲シテ「心得ました。天角、地目、鼻水、黒舌、いち黒、ろく頭、耳少、歯違ふ。扨々、これは良い牛でござる。
《と云ひながら、綱を棄てゝ、傍へのき》
これはいかな事。あれは、某が牛ぢやが。何と致さう。
▲アド「いや。なうなう。そなたは、牛の目利きはせいで、綱を棄てゝ、なぜにそちへ行くぞ。
▲シテ「いや。この牛は、一段と良い牛ではござれども、惜しい事には疵がござる。
▲アド「はあ。見た処は見えぬが。どれにおりやるぞ。
▲シテ「いや。見た処に疵はござらぬが、この牛には、主のあるが疵でござる。
▲アド「扨々、そなたは、むさとした事を仰しやる。これは、身共が求めた牛ぢやによつて、ぬしは某でおりやる。
▲シテ「成程、こなたの求めさせられた牛ではござらうが、この牛の主は、私でござる。
▲アド「これは又、異な事を仰しやるが、そなたの牛と云ふは又、いかやうな事でおりやるぞ。
▲シテ「さればその事でござる。この間、私の秘蔵の牛が放れまして、いづ方へやら参つて、色々と捜しますれども見えませぬ程に、占はせてござれば、私の方より戌亥の方に当たつてあると申す。則ち、戌亥はこなたでござるによつて、何とぞ詮議して貰ひませうと存じて、只今こなたへ参る処でござつた。この牛は、私の秘蔵の牛でござるによつて、何とぞ私に下されい。
▲アド「扨々、これは不思議な事ぢや。さりながら、そなたの牛ならば、やるまいものでもないが、それには又、何ぞ確かな証拠でもあるか。
▲シテ「中々。証拠がござる。総じて、私は地下でも口を利く者でござるによつて、寄合の座敷では、皆の者より上座を致しまする。ある時、ぢげに寄合がござつて、皆の者どもゝ参り、私も参りましたが、宿から、牛が子を産んだと申して、しきりに呼びにおこしまするによつて、戻つて見ましたれば、この牛が生まれまして、釜の前をひよろりひよろりと致いて居りましたによつて、その儘抱き上げまして、元の寄合の座敷へ連れて参り、私は上座を致いて、その脇に牛を直いて置きましたれば、皆の者どもが申しまするは、扨々、あの牛は畜生なれども、良い所へ生まるれば、仕合せぢや。生まれながら、横座に直ると申して、それより牛の名を横座と付けまして、則ち、横座とさへ呼びますれば、その儘答へまする。これが、私の牛の証拠でござる。
▲アド「扨々、確かな証拠ぢや。その儀ならば、そなた呼うで、いらへたならば、そなたの牛に紛ひもないによつて、和御料へおまさうが、もし答へぬ時は、何と召さる。
▲シテ「はて、いらへぬ時は、牽いて戻りますまいまでの事でござる。
▲アド「いやいや。身共も、求めた牛をそなたへ遣る事ぢやによつて、それでは面白うない。もし答へずば、そなたを身共が被官に付けう。
▲シテ「何ぢや。こなたの被官に。
▲アド「中々。
▲シテ「こなたの被官には、ちと緩怠にござらう。
▲アド「それならば、牽いて戻らう。
させいほうせい。
▲シテ「あゝ。まづ、待たせられい。
▲アド「待てとは。
▲シテ「こなたの被官に付きませう程に、呼ばせて下されい。
▲アド「その儀ならば、呼ばせてやらうが。扨、それは、いか程呼ぶ事ぢや。
▲シテ「はて。いらふるまで呼びませう。
▲アド「こゝな人は。久しう呼ぶ内には、知らぬ牛でも答へう。只ひと声呼ばしめ。
▲シテ「いや。申し。人間でさへ、ひと声ばかりでは聞き付けぬ事があるものでござる。それならば、百声呼ばせて下されい。
▲アド「百声というては、夥しい事ぢや。よいよい。了簡をして、三声呼ばせてやらう。
▲シテ「三声と申しても、余り少しでござる。それならば、三十声呼ばせて下されい。
▲アド「いやいや。その様に呼ばする事はならぬ。牽いて戻らう。
させいほうせい。
▲シテ「いや。申し申し。すれば、どうあつても三声より他にはなりませぬか。
▲アド「中々。三声より他にはならぬ。
▲シテ「その儀ならば、是非に及びませぬ。三声呼びませう。扨、答へたならば、その儘牽いて戻りまするぞや。
▲アド「中々。牽いて行かしめ。もし又、いらへずば、被官に付くる程に、さう心得さしめ。
▲シテ「随分、被官に付きませう。
▲アド「それならば、早う呼ばしめ。
▲シテ「心得ました。
横座よ。
▲アド「そりや。ひと声よ。
▲シテ「これはいかな事。今、きやつがいらへうと致いたれども、こなたの声をかけさせられたによつて、答へませぬ。今度は姦しう仰せらるゝな。
▲アド「心得た。早う呼ばしめ。
▲シテ「横座よ。
▲アド「そりや。ふた声よ。
▲シテ「これはいかな事。今度こそ、まんまと答へうと致したれども、又、こなたの声に怖ぢて、いらへませぬ。
▲アド「それはともあれ、今ひと声でおりやるぞや。
▲シテ「いらふる筈でござるが。久しう私の手を離れてござるによつて、声を聞き忘れたものでござらう。ちと宣命を含めたうござる。少しの間、待つて下されい。
▲アド「それは、いかやうになりともさしめ。
▲シテ「とてもの事に、その綱をこれへ貸して下されい。
▲アド「心得た。
▲シテ「やい。汝、畜生なれども、よう聞け。《語》
扨も、人皇五十五代文徳天皇に、二人の皇子おはします。御名をば惟喬、惟仁とぞ申しける。御門崩御の後、嫡々にてましませば、惟喬こそ御代を御持ちあるべきに、惟仁、位に即き給はん事、思ひも寄らぬ御沙汰なり。しかれども、継母の計らひにより、既に勝負に定まりぬ。その時の御勝負には、十番の相撲、十番の競ひにてありしよな。いゝや。か程大事の御勝負に御祈祷なくては叶はじとて、惟喬の御祈祷人は、柿の本の貴僧正。惟仁の御祈祷人は、天台山の恵亮和尚なり。僧正は、東寺に壇を飾り、肝胆を砕き祈り給へば、ならびなき貴僧にてましますにより、十番の相撲、続けて四番、惟喬のかたに勝ち給ふ。その時、惟仁の公卿、大臣、手に汗を握り、比叡山へ御使ひ、しきりに立ちしかば、その時恵亮、五大尊を引つ立て申し、独鈷を以て頂を砕き、脳を取つて護摩に焚き給へば、その行法もや積もりけん、西方大威徳の召されたる水牛が、比叡の山響けと三声まで吼え、残り六番の相撲、惟仁の方に勝ち給ふ。こゝを以て、古人の言葉にも、恵亮なづきを砕けば、次弟位にそなはるとは、この時よりの言葉ぞかし。されば、絵に書ける牛だにも、人の心を憐みて、比叡の山響けと三声まで吼ゆる。何ぞや、おのれは、生まれたる牛の皮剥がれめが、今一声でいらへてくれねば、主をも持たぬ某に主を持たすると云ひ、勝負には負くると云ひ、又、汝には離るゝと云ひ、こゝが安否の境ぢや。今ひと声ぢや程に、答へてくれい。
横座よ。
▲牛「もう。
▲シテ「そりや。いらへました。さらば、牽いて参らう。
させいほうせい。横座よ。
▲牛「もう。
▲シテ「よういらへてくれた。
▲アド「やいやいやいやい。その綱は、身共が綱ぢや。綱をば返せ。
▲シテ「いやいや。綱も返す事はならぬ。
させいほうせい。
▲アド「やい。あの横着者。どちへ行くぞ。やるまいぞやるまいぞ。
《「その時恵亮五大尊を引き立て申し」と云ふ処へ、「その時恵亮、東方には降三世明王。南方には軍荼利夜叉明王。西方には大威徳明王。北方には金剛夜叉明王。中央には大日大聖不動明王。この五大尊を引つ立て申し、独鈷を以てなづきを砕き」と入れて、云ひもする》
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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