『能狂言』下159 集狂言 はなご

▲シテ「これは、洛外に住居致す者でござる。某、ひとゝせ吾妻へ下るとて、美濃国野上の宿、長が所に宿を取り、花子と申す女に酌をとらせてござるが、誠に、田舎とは申しながら、心言葉の優しさは、中々都にも、あれ体の女房はござるまいと存じ、上りには必ず連れて参らうと約束致いてござれば、某が上つた様子を聞いて、この間都へ上り、北白河に宿をとり、逢ひたい逢ひたいと申して、度々文をくるれども、例の山の神が、片時の間も離さぬによつて、逢ひに参る事がならいで、迷惑致す。何とがな致さうやれと存ずる処に、こゝに思案を致し出いた事がござる。まづ山の神を呼び出し、この事を申し渡さうと存ずる。
なうなう。これのは内に居さしますか。
▲女「妾を用ありさうに呼ばせらるゝは、いかやうな事でござるぞ。
▲シテ「ちと用の事がある程に、まづかう通らしめ。
▲女「心得ました。扨、御用と仰せらるれば、心元なうござるが、それは又、いかやうな事でござるぞ。
▲シテ「別の事でもおりない。この間、打ち続いて夢見が悪しいによつて、仏詣を致さうず。この事を申し渡さうと存じての事でおりやる。
▲女「扨は、御用と仰せらるゝは、その事でござるか。
▲シテ「中々。
▲女「いや。申し。こなた程のお方が、夢見などを心に掛けさせらるゝと申す事が、あるものでござるか。夢と申すものは、果敢ないもので、合ふも不思議、合はぬも不思議、只何事も、果敢ない夢の浮世でござるによつて、そつとも心に掛けさせられぬが、良うござる。
▲シテ「をゝ。そなたの仰しやる通り、金剛経にも、如夢幻泡影、如露亦如電とあれば、夢程果敢ないものはなけれども、余り打ち続いての事ぢやによつて、平に仏詣をさせてくれさしめ。
▲女「扨又、その仏詣と申すは、いかやうの事で、何程暇のいる事でござるぞ。
▲シテ「をゝ。国々の寺々を廻る事ぢやによつて、一年暇がいらうも、二年手間が取れうも、知れぬ事でおりやる。
▲女「なう。物狂やぶつきやうや。妾はこなたのお傍を、片時の間離るゝ事はなりませぬに、何と、一年二年の間が待たるゝものでござるぞ。これはなりませぬ。
▲シテ「をゝ。そなたのさう仰しやるも、某を大切に思うての事なれば、満足には存ずれど、余り打ち続いての事ぢやによつて、そなたの身の上の事でもあらうか。又は、某が身の上の事でもあらうと思へば、心に掛かつてあしい程に、是非とも仏詣をさせてくれさしめ。
▲女「それ程に思し召さば、内での行をなされたが良うござる。
▲シテ「内での行は、何がおりやる。
▲女「はて。頭香なりとも腕香なりとも、焚かせられい。
▲シテ「あゝ。勿体ない。大俗の身として、何とその様な荒行がなるものでおりやるぞ。
▲女「それならば、外へと云うては、ふつゝりとなりませぬぞ。
▲シテ「扨は、外へと云うては、ふつゝりとならぬか。
▲女「中々。なりませぬ。
▲シテ「それならば、まづ、それにお待ちやれ。
▲女「心得ました。
▲シテ「これはいかな事。苦々しい事ぢやが。何と致さう。いや。思ひ出いた。致し様がござる。
なうなう。
▲女「やあやあ。
▲シテ「その儀ならば、持仏堂に閉ぢ籠つて、七日七夜の座禅を致さう。
▲女「これは一段と良うござらう。妾が御傍に付いて居て、湯も茶も取つて進じませうぞ。
▲シテ「いやいや。座禅の間、女と目と目を見合うても、座禅が無足するによつて、そなたの見舞ふ事はなるまいぞ。
▲女「それならば、これもなりませぬ。
▲シテ「なう。これ程に思ひ立つた大望を、無足さするといふ事があるものでおりやるか。平に頼み存ずる。
▲女「あゝ。勿体ない。まづ、このお手を取つて、立たせられい。こなたも、よくよくに思し召せばこそ、女に向かうてお手を合はさせらるゝに、あれもなるまい、これもなるまいと申すは、余りでござる。その儀ならば、今夜いち夜の暇を進じませう程に、今夜一夜の座禅をなされい。
▲シテ「すれば、今夜一夜より外にはならぬか。
▲女「に夜と云うてはなりませぬ。
▲シテ「それならば、是非に及ばぬ。今夜一夜の座禅なりとも致さうまでよ。
▲女「扨又、その座禅と申すは、いかやうの事をなさるゝ事でござるぞ。
▲シテ「座禅衾といふ物を引つかづき、来し方行く末の事を悟る事ぢやによつて、はあ。窮屈な事でおりやる。
▲女「扨々、それは御窮屈さうな事でござる。その儀ならば、妾がお見舞ひ申さずばなりますまい。
▲シテ「これはいかな事。今も云ふ通り、座禅の間、女と目と目を見合うても、座禅が無足する程に、必ずお見舞やるなや。
▲女「お気遣ひなされまするな。お見舞ひ申す事ではござらぬ。
▲シテ「その儀ならば、明日は早々、お目に掛からう。
▲女「明日は早々、お目に掛かりませう。
▲両人「さらばさらばさらば。
▲シテ「いや。なうなう。
▲女「やあやあ。
▲シテ「厨騒々にして座禅得法なりがたしと云ふ事がある。必ずお見舞やるなや。
▲女「何が扨、見舞ふ事ではござらぬ。
▲シテ「明日は早々、お目に掛からう。
▲女「明日は早々、お目に掛かりませう。
▲両人「さらばさらばさらば。
《女、太鼓座へ着く》
▲シテ「なうなう。嬉しや嬉しや。今夜一夜の暇を貰うて、花子がゝたへ逢ひに参る。まづ、急いで参らう。が、女の夫をたばかるには、男の智恵には勝ると申す。堅う見舞ふまいとは申したれども、自然見舞うて、物陰からなと見て、座禅の体がなくば、某を只は置くまいが。何と致さう。いや。致し様がある。
やいやい。太郎冠者。あるかやい。
▲太郎冠者「はあ。
▲シテ「居るか居るか。
▲冠者「はあ。
▲シテ「居たか。
▲冠者「お前に。
▲シテ「念なう早かつた。まづ立て。
▲冠者「畏つてござる。扨、これは殊ない御機嫌でござりまする。
▲シテ「機嫌の良いこそ道理なれ。今夜一夜の暇を貰うて、花子が方へ逢ひに行くいやい。
▲冠者「それは一段の事でござるが、何と仰せられて、お暇を貰はせられてござるぞ。
▲シテ「さればその事ぢや。只はくれまいと思うて、今夜一夜の座禅をすると云うて、暇を貰うた。
▲冠者「これは、良い御調儀でござる。
▲シテ「扨、それに付いて、そちにちと、頼む事がある。
▲冠者「それは又、いかやうのお事でござるぞ。
▲シテ「さればその事ぢや。堅う見舞ふまいとは云うたれども、自然物陰からなと見て、座禅の体がなくば、某を只は置くまい。窮屈にはあらうずれども、今夜一夜の事ぢやによつて、座禅の体をして居てくれい。
▲冠者「畏つてはござりまするが、この儀は何とぞ、御免なされて下されい。
▲シテ「それは、なぜに。
▲冠者「あのおかみ様は、余のおかみ様と違ひまして、殊の外わゝしうござりまするによつて、この事が後日に知れましたならば、私を只は置かせられますまい。何とぞ、この事は御免なされて下されい。
▲シテ「むゝ。すれば、山の神は怖し。身共は怖うないな。
▲冠者「いや、左様ではござらぬが、この事に限つては、何とぞ御免なされて下されい。
▲シテ「良うおりやる。
▲冠者「はあ。
▲シテ「この間、花子が方へ使ひに遣ると思うて、言葉甘う云うて置けば、方領もない。この上は、座禅の体をするともさせうず。又、せずともさせうが、ていとおしやるまいか。
▲冠者「あゝ。まづ、物を云はせて下されい。
▲シテ「物を云はせいとは。
▲冠者「座禅のていを致しませう。
▲シテ「いや。おしやるまいものを。
▲冠者「いや。致しませう。
▲シテ「それは誠か。
▲冠者「誠でござる。
▲シテ「真実か。
▲冠者「一定でござる。
▲シテ「これは戯れ事。座禅の体が、して貰ひたさの儘ぢや。
▲冠者「これは、怖いおざれ事でござる。
▲シテ「まづ、かう通れ。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「扨、これに腰を掛けい。
▲冠者「これは慮外にござる。
▲シテ「窮屈にはあらうずれども、今夜一夜の事ぢやによつて、この座禅衾を引つかづいてくれい。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「堅う見舞ふまいとは云うたれども、自然見舞うて、その座禅衾を取れと云うたりとも、必ず取るな。
▲冠者「お気遣ひなされまするな。取る事ではござりませぬ。
▲シテ「明日は、早う逢はうぞ。
▲冠者「ゆるりと慰うで帰らせられい。
《シテ、走り込み、中入りする》
▲女「最前これのは、今夜一夜、持仏堂へ閉ぢ籠つて、座禅をなさるゝと仰せられてござる。それにつき、堅うお見舞ひ申すまいと、お約束は致いてござれども、承れば、余り御窮屈さうな事でござるによつて、何とも心元なうござる程に、そと物陰から見ようと存ずる。これはいかな事。扨も扨も、御窮屈さうな事でござる。あの体を見ては、中々お見舞ひ申さずには置かれぬ。
いや。申し申し。堅うお見舞ひ申すまいと、お約束は致いてござれども、余りに心元なうござるによつて、そと物陰から見ましてござるが、この体を見ましては、いかないかな、お見舞ひ申さずには居られませぬによつて、お約束をたがへてお見舞ひ申してござる。もはや、妾がお見舞ひ申してござる程に、その座禅衾を取らせられい。
▲冠者「《かぶりを振る》
▲女「嫌ぢや。近頃、御尤ではござれども、とても座禅が無足致しました事でござるによつて、是非とも取らせられい。嫌ぢや。それならば、妾が取つて進じませう。
《と云うて、無理に取り、太郎冠者を見て》
やい。おのれは憎い奴の。これのはどちへ行たぞ、どちへ行たぞ。
▲冠者「花子様へ御出なされてござる。
▲女「ゑゝ。腹立ちや腹立ちや。おのれまで、様と云ふか。めと云へいやい、めと云へいやい。
▲冠者「近頃、お腹立ちは御尤でござれども、まづお心を静めて、よう聞かせられて下されい。私も、まづかうござらう{*1}と存じて、色々御詫び言を致いてござれども、座禅の体を致さぬにおいては、お手討になされうとの御事でござるによつて、背に腹は替へられず、座禅の体を致しましてござる。私に御咎はござりますまい。何とぞ御免なされて下されい。
▲女「何ぢや。そちが座禅の体をせずば、手討にせうと云うたか。
▲冠者「中々。
▲女「すれば、汝に咎はないやい。
▲冠者「はあ。
▲女「ありやうに、花子が方へ行くと云うたならば、一夜ばかりは遣るまいものでもないに。妾をたらいたと思へば、身が燃ゆる様に腹が立ついやい。
▲冠者「近頃、御尤でござる。
▲女「扨、これからは、そちに頼む事がある。
▲冠者「それは又、いかやうな御事でござるぞ。
▲女「今までそちがして居た様に、妾を取り繕うてくれい。
▲冠者「畏つてはござりまするが、頼うだ人のお帰りなされたならば、私を只は置かせられますまい。これは、何とぞ御免なされて下されい。
▲女「いやいや。それは、そつとも気遣ひすな。そちに指なりと指さする事ではない程に、是非とも取り繕うてくれい。
▲冠者「その儀でござらば、畏つてござる。まづ、これにお腰を掛けさせらい。
▲女「心得た。
▲冠者「扨、御窮屈にはござりませうが、今少しの間でござるによつて、この座禅衾を引つかづいて居させられい。
▲女「心得た。扨、汝は、妾が云ふ事をよう聞いてくるゝによつて、何事なりとも、用の事があらば云へ。叶へて取らせうぞ。
▲冠者「それは、忝う存じまする。
▲女「又、この間、慰みに守り袋や巾着を縫うて置いた。あれを汝に取らせうぞ。
▲冠者「それは、重ね重ね、ありがたう存じまする。
▲女「扨、汝も、最前から草臥れにもあらう程に、行て休め。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「《小歌》更け行く鐘、別れの鳥も、ひとり寝る夜はさはらぬものを。あゝ、扨。柳の糸の乱れ心、いついつ忘れうぞ、寝乱れ髪の面影。私の恋は因果か縁か、因果と縁とは車の両わの如く、只かりそめにいつの春か、思ひ初めて忘られぬ、花の宴や花のえん。寺々の鐘撞くやつは憎いな、恋ひ恋ひて、稀に逢ふ夜は日のづるまでも、寝よとすれば、まだ夜深きに、ごんごんごゝん、ごゝんごうと、撞くに又寝られぬ。
いや。太郎冠者が、待ち兼ねて居らう。急いで戻らうと存ずる。《太鼓座に太刀を置き》
やいやい。太郎冠者。今戻つたぞ。あの山の神は、見舞はなんだか。むゝ。何ぢや。見舞はなんだ。それは近頃、満足した。誠に、思ひ内にあれば、色外に顕はるゝと、今夜の言の葉を、心の内に持つて居て、自然山の神に見咎められては、いかゞな。又、汝より他に語らうずる者もない処で、その座禅衾を取れと云ひたいものなれども、それを取つたならば、汝も面はゆからうず。某も恥づかしう思ふによつて、とてもの事に、その座禅衾を引つかづいて居て、聞いてくれい。むゝ。何ぢや。聞いてくれう。それは近頃、満足した。まづ、今夜遥々とあれへ行てな、内の体を聞き居たれば、花子は優しや、小歌でな。《小歌》
灯し火消えて暗うして、いともの凄き折節に、君が来たらうにや。
と、某を君にして歌はれたによつて、身共も嬉しさに、妻戸をほとほとゝ叩いたれば、内より、誰そと云うた。その時、腹が立つて。《小歌》
雨の降る夜に、誰が濡れて来うずらうに、誰そよと咎むるは、人ふたり待つ身かの、只置いて雨に打たせよとかはの。
と云うたれば。《小歌》
夜更けて来たが憎い程に。
とは歌はれたれども、何が、待ち兼ねた事なれば、内よりも、掛け金をりんと外された。その時。《小歌》
妻戸をきりゝと押し開く、御簾の追ひ風匂ひ来る、人の心の奥深き、その情けこそ都なれ、花の春、紅葉の秋、誰が思ひ寝となりぬらん。
と云うて、ひつたりといだきついたれば、花子の仰しやるは、ひと日進じた文を、さもしてお捨てやつたとの。なう。腹立ちやと云うて、突き倒された。その時。《小歌》
情けの文は小車よ、小車よ、只失うて叶ふまじ、巡り逢ふまで。
もし落ち散つて、山の神に見咎められてはと思ひ、肌の守りに掛けて居りまする。これ、御らうぜられいと云うたれば、扨は、左様でござるか。只何事も打ち捨てゝ、たまたま逢ふこそ優曇華なれ。まづ、かう通らせられいと云うて、何が、楓の様な美しい手で、某が手を取つて行かるゝによつて、身共も嬉しさに、そろりそろりと通つたれば、奥には酒をとり調へ、九献を一つきこし召せとて、差いつ差されつ、かうつこまれつ呑む程に、早、ほつてと酔うた。いざ、夜も更くる。さらば、まどろまうと云うて、とろとろとろとまどろうたれば、烏が、こかあこかあ。は。夜が明けた。さらば、戻らうと云うて、振り切つて戻つたれば、花子は優しや。送らうと仰しやつてな。《小歌》
寝乱れ髪を、ぽしやぽしやと揺り下げて、いつに忘れうぞ、面影。天竺、震旦、我が朝、三国一ぢやよの。夜はすでに明けゝれば、すごすごと扨、お帰らうよの、吹上げの真砂の数、さらばさらばよ。遥々と送り来て、面影の立つかたを返り見たれば、月細く残りたり、名残惜しやの。
誠に、思ふに別れ、思はぬに添ふと。あの美しい花子には添はいで、山の神に添ふといふは、近頃口惜しい事ぢやなあ。語るに尽きはなけれども、もはや、これまでぢや。その座禅衾を取れ。むゝ。何ぢや。嫌ぢや。誠に汝も、よしない長物語を聞いたと思うて、くねるよな。花子の仰しやるは、花中の鴬、舌は花ならねど香ばしいと。こなたの使はせらるゝ太郎冠者ぢやによつて、いつ来ても、言葉尋常に匂ひなどして、情けらしう云うてくるゝによつて、目を掛けて使へと云はれた。それを嬉しう思うて、その座禅衾を取れ。嫌ぢやと云うて、それがいつまで取らずに居らるゝものぢや。それならば、身共が取つてやらう。
▲女「やい。わ男。良い座禅の仕様の。妾をたらいて、どちへ行たぞ、どちへ行たぞ。
▲シテ「筑紫の五百羅漢へ参つた。
▲女「なう。腹立ちや腹立ちや。一夜の内に、筑紫まで行かるゝものか。ありやうに云はずば、喰ひ裂いてのけうか。引き裂いてのけうか。
▲シテ「信濃の善光寺へ参つた。
▲女「ゑゝ。まだそのつれな事を云ふか。よう花子が方へ行き居つたな。
▲シテ「あゝ。許さしめ、許さしめ、許さしめ。
▲女「やい。おのれ。今になつて、そのなりは何事ぞ。よう妾を出し抜いて行たな。あの横着者。どれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、「真斯(まつか)う御座らう」。

底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.

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