『能狂言』下160 集狂言 つりぎつね

▲シテ「《次第》《謡》別れの後に啼く狐、別れの後に啼く狐、こんくわい{*1}の涙なるらん。《地を取らず》
これは、この所に年久しく住む狐でござる。こゝに、誰と申して、大いたづら者のあるが、この間、狐を釣る程に釣る程に、某の累類を悉く釣り絶やいてござるによつて、聊爾に餌をかけにづる事がならいで、迷惑致す。何とがな致さうやれと存ずるところに、かれが伯父坊主に、伯蔵主と申してござるが、これが申す事は、たとひ、あまさかさまな事を申しても、かの者が承引致すと申すによつて、はくざうすに化けて参り、異見を申さうと存じ、かたの如くよう化けたかと存ずる。やうやう日も暮るゝ。時分も良うござるによつて、まづそろりそろりと参らうと存ずる。誠に、物には取り得がござるわ。かの者が犬などを飼うて置いたらば、かやうに参る事はなるまいに、犬を飼はぬが、これが一つの取り得でござる。これはいかな事。今、遠いで犬が啼いたれば、近くて啼くかと存じて、びつくりと致いた。これと申すも、心に誤りがあるによつて、遠いで啼く犬の声にさへ、怖づる程にの。いや。参る程に、これぢや。まづ、案内を乞はう。
物申、案内申。
▲アド「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。
いゑ、伯蔵主様でござるか。
▲シテ「をゝ。愚僧でおりやる。
▲アド「これは早、日も暮れましたに、何と思し召しての御出でござるぞ。
▲シテ「只今参るも、別なる事でもおりない。ちとそなたに異見をしたい事があつて、遥々と来てすわ。
▲アド「それは忝うござる。まづ、かう通らせられい。
▲シテ「いやいや。それへは通るまい。これで申さう。
▲アド「その儀ならば、これで承りませう。扨、御異見と仰せらるゝは、いかやうの事でござるぞ。
▲シテ「別の事でもおりない。聞けば、そなたは狐を釣るとの。
▲アド「いや。左様の事は致しませぬ。
▲シテ「な隠さしましそ。寺へ来る程の人が、そなたの甥の誰こそは、狐を釣れ。あれは、つゝと執心の深い、恐ろしいものぢやによつて、余の者にさへ異見を仰しやらうそなたが、なぜに異見を仰しやらぬぞと、来る程の人が仰しやるによつて、よもや偽りではおりやるまい。
▲アド「扨は、それ程にまで、お耳へ入りましてござるか。その儀ならば、何を隠しませうぞ。ふと人に頼まれまして、一、二疋釣りましてござるが、それより段々面白うなつて、いかさま、狐の十四、五疋も釣りませうか。
▲シテ「それそれ。それ、お見やれ。人といふものは、無い事は云はぬものでおりやる。仏の戒めにも、殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒戒とて、殺生を一のかしらに戒めて置かれた。これを、愚僧が作り出いて云ふでもない。こゝに、狐の執心の深い、恐ろしい物語がある。語つて聞かさう程に、ようお聞きやれ。
▲アド「承りませう。
▲シテ「《語》総じて、狐は、神にてまします。
▲アド「ほう。
▲シテ「《語》天竺にては、やしほの宮、唐土にては、きさらぎの宮、我が朝にては、稲荷五社の明神、これ、たゞしき神なり。まつた人皇七十四代鳥羽の院のうへわらはに、玉藻の前と云つしも、狐なり。君に御悩を掛けし故、安倍泰成占ひて、壇に五色の幣を立て、薬師の法を行ひければ、叶はじとや思ひけん、下野の国那須野の原へ落ちて行く。ごく内通のものなれば、およそにしては叶はじとて、三浦の介、上総の介、両介に仰せ付けらるゝ。両介、仰せ承り、家の面目これに過ぎじと、家の子若党引き連れて、那須野の原に下着して、犬は狐の相なれば、犬にて稽古あるべしとて、百日犬をぞ射たりける。それより犬追物といふ事、始まりたり。されば、百日に満ずる日、大きなる狐、矢先に当たつて死ぬれば、君の御悩も治らせ給ふ。なほもその執心、大いしとなつて、人間の事は申すに及ばず、畜類鳥類までも、その石の勢ひに当たつて死す。されば、殺生をする石なればとて、殺生石とは付けられたり。総じて、狐といふものは、仇をなせば、あだをなす。恩を見すれば恩を報ずる。あたかも身に影の添ふが如く、執心の深い恐ろしいものぢやによつて、この以後は、ふつゝと釣らしますな。
▲アド「扨々、かやうの恐ろしい御物語を、初めて承つてござる。この上は、ふつゝりと狐を釣る事ではござらぬ。
▲シテ「それならば、とてもの事に、その狐を釣る道具をも{*2}捨てゝくれさしめ。
▲アド「それは、こなたのお帰りなされた後で、捨てませう。
▲シテ「いやいや{*3}。愚僧が戻つた後で、その道具を見たならば、又、釣りたい心がづれば、悪しいによつて、とてもの事に、愚僧の目の前で捨てゝくれさしめ。
▲アド「その儀ならば、畏つてござる。申し。これでござる。
▲シテ「くんくん。なう。生臭や、なまぐさや。早う捨てゝくれさしめ。
▲アド「心得ました。
▲シテ「《この間に、「くんくん」と云ふ》
▲アド「申し。罠を捨てましてござる。
▲シテ「むゝ。何ぢや、罠を捨てさしまつた。
▲アド「中々。
▲シテ「やれやれ。愚僧が遥々と来て、異見を申したに、承引なくば、腹も立たうに、承引あつて、罠までを捨てゝくれさしまつて、愚僧も満足してすわ。
▲アド「何が扨、こなたの御異見でござるものを、承引致さぬと申す事がござらうか。扨、最前から余程間もござるによつて、ちと通らせられい。
▲シテ「いやいや。最前からそれへ通らなんだも、この間狐を釣つた事なれば、内もむさからう程に、清うなつて、やがて参らう。
▲アド「その儀ならば、清うなつて、やがて御出なされませい。
▲シテ「ちと寺へも渡しめ。
▲アド「参りませう。
▲シテ「愚僧が事なれば、別に馳走はおりない。昆布に山椒、良い茶を申さう。
▲アド「そのお茶が、何よりでござる。
▲シテ「構へて、茶ばかりでおりやるぞや。
▲アド「心得ました。
▲シテ「さらばさらば。
▲アド「ようござつた。
▲シテ「をゝ。
なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと異見を申して、罠までを捨てさせてござる。この様な心面白い時は、小歌節で、元の古塚へ戻らうと存ずる。《小歌》
我が古塚を、忍び忍びに立ち出でゝ、往なうやれ、戻らうやれ、我が古塚へ、しやならしやならと。
これはいかな事。誠に、きやつが心が直つて、罠までを捨てたりと存じたれば、某が帰る道の真ん中に、まんまと張り済まいて置いた。総じて、人間が我ら如きのものを見ては、野狐の心ぢやなどゝ云うて、笑ふと聞いたが。はあ。きやつは、畜生には劣つた、執心の深い、怖ろしいやつでござる。扨、某も折節、罠の辺りは通れども、いかやうの事をして若狐どもを釣る事やら、怖ろしうて、つひに見た事がござらぬ。良いついでゞござるによつて、そと見ようと存ずる。さりながら、これはちと、こは物ぢや。くんくんくん。なうなう。旨い匂ひかな。若狐どものかゝるこそは、道理なれ。上々の若鼠を、油揚げにして置いた程にの。いやいや。この様な所に長居は無用。只、道を替へて、元の古塚へ戻らうと存ずる。が、ようよう思へば、きやつは某がためには、累類の命を取つた敵ぢや。見え逢うたこそは幸ひなれ。かたき討ちを致さうと存ずる。
やい。おのれ。よう聞け。おのれが、その真つ黒な小さいなりをして、よう某が累類の命を取つたな。おのれ、それが良いか、これが良いか。只今、敵討ちをするぞ。ゑい。おのれめ、おのれめ、おのれめ、おのれめ。もはや堪忍ならぬ。飛び掛かつて喰はう。
いやいや。この重い物を着て居て喰うたならば、その儘、罠に掛かるでござらう。とてもの事に、この重い物を脱いで来て、たつた一口に致さうと存ずる。
やい。おのれ、よう聞け。今、この重い物を脱いで来て、たつた一口にする程に、そこを一寸でものいたらば、卑怯者であらうぞ。ゑい。くわいくわいくわい。
《中入り》《アド、名乗座へ立つて》
▲アド「最前、伯父の伯蔵主の参られて、某が狐を釣る事を、色々異見を申され、とてもの事に、狐を釣る道具をも捨てゝくれいと申されてござるが、何とやら不思議な事もござつたによつて、罠を捨てたと申して、則ち、捨て罠と申すものに致いて置いてござるが、今、罠の辺りで狐の啼く声が致いてござる。心元なうござるによつて、参つて見ようと存ずる。まづそろりそろりと参らう。あの伯蔵主は、つひにあの様な事を申された事がござらぬ。その上、伯蔵主の寺からは、余程隔たつてござつて、夜中などに参られた事もござらぬ。何とも合点の参らぬ事でござる。
南無三宝。さればこそ、某が申さぬ事か。毒餌を散々に致いた。これは、疑ひもない。古狐が伯蔵主に化けて参つて、某を誑いたと見えた。扨々、憎い奴でござる。何としたものであらうぞ。をゝ。それそれ。かやうに一度餌に付いては、重ねて参るものでござるによつて、今度は本罠に掛けて置いて、伯蔵主狐を釣らうと存ずる。扨々、憎い奴でござる。まづかう{*4}ござらうと存じて、某も、中々油断は致さぬ。試みに捨て罠にして置いたを、この様に散々に致いた。思へば思へば、腹の立つ事でござる。今に見居れ。この罠に掛けて、その儘打ち殺いてくれう。はあ。大方、罠も良うござる。扨、これは、どの辺りへ掛けて置かうぞ。あの山よりこの細道を通る事もあり。又、あの谷あひからこの畦道を参る事もござるが。これは、どの辺りが良からうぞ。とかく、この道が夥しう狐の通る所ぢや。さらば、こゝ元に掛けて置いて、かの伯蔵主狐を釣らうと存ずる。これこれ。一段と良うござる。扨、この辺りに忍うで居て、様子を見ようと存ずる。
《と云うて、打ち杖を持ち、笛の上に着く。中入り後、シテ、幕際にて啼く時、その方を見て、頭を下げ、忍び居る。それより、狐、一の松へ出る時も、随分頭を下げ、目を付けて居る。舞台へ入り、あなたこなたと、狐、ありく内も、いかにも忍びて、目を付けて居る。狐、罠に掛かると、打ち杖で舞台を叩きて、頭をも上ぐる。狐、罠に掛かると、シヤギリを吹く。「ホツパイヒウロヒイ」と云ふ時、外して入る》
そりや。掛かつたわ。おのれ、憎い奴の。ようもようも伯蔵主に化けて来て、某を誑し居つたな。おのれ、それが良いか、これが良いか。只今、打ち殺いてくれう。おのれ、拝うだというて、逃がさうか。ようもようもたらした。今、只ひと打ちに打ち殺すぞ。や。これはいかな事。罠を外いた。扨々、残念な事かな。やいやい。誰そ居らぬか。それへ古狐が逃げて行く。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、「喚[口歳](こんくわい)」。
 2:底本は、「狐を釣る道  も捨(すて)て」。『狂言全集』(1903)に従い補った。
 3:底本は、「いや  」。『狂言全集』(1903)に従い補った。
 4:底本は、「真斯(まつか)う」。

底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.

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