『能狂言』下163 右之外書上珍敷狂言五番 ひのさけ
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、今日は所用あつて、山一つあなたへ参るが、いつも留守になると、太郎冠者が酒を盗んでたべまする。それにつき、今日は良い事を思ひ付いてござる。両人ともに、蔵へ押し籠うで出うと存ずる。まづ、太郎冠者を呼び出ださう。
やいやい。太郎冠者。あるかやい。
▲シテ「はあ。
▲主「居たか。
▲シテ「お前に。
▲主「念なう早かつた。汝を呼び出す事、別なる事でもない。軽物蔵に用の事がある。あけてくれい。
▲シテ「畏つてござる。ぐわらりぐわらり、ぐわらぐわらぐわらぐわら。
▲主「がつきめ。
▲シテ「これは、何となさるゝぞ。
▲主「ぐわらぐわらぐわら、ばつたり。ちと思ふ仔細があつて、入れて置く。きつと這入つて居よ。
▲シテ「これは迷惑にござる。
▲主「やいやい。次郎冠者。あるかやい。
▲次郎冠者「はあ。
▲主「居たか。
▲次冠「お前に。
▲主「念なう早かつた。急に酒のいる事がある程に、酒蔵をあけて、酒を出いてくれい。
▲次冠「畏つてござる。ぐわらりぐわらり、ぐわらぐわらぐわらぐわら。
▲主「がつきめ。ぐわらぐわらぐわら、ばつたり。
▲次冠「これは、何となされまするぞ。
▲主「かやうにするも、別なる事でもない。いつも留守になると、太郎冠者が酒を盗んで呑む。とかく、そちが手伝うてやると見えた。汝は下戸ぢやによつて、酒蔵へ入れて置く。必ず人に呑ますまいぞ。
▲次冠「いや。申し。これは何とも迷惑にござる。
▲主「やいやい。両人ともに、よう聞け。いつも留守にさへなれば、酒盛をするによつて、今日は両人ともに、蔵へ入れて置く。身共は所用あつて、山一つあなたへ行く程に、盗人の入らぬ様に、よう番をせい。
▲シテ「いや。申し。何とこの体で、お留守がなるものでござるぞ。
▲次冠「盗人が這入つても、存じませぬぞ。
▲シテ「申し。頼うだ人。
▲次冠「申し。頼うだお方。
これはいかな事。はや、行かれたさうな。扨々、これは迷惑な亊かな。何としたものであらうぞ。その上、殊の外寒うなつて来た。淋しさは淋しゝ。まづ、壺の蓋を取つて、一盃呑まう。
▲シテ「申し。頼うだ人。
これはいかな事。もはや行かれたさうな。扨々、これは苦々しい事でござる。いつも両人でお留守をしてさへ淋しいに、今日は、かやうに別々に置かせらるゝ程に、ひとしほ淋しい事ぢや。さぞ、次郎冠者も淋しうござらう。きやつはどこ元へ入れられた知らぬ。いや。隣の蔵で声がする様なが。次郎冠者ではないか知らぬ。言葉をかけて見よう。
いや。なうなう。酒蔵に居るは、次郎冠者ではないか。
▲次冠「さう云ふは、太郎冠者か。
▲シテ「中々。その通りぢや。
▲次冠「はあ。そなたは軽物蔵へ入れられたか。
▲シテ「中々。身共は酒を盗んで呑むと云うて、軽物蔵へ入れられた。
▲次冠「扨々、それは悪い所へ入れられた。身共は下戸ぢやと云うて、酒蔵へ入れられたわ。
▲シテ「何ぢや。そちを下戸ぢや。
▲次冠「中々。
▲シテ「《笑うて》そなたの様な下戸に、酒蔵を預くる事は、身共は嫌でおりやるわ。
▲次冠「頼うだ人の知らせられぬが、某が仕合せぢや。殊の外寒うてならぬによつて、最前から蓋をあけて呑うで居るが、はあ。何とぞ、そなたにも一つ呑ませたい事でおりやる。
▲シテ「和御料は、はや呑むか。
▲次冠「中々。酒なりと呑まいで、何と只居らるゝものぢや。又、汲まう。むゝ。殊の外旨い事ぢや。
▲シテ「これはいかな事。又、呑むさうな。
いや。なう。次郎冠者。
▲次冠「何事ぢや。
▲シテ「扨々、そちはつれない者ぢや。いかに酒蔵に居ればとて、その様にひとり呑むといふ事があるものか。身共も寒いは同じ事ぢや。何とぞして呑ませてくれまいか。
▲次冠「そなたの云ふまでもない。身共は、一人では面白うないによつて、何とぞ和御料にも呑ませてやりたいが、何を云ふも、間を隔てゝ居るによつて、了簡に及ばぬ事ぢや。さらば、又、たべう。むゝ。旨い事ぢや。
▲シテ「これこれ。又、呑むか。
▲次冠「中々。
▲シテ「あゝ。扨々、羨ましい亊かな。何とぞ良い調儀がありさうなものぢやが。いや。良い事を思ひ出いた。
これこれ。次郎冠者。
▲次冠「何事ぢや。
▲シテ「幸ひこれに、軒垂の樋がある。これを、こちの窓からそちらへ出さう程に、何とぞ注いでくれさしめ。
▲次冠「扨々、これは一段の調儀ぢや。それならば、出さしめ。
▲シテ「心得た。そりや、そりや。
▲次冠「心得た、心得た。今、注いでやる程に、それで受けさしめ。
▲シテ「心得た。
▲次冠「そりや、そりや、そりや。
▲シテ「をゝ。来るぞ、来るぞ。
▲次冠「何と、酒が行くか。
▲シテ「中々。はや、一つあるわ。
▲次冠「何ぢや。一つある。
▲シテ「中々。
▲次冠「早う呑ましめ。
▲シテ「心得た。
▲次冠「何とあるぞ。
▲シテ「最前から、たべたいたべたいと思ふ処へ、つゝかけて呑うだによつて、只冷やりとばかりして、風味を覚えぬ。今一つ注いでくれさしめ。
▲次冠「これは尤ぢや。それならば、又注ぐぞ。
▲シテ「心得た。
▲次冠「そりや、そりや、そりや。
▲シテ「をゝ。来るわ、来るわ、来るわ。又、一つ受け持つた。
▲次冠「早うお呑みやれ。
▲シテ「心得た。
▲次冠「何とあるぞ。
▲シテ「むゝ。風味の。
▲次冠「中々。
▲シテ「いつもとは云ひながら、今日のは、格別に風味が良い様な。
▲次冠「さうであらう。これは、頼うだ人の呑み料と見えて、格別に念を入れてあつた壺でおりやる。
▲シテ「いかさま、さうであらう。殊の外良い酒ぢや。扨、そなたは最前から呑うだ程に、今一つ呑ませてくれさしめ。
▲次冠「心得た。
▲シテ「ちと謡はぬか。
▲次冠「謡はうか。
▲シテ「それが良からう。扨、一つ受け持つた。何ぞ、肴に舞はぬか。
▲次冠「何と、この様な所で舞はるゝものぢや。これは許いておくりやれ。
▲シテ「いやいや。その狭い処が面白い。平に一さし舞はしめ。
▲次冠「それならば、舞はうか。
▲シテ「それが良からう。
《何にても、短き事を舞うて良し》
やんやゝんや。骨折りに、一つ呑ましめ。
▲次冠「心得た。《又、小謡》
扨又、某も受け持つた程に、何ぞ舞はしめ。
▲シテ「易い事ぢやが、舞うても見る事があるまい。
▲次冠「舞は見えずとも、謡を聞いてなりとも慰む。その上、身共も舞うた程に、平に舞はしめ。
▲シテ「それならば、舞はう程に、謡うてくれさしめ。
▲次冠「心得た。
《「七つになる子」を舞うて、「恋しき人は見たいものぢや」と云ふ時、扇を前へなして、太郎冠者の方を見る》
やんやゝんや。
▲シテ「舞うておりやるわ。
▲次冠「今の骨折りに、又、そなたに呑まさう。
▲シテ「又、呑まするか。
▲次冠「《小謡》
▲シテ「扨、頼うだ人は、両人ともに蔵へ入れて置いたと思うて、ゆるりと慰うで居らるゝであらう。
▲次冠「仰しやる通り、ゆるりと慰うで居らるゝであらう。
《シテの小舞済むと、その儘、主、出て、「棒縛り」の如く云うて、「ぐわらぐわら」と云うて、蔵の戸をあけて、まづ、次郎冠者より先へ追ひ込む。「私は下戸でござるによつて、たべは致さぬ」と云ふ。「この様に壺の蓋を取つて、呑まぬといふ事があるものか」と云うて、追ひ込む》
▲主「扨々、憎い奴でござる。ぐわらぐわら。
やい。おのれ、よう酒を盗んで呑み居つたな。
▲シテ「いや。申し。私は軽物蔵に居まして、何と呑むものでござる。それは、次郎冠者でござる。
▲主「まだそのつれな事を云ふ。この軒垂の樋は、何事ぢや。
▲シテ「あゝ。許させられい、許させられい。
▲主「あの横着者。どちへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
《次郎冠者、追ひ込まるゝ内に、シテ、「これはいかな事。頼うだ人の戻らせられたさうな。何と致さう」と云うて、うろたへて居るなり》
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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