『能狂言』下165 右之外書上珍敷狂言五番 はなぬすびと

{後見、作り物持ちて出で、脇正面に直す。アト、出る。}
▲アド「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、この山かげに下屋敷を持つてござるが、この間は花が盛りぢやと申すによつて、今日は、花見に参らうと存ずる。それにつき、いつも辺りの若い衆を誘うて参る。今日も又、誘うて参らうと存ずる。
申し。ござりまするか。
▲立頭「これに居りまする。
▲アド「今日は、天気も良うござるによつて、下屋敷の花を見に参らうと存じて、お誘ひに参りました。
▲立頭「これは一段と良うござりませう。幸ひ、今日はいづれも、こなたのお下屋敷へ押し掛けて参らうとあつて、皆私のかたへ寄り合うて居られまする。
▲アド「扨々、それは幸ひな事でござる。その通りを仰せられて下されい。
▲立頭「心得ました。
申し申し。いづれもござりまするか。
▲立衆「これに居りまする。
▲立頭「只今、誰殿の、下屋敷へ花見に参らうと云うて、誘ひに参られてござる。
▲立衆一「これは一段の事でござる。
▲立頭「いざ、参りませう。
▲アド「それならば、こなたからござれ。
▲立頭「案内者のために、まづこなたからござれ。
▲アド「その儀ならば、私から参りませう。さあさあ。ござれござれ。
▲頭衆「参りまする、参りまする。
▲アド「天気も良うござるによつて、ゆるりと花見を致しませう。
▲立頭「何が扨、うらゝかにござる程に、随分ゆるりと花見を致しませう。
▲アド「何かと申す内に、これでござる。さあさあ。いづれも、つゝと通らせられい。
▲頭衆「心得ました。
▲アド「申し。見させられい。今日が盛りでござる。
▲立頭「誠に、真つ盛りでござる。その上、世間に良い花もござれども、この様な見事な花はござるまい。
▲立衆「その通りでござる。
▲アド「いや。申し。見させられい。何者やら、花を折つた跡がござる。
▲立頭「誠に、折り荒らいた跡がござる。
▲アド「扨々、憎いやつでござる。秘蔵の花をこの様に折ると申すは、近頃腹の立つ事でござる。
▲立頭「仰せらるゝ通り、花を荒らすと申すは、何とも心ない事でござる。
▲アド「総じて、花盗人の、瓜盗人のと申すは、花のある内、瓜のある内は、又参るものぢやと申すによつて、又、今日も参る事もござらう程に、もし参つたならば、捕らへて散々に打擲致しませうが、何とござらうぞ。
▲立頭「これは一段と。
▲頭衆「良うござりませう。
▲アド「何とぞ、花盗人が参れば良うござる。いづれも寄つて、慰うでやりたい事でござる。
▲頭衆「その通りでござる。
▲アド「その儀ならば、これへ寄つてござれ。
▲頭衆「心得ました。
《初め、アド出て、名乗りて、一遍廻りてもする。道行は常の如く、立頭、幕より出て、後は同断》
▲シテ「これは、この辺りの大寺に居る新発意でござる。某、恥づかしい申し事でござるが、さる少人と知音を致すが、殊の外の花好きでござるによつて、きのふ、よそよりの戻りがけに、とある山かげに見事な花がござつたによつて、そつと忍び入つて、ひと枝折つて参り、かの少人に進上致いてござれば、扨々、これは珍しい見事な花かな。とてもの事に、大枝を折つてくれいと仰せられた処で、盗んだ花とは申されず、中々。折つて進上致さうと、お約束を致いてござるが、亭主と知る人でござらぬによつて、所望致す事もならず、ほうど迷惑致す事でござる。是非に及ばぬ。今日もあれへ参り、忍び入つて、ひと枝取つて参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、少人に聊爾な事は申すまい事でござる。かやうの事も、度重なれば顕はるゝと申すが、さりながら、余の盗みとは違ふ程に、苦しうもあるまいかと存ずる。いや。参る程に、これぢや。やれやれ。嬉しや。路次の戸があき掛かつてある。さりながら、花主が見舞うたかも知れぬ。この間は、何心もなう折つてござるが、今日は何とやら胸騒ぎがして、恐ろしい心が出たが、苦しうあるまいか知らぬ。まづ、そつとのぞいて見よう。なうなう。嬉しや。誰も人は居らぬ。
《と云うて、そろそろと戸をあくる真似して、這入る》
さればこそ、あの見事な花は、これぢや。扨も扨も、見事な花かな。咲きも残らず、散りも初めずと云ふが、今日が真つ盛りぢや。誠に、少人の欲しがらせらるゝは、尤ぢや。扨、どの枝にせうぞ。とてもの事に、大枝に致さう。ぽつきり。
《と云うて、花を折る。初め、戸をあくる時分に、立衆、「そりや。盗人が参つた」「心得ました」「捕らへて、散々に打擲致しませう」と云ひ、花を折るを見て、立つて捕らふるなり》
▲アド「さればこそ、狼藉者よ。
▲皆々「逃がすな、逃がすな。
《と云うて、花の台を一遍追ひ廻り、出家を捕らふる》
▲アド「扨々、おのれ、憎いやつの。殊更、出家の身として、俗人よりも、猶々咎人ぢや。見せしめに、花の木へ括り付けて置きませう。
▲立頭「それが良うござらう。きつと縛めて、恥をかゝせてやらせられい。
《と云うて、花の枠の向かう正面の方へ、ぼうし布にて括りて》
▲アド「この間、花を盗んだが良いか、これが良いか。出家の恥、知らする。
▲シテ「以来は、ふつゝと参るまい。真つ平許させられい。
▲アド「扨々、憎い事を云ふ。いつまでも縛り付けて、存分にせねばならぬ。
《と云うて、笛の上へ、皆々引つ込む》
▲シテ「扨々、これは苦々しい目に遇うてござる。かやうに荒き目に遇はうと存じたならば、参るまいものを。出家の身として、縄目の恥をかくといふは、一生の恥辱でござる。いや。これに付いて、白楽天が詩を思ひ出いた。煙霞跡を埋づんで花の暮れを惜しみ、左国花に身を捨てゝ後の春を待たず{*1}。この詩の心で得道致いた。あゝ。そつとも苦しうない事ぢや。
▲アド「いや。申し。花盗人が、何やらひとり言を申しまする。
▲立頭「その通りでござる。
▲アド「問うて見ませう。
▲立頭「それが良うござらう。
▲アド「これこれ。そなたは何事を云ふぞ。
▲シテ「いや。何も云はぬ。
▲アド「これはいかな事。今云うた事は、何と云ふ事ぢや。云うて聞かさしめ。
▲シテ「そなた達の聞いて、役に立たぬ事ぢや。
▲アド「扨々、すねた事を云ふ人ぢや。平に云うて聞かさしめ。
▲シテ「それならば、云うて聞かさう。昔、もろこしに左国といふ人があつたが、花に戯れ、山谷を見廻りありきしが、花故、心をそらにして、峩々たる谷に落ちて、むなしうなられた。某も、まづその如く、この様な縄目に遇ふも、花故なれば、少しも苦しうない。あゝ。侘び候ふまじや。侘び候ふまいぞ。
▲アド「何と云うても、許す事ではないぞ。
▲シテ「出家を斬つて、手柄にさしめ。
▲アド「出家が盗みをするものか。
▲シテ「いや。余の盗みとは違うて、花を折つては苦しうない古歌がおりやる。
▲アド「これは、聞き及ばぬ。花を盗んで咎にならぬ歌があらば、仰しやれ。あるまいぞ。
▲シテ「それならば、読うで聞かさう。素性法師の歌に、見てのみや人に語らん山桜手ごとに折りて家づとにせん。とある時は、折つても苦しうあるまいがの。
▲アド「さういふ歌もあらうが、又、こちには、折れば咎になるといふ歌がある。
▲シテ「それは、何といふ歌ぢや。
▲アド「折りつればたぶさにけがる立ちながら三世の仏に花奉る。と聞く時は、咎になるではないか。
▲シテ「まだこちには、苦しうないといふ古歌がある。
▲アド「それは、何といふ歌でおりやる。
▲シテ「大友黒主の歌に、道の辺のたよりの桜折りつれて薪や重き春の山人。とある時は、咎にはなるまいぞ。
▲アド「扨々、そなたは近頃、面白い人ぢや。さあらば、縄目を解いてやらう。さりながら、只は許されぬ。その体を題にして、当座を詠うだならば、縄目を解いてやらう。
▲シテ「それは近頃、易い事。詠うで聞かさう。何とでおりやるぞ。
▲アド「何とであらうぞ。
▲シテ「かうもあらうか。
▲アド「何と。
▲シテ「この春は。
▲アド「《吟ずる》
▲シテ「花の元にてなは付きぬ。
▲アド「《吟ずる》
▲アド「烏帽子桜と人や見るらむ。と致さう。
▲アド「一段と面白い。
申し申し。只人とは思へぬ程に、縄目を許いてやりませう。
▲立頭「それが良うござらう。
▲アド「さらば、解いておまさう。
▲シテ「いやいや。苦しうない。いつまでもこの様にして、存分にさしめ。
▲アド「扨々、すねた事を云ふ人ぢや。さあさあ。解いた程に、この花を持つて、疾う疾う帰らしめ。
▲シテ「これは近頃、忝うござる。扨、いづれも聞かせらるゝか。
▲アド「何事でおりやる。
▲シテ「総じて、昔より、花盗人には酒を盛るものぢやと云ふ程に、酒を呑まずば、え戻りますまい。
▲アド「これは、盗人に負ひといふものぢやが、近頃面白い人ぢやによつて、酒を振舞ひませう。
まづ、下にござれ。
▲シテ「これは、忝うござる。
《これより、「花折」同断。「あはれひと枝」を舞ひ、又、所望の時、「放下僧」を舞ひて、仕舞ひに、花の枠に掛かり、「とてもの事に、この大枝をも貰ひまする」と云うて、又、大枝を折りて、よろけよろけ、逃げ入る。立衆、追ひ込む》

〇又、長き仕様あり。初め、アドは同断。
▲シテ「これは、この辺りの大寺に居る三位でござる。昨日、所用あつて、山一つあなたへ参り、その帰るさに、とある山かげを通つてござるが、いかさま、由ある人の下屋敷と見えて、良い庭に色美しい花が、今を盛りと咲き乱れてござつたによつて、そつと忍び入つて、ひと枝手折り、戻つて、ある児へ進上致いてござれば、余の児達の見られまして、こゝへもかしこへもくれいと云はれまするによつて、今日は急ぎました程に、只ひと枝折つて参つてござる。その儀ならば、明日取つて参つて進上致さうと申してござれば、今朝未明から、某が部屋へ参られて、昨日約束の花をくれいくれいと申して、ねだられまする。いづれ、幼い人に聊爾な事は申さぬ事でござる。是非に及びませぬ。又、昨日の所へ参つて、花を取つて参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、昨日は、参り掛かりにふと取つてござるによつて、何とも存ぜなんだが、今日は何とやら恐ろしい心が出たが、苦しうあるまいか知らぬ。さりながら、人遠い山かげの下屋敷でござるによつて、早速花主も見舞ふまいかと存ずる。いや。参る程に、これぢや。さればこそ、はやこれから、花が見事に見ゆる。人は居らぬか知らぬ。はあ。人音もせぬ。人はないさうな。さらば、昨日の垣の隙からくゞらう。ゑいゑい。やつとな。あら心安や。誰も居らぬ。扨も扨も、見事な花かな。咲きも残らず、散りも初めずと申すが、今日が真つ盛りぢや。梢々は、さながら白雲のたなびいた如く、はあ。扨々、見事ではあるぞ。扨、これはどの枝に致さう。はあ。これが良い枝ぢや。これに致さう。いやいや。これは、見付きの枝ぢや。盗むさへあるに、見付きの枝を折ると申すは、余り心ない事ぢや。いや。この枝に致さう。
《この内に、亭主、聞き付け、立つて》
▲アド「いや。申し。花盗人が参りました。いづれも。頼みまするぞ。
▲頭衆「心得ました。
▲アド「花に手をさへたならば、捕らへませう。
▲立頭「それが。
▲頭衆「良うござらう。
▲シテ「この枝が良い。ぽつちり。
▲アド「それ。狼藉者を捕らへて下されい。
▲シテ「あゝ。真つ平許させられい、許させられい。
▲アド「おのれ。逃げたというて、逃がさうか。それ。それへ逃げまする。
▲頭衆「心得ました。
▲シテ「これは、何と召さるぞ。
▲立頭「何とするとは。憎いやつの。よう花を荒らし居つたな。
▲シテ「以来は、ふつゝと参るまい。何とぞ許させられい。
▲アド「ものを云はせずとも、早う縄をかけさせられい。
▲頭衆「心得ました。
▲アド「申し。これは、花盗人でござる程に、花の木へきつと縛めさせられい。
▲頭衆「心得ました。
▲シテ「いや。なうなう。聊爾を召さるゝな。これは、盗人ではおりないぞや。
▲アド「花を盗みながら、盗人でないと云ふ事があるものか。
▲シテ「いや。身共は花を見物に参つた。
▲アド「花を見物に来た者が、案内なしに庭へ入るものか。
▲シテ「はあ。そなた達は、むくつけな人ぢや。遥かに人家を見て花あれば則ち入る。貴賤と親疎とを論ぜず{*2}。とこそあれ。その上、あるじに問うたれば、這入つて見よと云うたによつて、それ故這入つた。
▲アド「何ぢや。主に問うた。
▲シテ「中々。
▲アド「いよいよ妄語を云ふ。主は某ぢやに、いつ断つたぞ。
▲シテ「はあ。そなたは心ない人ぢや。行き暮れてこの下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし。と云ふ時は、花も主であるまいか。
▲アド「それは聞こえたが、花が物を云ふものか。
▲シテ「軽漾激して影唇を動かせば、花の物云ふは理なり。と聞く時は、花も、物を云ふまいものでもおりないわ扨。
▲アド「それ程心ある者が、なぜに花を折つたぞ。
▲シテ「いや。花を折つた分には、咎にならぬ古歌がおりやる。
▲アド「こゝな人は。花を折つて、咎にならぬといふ事があるものか。
▲シテ「をゝ。知らずば云うて聞かさう。素性法師の歌に、見てのみや人に語らん山桜手ごとに折りて家づとにせん。とある時は、何と咎にはなるまいぞ。
▲アド「いや。こちにも咎になるといふ古歌がある。
▲シテ「それは、何といふ歌ぢや。
▲アド「折りつれば手ぶさに穢る立ちながら三世の仏に花奉る。と云ふ時は、折つて咎になるではないか。
▲シテ「さう詠うだ歌もあらうが、大友黒主の歌に、道の辺のたよりの桜折りつれて薪や重き春の山人。と云ふ時は、折つても苦しうあるまいがの。
▲アド「いや。申し。いづれも。きやつは、縄目を許されたう存じて、色々の事を申しまする。
▲立頭「左様でござる。
▲アド「あの様な者には、構はぬが良うござる。
▲立頭「その通りでござる。
▲シテ「あゝ。これこれ。今云うた通り、他の盗みとは違うて、花を折つては苦しうない事ぢや。早うこゝを許いてくれさしめ。いや。なう。
これはいかな事。どれへやら行た。あゝ。これは苦々しい事に遇うた。かやうの荒き目に遇はうと存じたならば、参るまいものを。出家の身として、縄目に遇ふといふは、一生の恥辱でござ候ふ。はあ。それそれ。煙霞跡を埋づんで花の暮れを惜しみ、左国花に身を捨てゝ後の春を待たず{*3}。あゝ。この詩の心で、得道致いた。あゝ。侘び候ふまじや。侘び候ふまいぞ。
▲アド「いや。申し申し。きやつは、何やらこびた事を申しまする。
▲立頭「誠に、何やらひとり言を申しまする。
▲アド「問うて見ませう。
▲立頭「それが。
▲頭衆「良うござらう。
▲アド「いや。なうなう。今云うたは何事ぢや。
▲シテ「そなた達が聞いて、役に立たぬ事ぢや。聞かずとも置かしめ。
▲アド「その様な事を云はずとも、平に云うて聞かさしめ。
▲シテ「それならば、云うて聞かさう。煙霞跡を埋づんで花の暮れを惜しみ、左国身を捨てゝ後の春を待たず。と云ふ事よと云うては、合点が行くまい。この詩は、唐の白楽天が詩ぢやが、この詩の心は、昔、もろこしに左国といふ人があつて、あくまで花に好かれたるが、ある春の事なりしに、花を求めかね、深山へ分け入りしに、高々たる峯に花の咲き乱れしを見付けて、嬉しさの余り、花にばかり目を付けて行く程に、つひに峩々たる谷に落ちて、むなしうなられた。某も、まづその如く、花故捨つる命なれば、左国が心にも叶ふと思へば、露程も命は惜しまぬ。さあさあ。これへ寄つて、命を取らしめ、命を取らしめ。
▲アド「何と云ふとも、縄目を許しはせぬぞ。
▲シテ「をゝ。出家を斬つて、手柄にさしめ。
▲アド「いや。申し申し。
▲立頭「何事でござるぞ。
▲アド「あれは、只人ではござるまい。私の存じまするは、あの体を題に致いて、当座を詠ませて、縄目を許いてやらうと存じまするが、何とござらう。
▲立頭「一段と。
▲頭衆「良うござらう。
▲アド「いや。なうなう。それならば、その体を題にして、当座を詠うだならば、縄目を許いておまさうぞ。
▲シテ「いや。命を助かりたうはない程に、歌を詠む事は、嫌ぢや。
▲アド「いや。申し申し。きやつは、古歌は覚えて居まするが、当座を詠む事はならぬと見えまする。
▲立頭「いかさま、当座はできぬと見えました。
▲シテ「いや。なうなう。御亭主。あゝ。そなたは、人を侮つた事を仰しやる。身共は、命が助かりたうない程に、歌を詠むまいと思へども、余りな事を仰しやる程に、詠うで聞かせう。よう聞かしめ。
▲アド「心得た。
▲シテ「かうもあらうか。
▲アド「はや出たか。
▲シテ「この春は。
▲アド「この春は。
▲シテ「花の元にてなは付きぬ。
▲アド「名は付きぬ。
▲シテ「烏帽子桜と人や見るらむ。
▲アド「天神ぞ、ござりますまい。
▲立頭「玉津島も、ならせられますまい。
▲アド「縄目を許しませう。
▲立頭「それが良うござらう。
▲アド「いや。申し申し。そなたは、只人ではござるまい。縄を解いて進じませう。
▲シテ「いやいや。某は、許されたうもおりない。その儘置いて、存分にさしめ。
▲アド「近頃聊爾を致いて、面目も御座らぬ。さあさあ。解きませう。
▲シテ「いやいや。この儘にして置かしめと云ふに。
▲アド「最前から、さぞ窮屈にござらう。
▲シテ「これは近頃、忝うござる。ありやうは最前から、縄を解いて貰ひたうござつた。
▲アド「定めて左様でござらう。
▲シテ「扨、いづれもは、花見の御趣向と見えました。私にも、酒を一つ振舞うて下されい。
▲アド「こゝな人は。花を折らるゝさへあるに、何と酒が振舞はるゝものでござるぞ。
▲シテ「これも、振舞うても苦しうない仔細がござる。
▲アド「それは、何といふ事でござるぞ。
▲シテ「云うて聞かせませう。よう聞かせられい。
▲アド「心得ました。
▲シテ「昔、定家、家隆といふ、一双の歌人がござつた。定めて御存じでござらう。
▲アド「承り及うだ歌人でござる。
▲シテ「その正三位家隆の子息に、隆尊禅師といふ人がござつたが、諸国を修行召され、筑紫辺りの事にてもやありけん、折節、春の事なるに、とある地頭の庭に、この様な美しい花が、今を盛りと咲き乱れてあつたを、かの隆尊の見られて、余りの見事さに、何心もなくひと枝手折られけるを、主見付けて、それ、花盗人よ。捕らへいと云うて、今日某を縛めさせられた如く、隆尊を縛めければ、その時隆尊の歌に、白波の名には立つとも吉野川花故沈む身をば厭はじ。と詠まれければ、主、これを聞きて、扨々、か程に心ある人を縛めける事の、恥づかしやとて、かの隆尊を上座に直し、酒を盛られたといふ事がござる。それよりして、花盗人には酒を盛るものぢやと申す程に、某も、酒をたべずば、え戻りますまい。
▲アド「これは、尤でござる。それならば、酒を盛りませう程に、まづ下にござれ。
▲シテ「心得ました。
《これよりは、初めの通りなり》

校訂者注
 1~3:底本は、漢詩の訓読文であるが、ここでは振り仮名を元に、書き下して示した。

底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.

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