ことし霜月、寧楽に上る際になん当たれり。古きより伝ふる本は、形大にして、携ふるにいと便り悪しゝ。よつて、旅に便り良からん事を思ひて、皐月ばかりに筆を執り初めぬ。されど、世の営み、なきにしもあらず。元より拙き手して書くなれば、秋も末になれども、いまだ半ばも終はらず。庭の木の葉の色付くを見て、頓の事に思ひなし、俄かに心息まき、文字仮名のたがひを正すにも及ばず、又、あだし人に見すべき物にもあらねば、ゆくりなく書きなせしなり。猶、この後、暇を得たらん折しも、書き改めむ事を思ふのみ。
  寛政四の年神無月末の五日
秦忌寸虎寛

底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.