狂言二十番 03 靭猿(うつぼざる){*1}

▲シテ「隠れもない大名です。召し使ふ者を呼び出だいて、談合致す事がござる。
太郎冠者、居るかやい。
▲太郎冠者「はあ。
▲シテ「あるか。
▲冠者「お前に。
▲シテ「汝を呼び出すは、別の事でもない。この間は、いづ方へも行かねば、気が屈したによつて、今日は、例の狩りに出ようと思ふが、何とあらうぞ。
▲冠者「内々、私のかたより申し上げようと存ずる処に、仰せ出だされた。一段と良うござりませう。
▲シテ「それならば、行かう。さあさあ。来い来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「やい。何と思ふぞ。かやうに自身、弓矢をかたげ、折々狩りに出るといふ事を、下々では、何とも取り沙汰はせぬか。
▲冠者「さればその御事でござる。折々の御狩りでござるによつて、さぞ御物数寄でござらうと、これのみ、しもじもまでも取り沙汰致しまする。
▲シテ「今日も、何ぞ良い物に行き合ひ、矢坪の細かい所を、汝に見せたい事ぢや。
▲冠者「拝見致したい事でござる。
▲猿引「これは、この辺に住居致す猿廻しでござる。今日も、檀那廻りを致さうと存ずる。まづ、そろりそろりと参らう。
▲シテ「やいやい。あれへ何やら引いて来るが、あれは何ぢやな。
▲冠者「されば、何でござるか。
▲シテ「顔が赤いによつて、猿であらう。
▲冠者「誠、猿でござりませう。
▲シテ「まづ、某、言葉をかけて見よう。
▲冠者「良うござりませう。
▲シテ「やあやあ。
▲猿引「はあ。
▲シテ「その猿は、今、山から引いて来るのか。但し、いづ方へぞ進上に連れて行くか。
▲猿引「私は、この辺に住居致す猿廻しでござる。
▲シテ「さぞ、良い猿であらう。
▲猿引「随分と、良い猿でござる。
▲シテ「やいやい。これへ引いて出よと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。あれへ引いて出よと仰せらるゝ。
▲猿引「畏つてござる。
やいやい。それへ出よ。
▲シテ「やいやい。遠いから見たとは違うて、毛の込うだ、見事な猿ぢやな。
▲冠者「見事な猿でござりまする。
▲シテ「この猿の皮は、何にぞなりさうなものぢや。
▲冠者「はあ。
▲シテ「やあら、何にがな、ならうやれ。
▲猿「きやあ、きやあ、きやあ。
▲猿引「申し申し。わゝしうござる、わゝしうござる。
▲冠者「わゝしくばわゝしいと、初めから仰しやつたが良うおりやる。
▲猿引「宜しう仰せ上げられて下されい。
▲シテ「やいやい。太郎冠者。叱るな、叱るな。これへ来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「行て云はうには、猿引きに、良い猿を持つて、羨ましうこそあれ。さうあれば、初めて逢うて云ふは、いかゞなれども、ちと無心があるが、聞いてくれられうかと云うて、問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。御意なさるゝは、猿引きに、良い猿を持つて、お羨ましう思し召す。さうあれば、初めてお逢ひなされて仰せらるゝは、いかゞなれど、ちとご無心があるが、聞いてくれうかと仰せらるゝ。
▲猿引「私風情に御無心のござらうとは存じませぬが、似合ひました御用ならば、畏つたと仰せられい。
▲冠者「心得た。
申し申し。左様に申してござれば、私風情にご無心のござらうとは存じませぬが、似合ひましたご用ならば、畏つたと申しまする。
▲シテ「それならば、一礼を云はずばなるまい。
▲冠者「良うござりませう。
▲シテ「やあやあ。
▲猿引「はあ。
▲シテ「無心を云はうと云ふ処に、聞いてくれうとあつて、過分に存ずる。
▲猿引「これは、結構なお礼でござる。
▲シテ「太郎冠者。これへ来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「無心と云つぱ、別の事でもない。この付けて居る靭を、内々、毛靭にせうと思ふ折節、良い猿に行き逢うた。その猿の皮をくれい。靭にかけたいと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。ご無心と云つぱ、別の事でもない。あの付けてござる靭を、ないない毛靭になされたいと思し召す折節、良い猿にお逢ひなされた。その猿の皮をくれい。靭にかけたいと仰せらるゝ。
▲猿引「あの、この猿の皮をな。
▲冠者「中々。
▲猿引「そもやそも、この生きたものゝ皮が、何と上げらるゝものでござらうぞ。これは定めて、殿様のお利口でがなござらう。
▲冠者「いやいや。御利口ではない。天道ぞ、誠でおりやる。
▲猿引「やあやあ。天道ぞ誠でござる。
▲冠者「中々。
▲猿引「それならば、こなたにも思し召してもごらうじられい。私は、この猿を持ちまして、一日いちにちの身命をつなぎまする。これを上げましては、明日より渇命に及びまする程に、これは、良い様に仰せられて下されい。
▲冠者「心得た。
申し申し。きやつが申しまするは、あの猿を持ちまして、一日一日の身命を送りまする。あれがござらいでは、みやうにちから渇命に及びますると申しまする。
▲シテ「何と云ふぞ。あの猿を以て一日一日の身命を送ると云ふは、尤ぢやな。
▲冠者「左様でござりまする。
▲シテ「それならば、貰ひはせまい。一年か半年かけたならば、あとを返さう程に、まづ貸せと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。
▲猿引「これで承つてござる。一年半年の事は扨置きまして、半ときが間、ご用に立てましても、後が何の役に立ちませぬ。私はもはや、かう参りまする。
▲シテ「やいやい。猿引きを止めい、とめい。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。まづお待ちやれ、お待ちやれ。
▲猿引「何事でござるぞ。
▲冠者「まづ待たしませ。
▲猿引「はて扨、これは迷惑な事でござる。
▲シテ「太郎冠者。これへ来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「最前、無心を云はうと云ふ処に、聞いてくれうとあつたによつて、なまじい諸侍に一礼までを云はせて、今となって貸すまいと。この上は、貸すとも借らうず。又、貸さずとも借らうが、貸すまいかと、きっとぬかさう。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。
▲猿引「これで承つてござる。いかにお大名ぢやと申して、その様に嵩押しな事は、云はぬものでござる。私も、似合ひに旦那衆を持つて居りまするによつて、中々、ちろちろ致す事ではござらぬ。この上は弓矢八幡、上ぐる事はならぬと仰せられい。
▲冠者「はて扨、その様な事を仰しやらずとも、早う上げさしまさいでの。
▲猿引「上げさしまさいでと、我御料までがその様な、鈍な事を仰しやる。
▲冠者「鈍ななどゝ、その様な事を云うたならば、今に悔やむ事がおりやらうぞよ。
▲猿引「何の悔やむ事がござらうぞ。
▲シテ「はて扨、憎い奴でござる。何と致さうぞ。いや、致し様がござる。
やいやいやい、のけのけのけ。猿引きともに、たつたひと矢に射てのけう。
▲猿引「申し申し。上げうと仰せられい、仰せられい。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。早う上げさしませ。
▲猿引「はて扨、短気な殿様でござる。
▲冠者「つゝと、お気が短うおりやる。
▲猿引「最前は、この猿の皮が御用なと仰せられまするが、見ますれば、あの雁股で遊ばいては、皮に疵が付いて、ご用に立ちませぬ。こゝに、猿のひと打ちと申して、ひと打ち打つて命の失する所がござる程に、とてもの事に、これを打つて上げませうと仰せられい。
▲冠者「心得た。
申し申し。
▲シテ「早う打てと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。早う打たしませ。
▲猿引「はて扨、くどい事を云ふ人ぢや。
▲冠者「早う打たしませ。
▲猿引「扨々、苦々しい所へ参りかゝつてござる。
やいやい。それへ出よ。やい。いかに汝、畜類なりとも、確かに聞け。小猿の時より飼ひ育て、今さら憂き目を見る事は、なんぼう不憫なれどもな、こりや、あの殿様が、汝が皮を借らずば置くまいと仰せらるゝによつて、是非なう今打つ程に、必ず草葉の蔭にても、某を恨みとばし思うてくれるな。今打つぞ。えい。《泣》
▲シテ「やあやあ。
▲猿引「やあ。
▲シテ「やあとは、ぬかつた。打つかと思うて見て居たれば、打ちはせいで、かへつて吠ゆるは何事ぢや。
▲猿引「さればその御事でござる。小猿の時より飼ひ育て、船の艪を押す真似を教へて、させてござる処に、畜類の悲しさは、今、命の失する事は、え知らいで、例の舟漕ぐ真似をせいと云ふ事かと思うて、打つ杖をおつ取つて、船のろを押す真似を致すが、哀れで吠えまする。《泣》
▲シテ「何と云ふぞ。小猿の時より飼ひ育て、船の艪を押す真似を教へてさせた処に、畜類の悲しさは、今めいのうする事はえ知らいで、例の舟漕ぐ真似をせいと云ふ事かと思うて、打つ杖をおつ取つて、船の艪を押す真似をするが、哀れで吠ゆる。
▲猿引「中々。
▲シテ「あの、それがや。
▲猿引「あゝ。
▲両人「《泣》
▲シテ「はて扨、不憫な事ぢやな。
▲冠者「不憫な事でござる。
▲シテ「もはや助けうか、やい。
▲冠者「良うござりませう。
▲シテ「な打ちそと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。な打ちそと仰せらるゝ。
▲猿引「やあやあ。な打ちそ。
▲冠者「中々。
▲猿引「まづ以て、御執り成し、忝うござる。
▲冠者「御礼までもおりない。
▲猿引「猿にお礼を申させませう。
▲冠者「良うおりやらう。
▲猿引「やいやい。それへ出て、お礼を申せ。太郎冠者殿へもお礼を申せ。
▲シテ「あれは、助かつたといふ一礼かな。
▲冠者「左様でござりませう。
▲猿引「申し申し。この歓びに、猿を舞はませう。
▲シテ「急いで舞はせと云へ。
▲冠者「急いで舞はさしませ。
▲猿引「えいえい。猿が参りてご知行まさる、めでたうよう仕る。
踊るや手元、小腰揺り合はせて、舞うたる風情の面白さに、猿は山王、真似さるめでたき、ぎよくしゆにつゝ立ち上がつて、たなを見よかし。
天より宝があまくだつて、奏上すれば綾や千反、錦や千反、唐織物の納めやうには。
▲シテ「扨も扨も、面白い事ぢや。この扇を取らすると云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう、御扇を下さるゝ。
▲猿引「いや、あすは出うずもの、船が出うずもの。
いやいやいや、おもたげもなと、およるよの、およるよの。
いや、船の中には、何とおよるぞ。
いやいやいや、苫を敷き寝に梶枕、梶を枕に。
いや、しん田の横田の若苗を。
いやいやいや、しよんぼりしよんぼりと植ゑたもの。
いやいやいや、今来る娘が刈らうずよの、腹立ちや。
いや、松の葉越しに月見れば。
いやいやいや、
《詞》月を見よ、月を見よ。
小腰をかゞめてしつぽりと。
いや、月見れば。
いや、暫し曇りて又冴ゆる、又冴ゆる。
いや。こゝに寝ようか、さて菜の中に。
いやいやいや、いとゞ名の立つ菜の中に、菜の中に。いや、汲んだ清水で影見れば。
いやいやいや、
《詞》影を見よ、影を見よ。
いや、影を見れば。
いや、我が身ながらも良い男、良い男。
いや、四角柱やかど柱。
いやいやいや、かどのないこそ添ひ良けれ、添ひ良けれ。
いや、いとし殿御のござるやら。
いやいやいや、犬が吠え候ふ四つ辻で、四つ辻で。
いや、とゞろとゞろと鳴る神も。
いやいやいや、こゝは桑原、よも落ちじ、よも落ちじ。
いや、天に大慈の風吹かば。
いやいやいや、地にはこがねの花が咲き候ふ、花が咲く。
▲シテ「扨も扨も、殊勝な事ぢや。
▲冠者「よう覚えたものでござる。
▲シテ「やいやい。この刀を取らすると云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう、御刀を下さるゝ。
▲シテ「これは、面白い事ぢや。
やいやい。この小袖、かみしもを脱がせい。
▲冠者「これは、ご無用でござる。
▲シテ「いやいや。苦しうない。早う脱がせい。
▲冠者「これは、いらぬ物でござる。
▲シテ「これを取らすると云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。お小袖、お上下を下さるゝ。
▲猿引「えいえい。一の幣立て、二のへい立て。
三に黒駒、信濃を登れ、船頭殿こそ達者なれ。
泊り泊りを眺めつゝ、なほ千秋は万歳と、俵を重ねて面々に、俵を重ねて面々に、俵を重ねて面々に、楽しうなるこそめでたけれ。
▲シテ「きやあ、きやあ、きやあ。
▲猿「きやあ、きやあ、きやあ、きやあ。
▲シテ「やい。猿を止めい、猿を止めい、猿を止めい。
▲猿引「これこれ。まづ待て、待て、待て。
▲冠者「なう。猿をお止めやれ、お止めやれ。

校訂者注
 1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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