狂言二十番 05 伯母酒(をばがさけ){*1}
▲女「妾は、この山蔭に住む者でござる。今日は日柄も良うござる程に、山外れへ酒店を出さうと思ひまする。まづ、こゝ元に飾りませう。見た処が一段と良い。
やあやあ。皆々、聞かせられい。こゝ元で酒を商売致す程に、ご所望の方あらば、こなたへ仰せられいや。
▲シテ「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、この山外れに伯母を持つてござるが、今日はさかみせを出されたと申す程に、悦びながら、酒を呑うで参らうと存じて、罷り出でた。まづ急いで参らう。かやうにわざわざ参つても、常々伯母は堅いご仁でござるによつて、振舞はれうか、振舞はれまいか知らねども、面白可笑しう申しないて、たべうと存ずる。いや。これさうな。
申し申し。お見舞ひ申しまする。
▲女「いや、おりやつたよ。
▲シテ「この間は、久しうお見舞ひも申しませぬが、変らせらるゝ事もござらぬか。
▲女「中々。変る事もないが。何と思うておりやつたぞ。
▲シテ「只今参るは、別の事でもござりませぬ。今日は日柄も良うて、酒店を出させられて、かやうのめでたい事はござりませぬ。
▲女「仰しやる通り、今日は日柄も良うて、酒店を出す様な悦ばしい事はおりないよ。
▲シテ「こゝ元は、山外れとは申しながら、往来の者も多うござるによつて、定めて店も繁昌致しませう。
▲女「その通りでおりやる。又そなたは、かたがたをする人ぢや程に、伯母が酒の良いといふ事を、随分云ひ触れて、店の繁昌する様に頼むぞ。
▲シテ「その段は、お気遣ひなされまするな。随分、方々へ申し触れませう。扨、まづ私に一つ、振舞はせられませい。
▲女「尤、振舞ひたいものなれども、まだ売り初めをせぬにより、振舞ふ事はならぬ。重ねておりやれ。振舞はうぞ。
▲シテ「いや。申し。売り初めをなされたの、なされぬのと申すは、他の者の事でござる。私は御うちの者同然でござる程に、平に振舞はせられませい。
▲女「いやいや。今日は振舞ふ事はならぬ。重ねておりやつた時、振舞はうぞ。
▲シテ「いや。申し。これを、私のたべたいばかりで申すではござらぬ。自然、いづれもの、やい。そちが伯母が酒は良いかと仰せられた時、されば、何とあるをも存ぜぬと申しては、いかゞでござる。私の風味を見まして、申し触るゝためでござる程に、ひらに一盃振舞はせられい。
▲女「はて扨、くどい事を仰しやる。どうあつても振舞ふ事はならぬ。重ねておりやれと云へば。
▲シテ「扨は、どうあつてもなりませぬか。
▲女「いかないかな、振舞ふ事はならぬよ。
▲シテ「それならば、もう、かう参りまする。
▲女「おりやらうか。
▲シテ「中々。
▲両人「さらばさらば。
▲女「ようおりやつた。
▲シテ「は。
はて扨、律儀な伯母でござる。これまでわざわざ参るも、酒をたべたさに参つたれ。呑まずに戻るも、残り多い事ぢやが。何とせうぞ。いや。申し様がござる。
申し申し{*2}。ござりまするか。
▲女「いや。そなたは、まだ帰らしまさぬか。
▲シテ「戻らうと存じて、路次まで出てござるが、ちとお話し申したい事がござつて、わざわざ立ち帰りましてござる。
▲女「それは、いかやうな事でおりやる。
▲シテ「別の事でもござらぬ。この広い山外れに、女儀の身としておひとりおはすにより、もし怪しい者が這入つては、いかゞでござる程に、そのご用心をなされたれば、良うござりませう。
▲女「志は過分なれども、かやうに治まる御代なれば、怪しい事もあるまい程に、気遣ひさしますな。
▲シテ「いや、去年とやら、去々年とやら、この山里へ這入つたと申しまする。私は他に居ますれば、早速には参られませぬによつて、随分ご用心なされませい。
▲女「いやいや。その様な事もあるまい。心安う思はしませい。
▲シテ「何と、振舞はせられますまいか。
▲女「はて扨、聞き分けもない、くどい人ぢや。いかやうに仰しやつても、ならぬよ。
▲シテ「それならば、もう、かう参りまする。
▲女「おりやらうか。
▲シテ「中々。
▲両人「さらばさらば。
▲シテ「これはいかな事。色々と申して見れども、呑まされぬ。心強い人ぢや。あの如く云はるれば、ひとしほたべたいが。何と致さうぞ。いや。良い事を思ひ出いた。はや、日も晩ずる程に、致し様がござる。
▲女「いや。日も晩ずる程に、店を仕舞ひませう。さらさらさら。
▲シテ「物申。こゝ、ちとおあけやれ。
▲女「誰でござるぞ。
▲シテ「近所の者ぢや。用がある程に、あけておくれやれ。
▲女「もはや店を仕舞うてござる程に、用があらば、明日ござれ。
▲シテ「いや。酒を調へに来た程に、ちよつとあけてくれさしませ。
▲女「やあやあ。酒をとゝのへに来た。
▲シテ「中々。
▲女「それならば、あけいで何とせうぞ。さらさらさら。
▲シテ「いで、喰らはう。おうおうおう。あゝあゝあゝ。
▲女「なうなう。恐ろしやの、恐ろしやの。あの鬼は、どこから来たぞ。人はないか。追ひ出いて下されい。恐ろしやの、恐ろしやの。
▲シテ「やい、そこなやつ。おのれは、女の身として、この山外れのひとつ家に、ひとり住居をするといふ事があるものか。頭から、たつたひと噛みにせう。いで、喰らはう。あゝあゝあゝ。
▲女「真つ平、命を助けて下されい。
▲シテ「その上に、おのれは無道心なやつぢや。最前、甥が見舞うたに、なぜに酒を振舞はぬぞ。向後、酒を呑ませうか、呑ませまいか。こちらのかひなを噛みひしいでのけう。いで、喰らはう。あゝあゝあゝ。
▲女「重ねて参つたならば、振舞ひませう程に、命を助けて下されませい。
▲シテ「何ぢや。命を助けてくれい。
▲女「中々。
▲シテ「さりながら、某にも酒を呑ませうか。
▲女「中々。参りませい。
▲シテ「酒舟は、どなたにあるぞ。
▲女「それにござりまする。
▲シテ「さりながら、汝がそれに居ては、呑みにくい。どなたへなりとも、出て行かう。
▲女「あゝ。
▲シテ「あゝとは。おのれ、出て行くまいか。
▲女「いや、参りまする。
▲シテ「いで、喰らはう、喰らはう、喰らはう。あゝあゝあゝ。
▲女「参りまする、参りまする。
▲シテ「扨も扨も、女と申す者は、愚かな者でござる。正身の鬼ぢやと思うて恐るゝ様な可笑しい事は、ござつてこそ。いで喰らはう。あゝあゝあゝ。《笑》さらば、たべう。扨も扨も、呑まう呑まうと思うて呑うだ故か、冷いやりとばかりして、風味が知れぬ。もひとつたべう。今、やうやうと呑み覚えた。これは、伯母の惜しまるゝは尤ぢや。良い酒でござる。いで喰らはう。あゝあゝあゝ。《笑》これでは何とやら、窮屈で悪い。かやうに致いてたべよう。何程呑うでも呑み飽かぬ、良い酒でござる。もひとつたべう。むゝ。扨も扨も、旨い事ぢや。いで喰らはう喰らはう。恐ろしいか恐ろしいか。鬼ぢやものを。《笑》はて扨、女と申す者は、愚かな者でござる。これでも何とやら、異なものぢや。何とせうぞ。いや。致し様がござる。膝へかけて置かう。これこれ。これで良うござる。いで喰らはう喰らはう。恐ろしいか恐ろしいか。鬼ぢやものを。《笑》扨も扨も、面白うなつた。もひとつたべう。もはや、残り少なになつた。これともに、たべう。うゝ。旨い事ぢや。いで喰らはう喰らはう喰らはう。
▲女「扨も扨も、恐ろしい事かな。甥が申すを、偽りかと存じたれば、しやうじんの鬼に逢うてござる。さりながら、内が殊の外ひそかになつてござるが。もはや最前の鬼は、出て参つたか知らぬまで。参つて、様子を見ませう。これはいかな事。鬼かと存じたれば、妾が甥でござる。扨も扨も、腹の立つ事かな。最前、酒を呑ませなんだによつて、妾をたばかつて、酒を呑みにうせをつた。なう。腹立ちやの、腹立ちやの。
やいやいやい。やい。そこな奴。起きぬか、起きぬか、起きぬか。
▲シテ「むゝ。いで喰らはう喰らはう。
▲女「おのれは憎いやつの{*3}。よう妾を誑いて、酒を呑うだな。
▲シテ「まつぴら、許いて下されい、許いて下されい。
▲女「あの横着者。人はないか。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。
校訂者注
1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。
2:底本は、「中々、」。
3:底本は、「己はにくい奴め、」。
底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.)
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