狂言二十番 06 鎌腹(かまばら){*1}
▲女「やい。男。
▲シテ「なう。悲しやの、悲しやの。許いてたもれ、許いてたもれ。
▲女「どちへ逃ぐるぞ。腰の骨を打ち折つてのけう。腹立ちやの、腹立ちやの。
▲サヘ人「これは興がつた。まづ、堪忍をさしませ。
▲シテ「人はないか。とりさへてたもれ、とりさへてたもれ。
▲支人「これこれ。まづ、お待ちやれ。何として、わゝしう仰しやるぞ。まづ、お待ちやれ、お待ちやれ。
▲女「構はずとも置かせられい。あの様な男は、性根のつく程に、腰の骨を打ち折つたが良うござる。
▲支人「はて扨、短気な。まづ、様子を云うてお聞かしやれ。
▲女「それならば、こなたにも聞かせられて下されい。私どもの営みと申すは、毎日山へ参り、柴たきゞを取つて渡世を送りまするが、役でござるによつて、山へ参れと申せば、村ぢゆうを遊んでばかり居りまする。あの様な事で、何と営みがなるものでござるぞ。あの様な男は、この棒で腰の骨を打ち折つてのけうとの申し事でござる。
▲支人「はて扨、そなたは短気な事を仰しやる。太郎に異見を云ふ程に、まづ、お待ちやれ。
▲女「いやいや。聞き分けはござるまい程に、構はずとも置かせられい。
▲支人「いやいや。太郎にその通りを云うて、山へ行く様にせう程に、まづ、お待ちやれ。
▲女「構はずとも置かせられい。
▲支人「やい。太郎。
▲シテ「面目もござりませぬ。
▲支人「面目もないと。和御料は、常々律儀な人ぢやと思うて居たれば、女房衆の云はるゝが尤ぢや。山稼ぎには行かいで、村中を遊んでばかり居ると云うて、腹を立てらるゝ。向後嗜んで、山稼ぎに精を出いて、柴薪を取つて来る様にさしませ。
▲シテ「それならば、聞かせられて下されませい。私も山稼ぎを致し、柴薪を取つて参り、渡世を送りまするは存じて居りまするによつて、この程も毎日山へ参つてござるが、殊の外草臥れましたによつて、ちと肩をば休めうと存じて、宿に居りますれば、あの体でござりまする。何とも面目もない事でござりまする。
▲支人「和御料の仰しやるも尤ぢやが、さりながら、女房衆の云はるゝも聞こえた程に、今からなりとも山へ行かしますが、専でおりやる。
▲シテ「女にわめかれて山へ参るは、無念にはござれども、こなたの何かと仰せらるゝによつて、今から山へ参りませう。
▲支人「それは、早速聞き入れさしまして、身共も満足致いた。
▲シテ「しからば、その棒と鎌をおこせと、仰せられて下されませい。
▲支人「その通りを云はう。
なうなう。今のをお聞きやつたか。
▲女「承つてござる。山へ行かうと申すは、偽りでござる。構はずとも置かせられい。
▲支人「いやいや。偽りにもせい、今から山へ行かうと云ふ程に、その棒と鎌をやらしませ。
▲女「今から山へ参つても、重ねては中々参る事ではござらぬ程に、構はずとも置かせられい。
▲支人「いやいや。山へ行きさへすれば、そなたの云ひ分はない筈ぢや。平に、その棒と鎌をやらしませ。
▲女「それならば、こなたの何かと仰せらるゝによつて、了簡を致いて、棒と鎌を遣はしまする。必ず、棒の折るゝ程担うて戻れと、仰せられて下されませい。
▲支人「その通りを云はう。和御料は、行つて休ましませ。
▲女「それならば、妾は行つて休みませう。これは、忝うござる。
▲両人「さらばさらば。
▲支人「いや。なうなう。女房衆の仰しやるは、この棒の折るゝ程、になうて戻れと云はるゝ。
▲シテ「何と、この棒の折るゝ程、担うて戻れと申し付けまするか。
▲支人「中々。
▲シテ「何が扨、心得ましてござる。扨、こなたには、良い時分に出合はせられて、忝うござる。晩程、きつと御礼に参りませう。
▲支人「いやいや。お礼には及ばぬ程に、随分精を出さしますが、せんでおりやる。
▲シテ「忝う存じまする。
▲両人「さらばさらば。
▲シテ「扨も扨も、腹の立つ事かな。今日は、山稼ぎも已めて休まうと存じたれば、わゝしう申す女にわめかれて、山へ参ると申すは、口惜しい事でござる。さりながら、まづ山へ参つて、分別を致さう。誠に、某の理を持つたから、かへつて非になつたぢやまで。無念な事でござる。いや。何かと申す内に、山でござる。まづ下に居て、篤と分別を致さう。女に云ひ込められて、山稼ぎに出たとあつては、もはや人の前へ顔の向けやうがない。この上は、生きても死んでもなれば、思ひ切つて淵へも川へも身を投げて、死んでのけうか。いやいや。死んだ後で、女にわめかれて淵川へ身を投げたなどゝ、取り沙汰に逢うては、いかゞな{*3}。何とせうぞ。いや。良い事を思ひ出いた。この鎌で鎌腹を切らう。
やいやい。女。余りわゝしう云ふによつて、太郎は山で鎌腹を切るぞ。
さらば、鎌腹を切らう。扨、鎌腹を切るには、諸肌を脱いで、鎌をかう持つて、左へ突き立て、右へきりゝと引き廻いたならば、腹が切るゝでござらう。扨、返す鎌で首をさらりと掻き落といたならば、大方死ぬるでござらう。これこれ。さらば、切つてのけう。いや。あ痛、あ痛、あ痛。この鎌の先がちよつと触つても、冷いやりとして気味が悪い。中々これでは切られぬ。何とせうぞ。いや。良い事がある。あの向かうの木へ、この鎌を結ひ付けて、走り掛かつて死んでのけう。これこれ。これは良い分別ぢや。これではひと思ひに死なれさうなものぢや。
やいやい。女め。おのれが余りわめくによつて、太郎は鎌腹を切つて死ぬるぞ。あゝ。後で思ひ当たる事があらうぞよ。
さらば、走り掛かつて死んでのけう。いや。あゝ。この鎌の光る処を見れば、中々怖ろしうて、切られさうもない。何とせうぞ。思ひ出いた。この眼と申すものが臆病なもので、鎌の光る処を見ては、中々怖ろしうて死なれぬ。今度は眼を塞いで、無念夢想に死んでのけう。いや。あゝ。中々怖ろしうて死なれぬ。何とせうぞ。いや。良い事がある。この鎌を下に置いて、飛び掛かつて死ぬに、死なれぬといふ事はあるまい。まづ、鎌を下に置いて。
やいやい。女め。ようわゝしう云うたな。もはや人の前へ面目がないによつて、太郎は山で鎌腹を切るぞ。又、懐かしい事があらうぞよ。
この上へ飛び掛かつたならば、何のおろかはあるまい。いや。あゝ。はて扨、無念な事でござる。これでも中々、鎌腹にはならぬ。何とせうぞ。いや。思ひ切つて、鎌腹に致さう。
さあ。鎌腹を切るぞ。鎌腹ぢや、鎌腹ぢや。
▲女「やあやあ。何と云ふぞ。こちの人は、鎌腹を切らるゝ。なう。悲しやの、悲しやの。それは、どこの山の事ぞ。情けない事かな。
申し申し。こちの人。これは興がつた{*4}、何事でござるぞいの、何事でござるぞいの。
▲シテ「太郎は、鎌腹を切るぞ。在所の者どもは、この潔い体を見物せい。鎌腹ぢや。
▲女「なう。悲しや。こちの人、思ひとまつて下されいの、思ひ止まつて下されいの。
▲シテ「女に云ひ込められては、かた時も生きては居られぬによつて、鎌腹を切つて死なねばならぬ。こゝを放せ、こゝを放せ。
▲女「なう。悲しや。こなたには、気でもたがひはなされぬか。
▲シテ「気も心も違ひはせぬが、女に云ひ込められては、人の前で口が利かれぬによつて、鎌腹を切るぞ、鎌腹を切るぞ。
▲女「なう。悲しや。もはや向後、わゝしう云ひますまい。こなたが道理でござる程に、思ひ止まつて下されいの。
▲シテ「いやいや。今はさう仰しやつても、数年わゝしう云ひ付けた癖が、何と俄かに已まうぞ。某は鎌腹を切つて死ぬぞ。そこを放せ、そこを放せ。
▲女「なう。情けなや。こなたが鎌腹を切らせられて、何と妾が生きて居られませうぞ。平に思ひ止まつて下されませいの。
▲シテ「さう仰しやつても、わゝしう仰しやらう。鎌腹ぢや、鎌腹ぢや。
▲女「申し申し。それ程に偽りと思し召すならば、当所の氏神を誓言に入れて、ふつふつわゝしう云ひますまい程に、ひらに思ひ止まつて下されませいの。
▲シテ「何と仰しやる。当所の氏神を誓言に入れて、わゝしう云ふまい。
▲女「中々。
▲シテ「それ程に仰しやるならば、偽りではあるまい。思ひ止まりませうぞ。
▲女「それでこそ、こちの人でござる。嬉しやの、嬉しやの。
▲シテ「さりながら、某の鎌腹を切るといふ事を、最前高声に云うたによつて、誰知らぬ者もあるまいに、今思ひ止まつたならば、女に止められて止まつたなどゝあつては、後々までも面目がないが、これは何とせうぞ。
▲女「はて扨、こなたには、愚かな事を仰せらるゝ。妾こそ聞き付けて参つたれ、誰知る者でござらうぞ。構はずとも置かせられい。
▲シテ「誠、そなたのおしやる通り、この山なかの事なれば、誰知る者もあるまい程に、それならば思ひ止まらうぞ。
▲女「それは、嬉しうこそござれ。
▲シテ「この上は、夫婦、仲良う楽に、寿命長遠、行く末繁昌に栄えう様に、どつと笑うて帰らう。
▲女「ようござりませう。
▲シテ「それへ、つゝと出さしませ。
▲女「心得ました。
▲シテ「さあ、笑はしませ。
▲女「まづ、笑はせられい。
▲両人「さあ、さあ、さあ。《笑》
▲シテ「なうなう。和御料と某とは、五百八十年。
▲女「七廻りでござる。
▲シテ「一段とめでたい。こちへおりやれ、こちへおりやれ。
▲女「なうなう。嬉しやの、嬉しやの。
▲シテ「こちへおりやれ、こちへおりやれ。
▲女「心得ました、心得ました。
校訂者注
1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。
2・4:底本は「興有(きようあ)つた」。「興がる」(「とんでもない」の意)の誤りか。
3:底本は、「いかな。」。
底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.)
コメント