狂言二十番 07 柿山伏(かきやまぶし){*1}
▲シテ「《次第》貝をも持たぬ山伏は、貝をも持たぬ山伏は、道々うそを吹かうよ。
《詞》これは、出羽の羽黒山より駈け出しの山伏です。某、この度、大峯、葛城を相勤め、只今本国に赴く。まづ、急いで帰国致さうと存ずる。誠に、我ら如きの宗体と云つぱ、野に伏し山に伏し難行苦行、捨身の行を勤むる身でござれば、例年相変らず、無事で帰国致す様な大慶な事は、ござつてこそ。扨、某は今朝未明より出たれば、殊の外のどが渇くが、こゝ元に茶屋はないか知らぬ。湯でも茶でも飲みたいものぢやが。いや。あれに赤う見ゆるは、もみぢか。何であらうぞ。やあら、何でござらうぞ。やうやう見れば、柿の木ぢや。扨も扨も、見事に熟した事かな。あれを一つ、冷いやりとたべたならば、咽の渇きも止まらう。何とぞして取りたいものぢやが。いや。まづ、つぶてを打つて見ませう。当たれば良いが。いや。えい。届かぬ。も一つ打たう。いや。えい。行き過ぎた。これでは取られぬ。何とせうぞ。いや。この刀で払ひ落としませう。えいえいえい。これでも取られぬ。やあら、何とせうぞ。いや。幸ひあれに、木の根がある。あれから伝うて取りませう。さりながら、誰も人は居らぬか知らぬ。折節、誰も見る者もない。さらば、上がりませう。これは幸ひな。木の根があつて、仕合せでござる。えいえい。扨も扨も、下から見たとは違うて、見事な柿でござる。どれに致さうぞ。いや。これに致さう。扨も扨も、これは見事な柿でござる。さらば、たべう。扨も扨も、これは旨い柿でござる。今度はどれに致さうぞ。いや。これに致さう。これなどは、別して見事にござる。
▲アト「これは、この辺りの者でござる。今日は、田畑を見舞はうと存じて罷り出でた。まづそろりそろりと参らう。世間に田畑をあまた持つた衆もござれども、中にも某の畑の様に、毎ねん良う出来るはないとあつて、皆の褒めものに致さるゝ事でござる。いや。何かと申す内に、これは早、某のはたでござる。扨も扨も、よう成長致いた事かな。いや。柿もやうやう色付いてござる程に、近日、枝をもおろさせうと存ずる。
▲シテ「これは渋い。ふゝゝ。
▲アト「はて、合点の行かぬ事でござる。これはいかな事。行くへも知らぬ山伏の人の、柿の木へ登つて柿を喰ふ。何と致さうぞ。いや。憎さも憎し。致し様がござる。
▲シテ「口直しに、も一つたべう。どれが良からうぞ。これなどが良うござらう。
▲アト「えへん、えへん。ちと、さうもござるまい。色々になぶつて遊ばうと存ずる。
あら不思議や。柿の木は、風も吹かぬに揺るぐが。鳥類畜類でもついたか知らぬまで。動くこそ道理なれ。大きい烏がとまつて居る。烏といふものは、熟柿を好くによつて、たぶるは尤ぢや。さりながら、烏といふものは、よう啼くものぢやが、啼かぬか知らぬまで。啼かうぞよ、啼かうぞよ。おのれ、啼かぬにおいては、仕様がある。
やいやい。その半弓を持て来い。たつたひと矢に射てくれうぞ。
▲シテ「某の事を、烏ぢやと申す。憎い奴でござる。これは、啼かずばなるまい。
▲アト「啼かうぞよ、啼かうぞよ。
▲シテ「こかあ、こかあ、こかあ。
▲アト「こかあこかあこかあ。《笑》さればこそ、啼いたわ。人と烏を見違へようものゝ様に、こかあこかあこかあ。《笑》
扨も扨も、よう啼いたり、啼いたり。この様な烏をば、前へ廻つてとつくりと見て置きませう。これはいかな事。烏ぢやと存じたれば、大きい猿でござる。定めて梢伝ひに参つたものでござらう。さりながら、猿といふものは、猿手を使うて、只は居らぬものでござるが、猿手を使はぬか知らぬまで。
▲シテ「これはいかな事。又、某の事を、猿ぢやと申す。はて扨、腹の立つ事でござる。
▲アト「猿手を使はうぞよ、使はうぞよ。
▲シテ「さるでを使はずばなるまい。
▲アト「おゝ。使ふわ、使ふわ。今一方も、使はうぞよ。おゝ、使ふわ、使ふわ。《笑》
扨、人を見ては、歯をむき出しておどすものぢやが、嚇さぬか知らぬまで。嚇さうぞよ、嚇さうぞよ。
おのれ、嚇さぬにおいては、その手鎗を持て来い。たつたひと突きにしてくれう。
▲シテ「嚇さずばなるまい。これは迷惑な事でござる。
▲アト「嚇さうぞよ、嚇さうぞよ。
▲シテ「きやあ、きやあ、きやあ。
▲アト「きやあきやあきやあ。《笑》扨も扨も、面白い事ぢや。人と猿を見違へようものゝ様に、きやあきやあきやあ。《笑》
扨も扨も、今の猿は、よう啼いたり、啼いたり。この様な猿をば、後ろへ廻つてとつくりと見て置きませう。ほう、これはいかな事。夜目遠目笠の内と申すが、この事でござる。猿かと存じたれば、したゝかな鳶でござる。
▲シテ「又、某を鳶ぢやと申す。扨も扨も、腹の立つ事でござる。
▲アト「扨、鳶といふものは、羽ぜゝりをするものぢやが。はぜゝりをせぬからは、人か知らぬまで。羽ぜゝりをせうぞよ、羽ぜゝりをせうぞよ。
▲シテ「羽ぜゝりをせずばなるまい。
▲アト「さあ、羽ぜゝりをするわ、するわ。扨、羽を伸すものぢやが。はを伸さぬか知らぬまで。伸さうぞよ、のさうぞよ。おのれ、のさぬにおいては仕様がある。物切れを差いて来た程に、ずたずたにしてくれうぞ。
▲シテ「伸さずばなるまい。
▲アト「伸さうぞよ、伸さうぞよ。おゝ。伸すわ、伸すわ。今いつぱうも伸さうぞよ。おゝ。伸すわ、伸すわ。《笑》扨も扨も、よう伸いた事かな。扨、これから身ぶるひをせうぞよ。
▲シテ「身震ひをせずばなるまい。
▲アト「おゝ。身震ひをするわ、するわ。扨、この上は、啼いて飛ぶ一段でござるが。飛ばぬか知らぬまで。飛ばうぞよ、飛ばうぞよ。
▲シテ「これはいかな事。飛ばずばなるまい。これは迷惑な事でござる。
▲アト「いや、ちと囃しませう。
飛ばうぞよ、飛びさうな、飛びさうな、飛びさうな。そりやこそ、飛ばうぞよ、飛びさうな、飛びさうな、飛びさうな。
▲シテ「ぴい、よろよろよろ。ぴい、よろよろよろ。
あ痛、あ痛、あ痛。なう、痛やの、痛やの。あ痛、あ痛、あ痛。
▲アト「《笑》なうなう。お客僧。あの高い木の空からお飛びやつて、腰を打ちは召されぬか。
▲シテ「やいやい。やい、そこなやつ。
▲アト{*2}「何事ぢや。
▲シテ「やあら。おのれ、憎いやつの{*3}。この尊い駈け出しの山伏を、最前から鳥類畜類に譬ふるのみならず、あまつさへ、鳶ぢやと云ふ。総じて、山伏のなれの果ては、鳶にもなるものぢやと云ふによつて、もし鳶にもなつたかと思うて、あの高い木の空から飛んだれば、まだ羽根も生へぬ者を飛ばせて。腰の骨を打ち折つた程に、連れて行て、養生をせい。
▲アト「行くへも知らぬ山伏の人の、柿の木へ登つて、某の秘蔵の柿をおたべやるのみならず、その上、腰の抜けたを連れて行て、養生せう仔細がないよ。
▲シテ「仔細がないと。余の山伏をなぶつたとは、ものが違はうぞ。
▲アト「ほう。誠、駈け出しの山伏には、聊爾に構はぬものぢやと申す。さらぬ体にて宿へ帰らうと存ずる。
▲シテ「やいやい。やい、そこなやつ。
▲アト「何事ぢや。
▲シテ「どちへ行く。
▲アト「宿へ参る。
▲シテ「これへ来い。
▲アト「何事ぢや。
▲シテ「最前も云ふ通り、連れて行て、養生をせい。
▲アト「最前も云ふ通り、養生せう仔細がないよ。
▲シテ「仔細がないと。たつた今、目に物を見せう。
▲アト「それは、誰が。
▲シテ「某が、このとしつきの行力を以て。
▲アト「ぎやうりきも、人によつたものぢや。そなたの分として、行力だては置いておくりやれ。
▲シテ「それは誠か。
▲アト「誠ぢや。
▲シテ「真実か。
▲アト「真実ぢや。
▲シテ「一定か。
▲アト「いちゞやうぢや
▲シテ「悔やむな、男。悔やむな、汝。
▲アト「何事を申すか、ちと承らう。
▲シテ「台嶺{*4}の雲を凌ぎ、年行の功を積む事、一千余ケ日。しばしば身命を、熊野権現に頼みを掛けて祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん。
▲アト「いやいや。いらぬ事を申さずとも、足元の明るい内、急いで罷り帰らうと存ずる。はて、合点の行かぬ事でござる。某の達者な足で行くに、行かれぬと申す事はござらぬが。これは不思議な事でござる。
▲シテ「橋の下の菖蒲は、誰が植ゑた菖蒲ぞ。ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん。いろはにほへと、ちりぬるをわか。ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん。
▲アト「これは、口惜しい事でござる。
▲シテ「たつた今に、祈り戻すぞ。ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん。
▲アト「扨も扨も、無念な事でござる。南無三宝。
▲シテ「さあ、負うて行け{*5}。
▲アト「和御料は、それにゆるりとおりやれ。
なうなう。嬉しやの、嬉しやの。
▲シテ「やいやい。この尊い駈け出しの山伏を、この如くに打ちこかいて、どこへ行くぞ。人はないか。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
校訂者注
1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。
2:底本、ここに「▲アト「」はない。
3:底本は、「己(おのれ)、にくい奴(やつ)め、」。
4:底本は、「台臺(たいれい)」。
5:底本は、「負(ま)けて行(ゆ)け」。『狂言五十番』(1926刊)に従い、改めた。
底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.)
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