狂言二十番 09 鬼の槌(おにのつち){*1}

▲シテ「《次第》隠れ蓑着て隠れ笠、隠れ蓑着て隠れ笠、小槌や宝なるらん。
《詞》これは、蓬莱の島の鬼です。今、めでたい御代なれば、これより日本に当たつて、辰の市殊の外繁昌致すと申す間、只今につぽんに渡り、望みの物もあらば求めばやと存じ候ふ。
《道行》豊かなる、御代のためしの道広く、御代のためしの道広く、心の駒も勇むなる、足に任せて行く程に、名にのみ聞きし芦原や、日本の地にも着きにけり、日本の地にも着きにけり。
《詞》急ぐ程に、これは早、日本の地に着いた。遥々と渡つたれば、殊の外草臥れた。まづ、この傍らにちと休らうで参らう。
▲ヲモ「誰殿。ござるか。
▲次アト「これに居りまする。
▲ヲモ「今日は辰の市でござる程に、あれへ参り、良い物もあらば求めませうが、何とござらうぞ。
▲次ア「一段と良うござらう。
▲ヲモ「いや。これは又、さゝえを持たせられてござるか。
▲次ア「少しながら持ちましてござる。
▲ヲモ「某も、ちと持ちませう。こちへおこされい。
▲次ア「いや。苦しうござらぬ。いざござれ。
▲ヲモ「その儀ならば参らう。さあさあ。ござれござれ。
▲次ア「心得てござる。
▲ヲモ「市場などでも一つ呑まねば、面白うござらぬ。
▲次ア「中々。こなたの仰せらるゝ通り、一つ呑うでこそ市も面白うござれ。
▲ヲモ「随分駈け廻り、望みの物を求めませう。
▲次ア「中々。求めませう。
▲シテ「くんくんくん。うゝ。人臭い事かな。人間が参つたさうな。言葉をかけて、苦しうない者ならば市場への道連れに致さう。
やいやい。それへ行くは何者ぢや。
▲ヲモ「はあ。誰やら呼びまする。
▲次ア「誠、呼びまする。
▲ヲモ「こなたを呼ばせらるゝは、どなたでござるぞ。
▲シテ「やいやい。こゝぢやわ。
▲ヲモ「はて扨、誰でござるぞ。お声は致せども、姿が見えませぬ。
▲次ア「誠に、どこ元にござるやら見えませぬ。
▲シテ「いや。思ひ出いた。この蓑笠を着て居るによつて、日本の者の目には見えぬと見えた。脱いで見ませう。
▲ヲモ「はて扨、何と思し召すぞ。確かに目の前で声は致せども、姿が見えませぬが、不思議な事ではござらぬか。
▲次ア「これは、狐か狸が我々をなぶるものでござらう。
▲シテ「こりやこりや。こゝに居るわ。
▲両人「どこ元にござるぞ。
▲シテ「これ。こゝに居るわ。
▲両人「なう。怖ろしやの、怖ろしやの。真つ平命を助けて下されい。
▲シテ「これこれ。その様に恐ろしい者ではない。蓬莱の島の鬼ぢやよ。
▲ヲモ「鬼が怖うなうて、何と致さうぞ。
▲両人「まつぴら命を助けて下されい。
▲シテ「やいやい。その様に気遣ひするな。鬼神に横道なしと、聊爾に服する事ではない。心安う思へ。
▲両人「私どもはまた、鬼ひと口にぶくせらるゝ事かと存じてござる。
▲シテ「いやいや。その様に、穢らわしい人などを喰ふ鬼ではない。気遣ひするな。
▲両人「それならば、安堵致いてござる。
▲シテ「扨、汝らはどれへ行くぞ。
▲両人「私どもは、この辺りの者でござるが、今日は辰の市でござるによつて、市場へ参りまする。
▲シテ「この鬼も、聞き及うだによつて、蓬莱の島より遥々これまで渡つた。良い道連れぢや。同道致さう。
▲ヲモ{*2}「中々。お供致いて参りませう。
▲次ア{*3}「畏つてござる。
▲シテ「さあさあ。両人にいち人、案内者のために先へおりやれ。
▲ヲモ「これはいかな事。お声はすれども、又、姿が見えませぬ。どこ元にござるぞ。
▲シテ「こりやこりや。こゝに居るわ。
▲両人「どこにござるか。すきと見えませぬ。
▲シテ「いや。思ひ出いた。又、蓑笠を脱がう。
▲ヲモ「はて扨、これは不思議な事でござる。
▲次ア「仰せらるゝ通り、不思議な事でござる。
▲シテ「これこれ。こゝに居るわ。
▲ヲモ「いや。これにござるか。いや。申し。お姿が見えたり見えなんだり致すが、何とも合点の参らぬ事でござる。何と致いた事でござりまするぞ。様子を承りたう存じまする。
▲シテ「これは、不審を立つるは尤ぢや。様子を話いて聞かさう。これこれ。これは、隠れ笠といふ宝物ぢや。又これは、隠れ蓑といふたから物ぢや。これを着すれば、人間の目に見えぬによつての宝物ぢや。
▲ヲモ「扨は、承り及びました隠れ笠、隠れ蓑は、これでござるか。
▲シテ「中々。その通りぢや。
▲ヲモ「扨も扨も、縁に連るれば唐の物とて、これは珍しい宝物を拝見致しまして、この様なありがたい事はござりませぬ。
▲シテ「さうあらうとも。
▲ヲモ「扨又、打ち出の小槌と申す宝物があると申しまするが、いかやうな物でござるぞ。
▲シテ「これは、一大事の事を問ひかけられた。さりながら、とてもの事に云うて聞かさう。打ち出の小槌といふは、何にても我が望みの物を、思ひの儘に打ち出すによつて、三つの宝の第一なれば、肌身離さず懐中して居るよ。
▲ヲモ「これは、ご尤でござる。
▲シテ「扨、最前から見れば、何やら提げて居るが、それは何ぢやぞ。
▲次ア「これはさゝえでござる。
▲シテ「何と、小竹筒とは。
▲ヲモ「酒の事でござる。
▲シテ「何ぢや。酒ぢや。
▲次ア「左様でござる。
▲シテ「何と、その酒を振舞ふ事はなるまいか。
▲次ア「幸ひ、我々もたべたうなりました程に、何が扨、上げませう。
▲ヲモ「さあさあ。さゝえを開かせられい。
▲次ア「心得てござる。
▲ヲモ「まづ、下にござりませい。
▲シテ「心得た。
▲次ア「小竹筒を開きましてござる。まづ、鬼殿へ進じませう。
▲シテ「まづそなた、始めさしませ。
▲ヲモ「まづ、こなたから参りませい。
▲シテ「それならばそなた、亭主役に呑うで、さゝしませ。
▲次ア「それは慮外にござるが、ともかくも御意次第に致しませう。
▲ヲモ「某の酌を致さう。
▲次ア「これは慮外にござる。さらば、先へ進じませう。
▲シテ「どれどれ。こちへおこさしませ。
▲次ア「恰度参りませい。
▲シテ「何が扨、ちやうどたべう。おつと。おりやる。
▲ヲモ「ちと謡はせられい。
▲次ア「心得てござる。《謡{*4}》
変らぬ友こそは、買ひ得たる市の宝なれ、買ひ得たるいちの宝なれ。
▲シテ「扨も扨も、冷いやりとして、良い気味ぢや。
▲ヲモ「扨は鬼殿は、一つ参ると見えた。重ねて参りませい。
▲次ア「さあさあ。続けさせられい。
▲シテ「まづそなた、お呑みやらいで。
▲ヲモ「まづ受けさせられい。
▲シテ「それならば、受けうか。
▲次ア「ようござりませう。《小謡》
▲シテ「これは面白い事ぢや。ひと引きには引かれぬ。ちと下に置かう。
▲ヲモ「ようござらう。
▲シテ「何と、日本にはかりそめにも遊舞をなして、人の心を慰むと聞き及うだ程に、何なりともひとさし舞はしませ。
▲次ア「いや。某などは、左様の事は不調法にござるよ。
▲シテ「いやいや。さうではあるまい。是非ともに所望致さう。
▲次ア「その儀ならば、ひとさし舞ひませう。
地を謡うて下されい。
▲ヲモ「心得ました。
▲次ア「《小舞》
▲シテ「やんやゝんやゝんや。さすが日本の舞程あつて、しほらしい面白い事ぢや。
▲ヲモ「お肴に、今一つ上がりませい。
▲シテ「中々。呑まうとも。
▲次ア「これも恰度参りませい。
▲シテ「おつと。おりやる。さらばこの盃を、そなたへさゝう。
▲ヲモ「これへ下されい。戴きませう。
▲シテ「あれへ持つておりやれ。
▲次ア「心得てござる。
▲シテ「そなたも恰度お呑みやれ。
▲ヲモ「おつと。ござる。何と思し召すぞ。某の、かやうに受け持つてござれば、鬼殿へ、何ぞ立ち姿を所望致したいが、何とござらうぞ。
▲次ア「これは一段とようござらう。
▲ヲモ「いや。申し。何とも申しかねてはござれども、私の受け持ちました程に、御立ち姿がひとさし所望でござる。
▲シテ「尤、肴に舞ひたけれども、蓬莱の島の舞は、面白うおりないよ。
▲ヲモ「それは定めてお卑下でござらう。珍しう拝見致したうござる程に、是非とも御舞ひなされませい。
▲シテ「それならば、ひとさし舞はうか。
▲ヲモ「ようござりませう。
▲シテ「《小舞》
▲両人「やんやゝんやゝんや。
▲ヲモ「扨も扨も、面白い事でござる。
▲次ア「いや。又、おしほらしい事でござる。
▲シテ「さうもおりない。
▲ヲモ「今のをお肴に、も一つたべませう。
▲次ア「さあさあ。参りませい。
▲ヲモ「おつと。ござる。扨、これを鬼殿へ進じませう。
▲シテ「もはや酒は、納めさしませぬか。
▲ヲモ「最前戴きました程に、それへ返進致しませう。
▲シテ「それならば、こちへおこさしませ。これは大盃ぢやによつて、今一つ呑うだならば、正体はあるまい。
▲次ア「恰度参りませい。
▲シテ「おつと。おりやる。
▲次ア「《小謡》
▲シテ「ひと引きには引かれぬよ。扨、そなたもひとさし舞はしませ。
▲ヲモ「某は許させられい。
▲シテ「いや。三神相応といふ事があれば、是非ともひとさし舞はしませ。
▲ヲモ「それならば、ひとさし舞ひませう。
地を謡うて下されい。
▲次ア「心得ました。
▲ヲモ「《小舞》
▲シテ「やんやゝんやゝんや。扨も扨も、どれにおろかもなう、しほらしい面白い事ぢや。今の小舞が殊の外出来た程に、その褒美に、この隠れ笠をそなたへおまさう。
▲ヲモ「これは、願ひまする処に、近頃ありがたうござる。
▲シテ「これこれ。そなたへも最前の舞の褒美に、この隠れ蓑をおまするぞ。
▲次ア「これは、思ひも寄らぬ仕合せ。忝うござる。
▲シテ「さらば、盃を干す程に、納めさしませ。
▲ヲモ「今少し参りませぬか。
▲シテ「いかないかな。早うとらしませ。
▲次ア「それならば納めませう。
▲シテ「さあさあ。辰の市へ参らう。
▲両人「ようござりませう。
▲シテ「これは、殊の外酔うておりやる。ちと手を引いてたもれ。
▲ヲモ「お手を引きませう。
▲次ア「某も、お手を引きませう。
▲シテ「いや。なうなう。道が、なゝ筋、や筋に見ゆるわ。《笑》
▲両人「左様でござりませう。
▲ヲモ「殊の外酔はせられてござる。
▲次ア「その通りでござる。
▲シテ「なう。怖ろしやの、怖ろしやの。
▲両人「何事でござるぞ。
▲シテ「向かうの石倉の間より、柊の枝が道端へ出てある。あゝ。こは物ぢや、恐物ぢや。《笑》
▲ヲモ「扨も扨も、臆病な事を仰せらるゝ。私どものお供致いて参る上は、少しもお気遣ひなされまするな。
▲シテ「殊の外酔うておりやる。これでは中々行かれぬ。ちとこれにまどろうでから、行かう。
▲ヲモ「一段とようござりませう。
▲シテ「さらば、ちと寝て行かう。えいえい。
▲ヲモ「ちとお腰を打ちませう。
▲次ア「お手をさすりませう。
▲ヲモ「申し、何とでござる。
▲次ア「ようござるか。
▲ヲモ「申し申し。
▲次ア「何とでござる。
▲ヲモ「申し。これへござれ。
▲次ア「何事でござる。
▲ヲモ「扨々、怖ろしい目に遭うてござる。
▲次ア「その通りでござる。
▲ヲモ「さりながら、存じも寄らぬ宝物を得て、かやうの大慶な事はござらぬ。
▲次ア「某は、早う宿へ帰り、妻子に見せて悦ばせませう。
▲ヲモ「待たせられい。
▲次ア「何事でござる。
▲ヲモ「最前申さるゝは、打ち出の小槌は、三つの宝の内で大切な程に、懐中して居らるゝと申されてござるによつて、何と、これを奪ひ取らうではござるまいか。
▲次ア「これは、一段とようござらう。さりながら、ちとこは物でござる。
▲ヲモ「某はあれへ参り、腰を打つて居りませう程に、こなた、良い時分を見合はせ、奪ひ取らせられい。
▲次ア「その儀ならば、心得てござる。
▲ヲモ「ぬからせらるゝな。
▲次ア「ぬかる事ではござらぬ。
▲ヲモ「何と、申し。お腰を打ちませうか。
▲次ア「お手をさすりませうか。
▲ヲモ「申し申し。何とでござる。
▲次ア「ようござるか。
▲ヲモ「申し。何とでござる。ようござるか。申し申し。
▲次ア「申し。これへござれ。
▲ヲモ「何事でござる。
▲次ア「これ。見させられい。まんまと奪ひ取つてござる。
▲ヲモ「扨々、でかさせられてござる。どれどれ。これへ見せさせられい。
▲次ア「なうなう。嬉しやの、嬉しやの。急ぎ宿へ帰り、望みの物を打ち出いて見ませう。
▲ヲモ「あゝ。これこれ。まづ待たせられい。
▲次ア「何事でござる。
▲ヲモ「その小槌を、こちへおこさせられい。
▲次ア「いやいや。これは某の奪ひ取つた物を、そなたへやる筈はござらぬ。
▲ヲモ「やあら。そなたは理不尽な。某が云ひ出いたればこそなれ。そなたへはやらぬ。これは是非ともに、某が取らねばならぬ。こちへおこさしませ。
▲次ア「いやいや。身共が命に替へて取つた物を、渡す事はならぬ。こちへおこさしませ。
▲ヲモ「是非ともこちへおこさしませ。
▲次ア「いや。こちへおこさしませ。
▲ヲモ「こちへおこさしませ。
▲次ア「こちへおこさしませ。
▲両人「こちへ、こちへ、こちへ。
これはいかな事。真つ平許いて下されい。
▲シテ「うゝ。姦しい。何事をするぞ。や。これはいかな事。それは打ち出の小槌ではないか。
▲両人「面目もござりませぬ。
▲シテ「あゝ。理不尽な者どもぢや。その様な横道な心では、何程打ち出いたりとも、出るものではない。某が批判を分かつて取らせう。まづ、それをばこちへおこせい。
▲次ア「畏つてござる。
▲シテ「扨、これを汝にやれば、あの者が恨む。又、あの者にやれば汝が恨むるによつて、とかく奪ひ合ふ物はこの鬼が取つて、両人の者どもには、子々孫々までも富貴繁昌に栄ゆる様に、宝物を打ち出いて与へうぞ。
▲両人「はあ。それはありがたう存じまする。
▲シテ「いでいで、宝を与へんとて。
▲地{*5}「いでいで宝を与へんとて、打ち出の小槌をおつ取りのべて、に人が間を丁々と打てば、金銀珠玉、米銭あまたに湧き出でたり。二人はこれを給はりて、悦び勇み、我が家をさして帰りければ。
▲シテ「これまでなりとて小槌をかたげ、これまでなりとて小槌を担げて、蓬莱の島にぞ帰りける。

校訂者注
 1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。
 2・3:底本は、「▲両人「」。
 4:底本、ここに「《謡》」はない。
 5:底本、ここに「▲地「」はない。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.)

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