狂言二十番 11 鈍太郎(どんたらう){*1}

▲シテ「これは、鈍太郎と申して、元は都の者でござる。某、手前不如意にござるについて、三年以前に他国を致いてござれども、これも思はしうござらず、故郷ゆかしうござるによつて、都へ上らうと存ずる。まづ急いで参らう。それについて、似合はぬ申し事なれど、上京と下京に宿を持つてござるが、久しう便りも致さぬによつて、ちと見舞はうと存ずる。何と、変る事もないか、心元なうござる。いや。何かと申す内に、都でござる。扨、上京から参らうか。いや。順ぢや程に、下京から参らう。久々ふみのおとづれも致さぬが、別條もないか知らぬまで。いや。行く程に、これでござる。あら不思議や。まだ日も暮れぬに、戸がさいてあるが。定めて、留守の用心のためにさいてあると見えた。まづ訪れて見ませう。
物申。こゝ、ちとおあけやれ。
▲下京「誰でござる。
▲シテ「鈍太郎が戻つた程に、こゝをあけさしませ。
▲下京「鈍太郎殿は、三年以前に他国致されてより、文のおとづれもござらぬによつて、女のひとり過ごしはなりませず、棒使ひをつまに語らうて居りまする。聊爾な事を仰せられたならば、ものが違ひませう。
▲シテ「やあやあ。棒使ひをつまに語らうた。
▲下京「中々。
▲シテ「やあら、おのれは憎い奴の。某の暇をも遣らぬに、棒使ひをつまに持つといふ事があるものか。その様な不届きな事をするに於いては、こゝを踏み破つても這入らねば置かぬが。こゝをあけぬか、あけぬか。
▲下京「なう。腹立ちやの、腹立ちやの。こちの人はござらぬか。早う出て、あの狼藉者を棒で打ち倒いて下されい、打ち倒いて下されい。腹立ちやの、腹立ちやの。
▲シテ「これはいかな事。真実、棒使ひをつまに語らうたやら、女がわめくと、棒の音がぐわたぐわたと致いた。扨も扨も、腹の立つ事かな。
やい。女め。棒使ひをつまに語らうとも、少しもちろちろする事ではない。某のかたから、もはや秋風の立つ時分ぢやに、それは幸ひな事ぢや。少しも執心は残さぬぞ。これから上京の心良しがゝたへ行くぞ。えい。
急いで上京へ参らう。又、心良しは常々気立ても違ひ、優しうござる程に、定めて待ち兼ねて居るでござらう。いや。行く程に、則ちこれぢや。これも戸がさいてある。いや。もはや日も晩ずるによつて、尤ぢや。まづ訪れませう。
こゝをあけておくりやれ。
▲上京「こゝをあけいと仰せらるゝは、誰でござるぞ。
▲シテ「鈍太郎が他国より戻つた程に、早うおあけやれ。
▲上京「いやいや。鈍太郎殿ではござるまい。又、辺りのお若い衆のなぶらせらるゝものでござらう。
▲シテ「いや。大方、声でも聞き知らう。真実、鈍太郎が仕合せを直いて戻つた程に、急いでおあけやれ。
▲上京「鈍太郎殿は、三年以前に他国致されて、つひに文のおとづれをもなされぬによつて、女のひとり身でも居られませぬ程に、薙刀使ひをつまに語らうてござる。今までの通りぢやと思し召しましたならば、ものが違ひませうぞ。
▲シテ「はて扨、その様な偽りを仰しやらずとも、早うあけさしませ。
▲上京「扨も扨も、愚かな事を仰せらるゝ。何しに偽りを申しませうぞ。聊爾な事を仰せられて、怪我をなされまするな。
▲シテ「扨は真実、薙刀使ひをつまにお持ちやつたか。
▲上京「偽りも、事によつたものでござる。真実でござる。
▲シテ「それが誠か。
▲上京「誠でござる。
▲シテ「真実か。
▲上京「真実でござる。
▲シテ「一定か。
▲上京「いちゞやうでござる。
▲シテ「やあら、おのれは憎い奴の。恐らく某の息の通ふ内は、その様な我が儘な事はさせぬ。こゝをあけぬに於いては、打ち破つても這入るが。あけぬか、あけぬか、あけぬか。
▲上京「なう。腹立ちやの、腹立ちやの。これのはござらぬか。その薙刀で、あの狼藉者を薙ぎ倒いて下されいの、薙ぎ倒いて下されいの。腹立ちやの、腹立ちやの。
▲シテ「これはいかな事。誠に薙刀使ひをつまに語らうたやら、女がわめくと、薙刀のひらめく音が致いた。扨も扨も、腹の立つ事かな。
やい。女め。おのれは憎い奴の。まだ某のいとまを遣らぬに、ようつまを語らひ居つたな。おのれ、覚えて居よ{*2}。たつた今に思ひ知らせうぞ。
はて扨、無念な事でござる。下京の山の神は心が変るとも、上京の心良しは、よもや変るまいと存じたれば、案に相違な事でござる。誠に、昔から事の譬へに、七人の子仲をなすとも、女に心を許すなと申すが、誠でござる。もはや、両人の者には見捨てらるゝ。この上、生きて居ても甲斐がない。思ひ切つて、淵へも川へも身を投げて、死んでのけう。いやいや。死んでは物がない。鈍太郎が他国より戻つたれども、両人の女に見捨てられ淵川へ身を投げたなどゝ、世間で取り沙汰に逢うては、無念なが。何とぞ命長らへて居て、両人の女に思ひ知らせたい事ぢやが。やあら、何とせうぞ。いや。思ひ出いた。元結ひ切つて遁世を致し、かの者どもに思ひ知らせうと存ずる。弓矢八幡、高野に居るぞ。えい。《泣》
▲下京「妾は、下京の鈍太郎殿の宿でござる。夜前、鈍太郎殿の参られてござるが、他国をされてより、久々ふみのおとづれもござらぬによつて、棒使ひをつまに語らうたと申してござれば、殊の外腹を立てられて、上京へ行くと申して参られてござる程に、あれへ参らうと思ひまする。かのかたへはつひに参らぬに、今更参るも嫌でござれども、何を申すも、鈍太郎殿に御目にかゝりたさの儘でござる。いや。参る程に、これさうにござる。まづ案内を乞ひませう。
物申。お宿にござりまするか。
▲上京「あら不思議や。聞き馴れぬ声で物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲下京「妾でござりまする。
▲上京「これは、見馴れぬお方でござるが。どれからの御出でござる。
▲下京「妾は、下京の鈍太郎殿の宿でござりまする。
▲上京「扨は、左様でござりまするか。はて扨、ようこそ出させられてござる。
▲下京「扨、只今参るは、別の事でもござりませぬ。夜前、鈍太郎殿の参られてござるが、他国を致されてより、久々ふみの便りもござらぬによつて、妾も腹の立つ儘、長々女のひとり過ぎもなりませず、棒使ひをつまに語らうたと申してござれば、殊の外腹を立てられまして、上京へ行くと申されてござる程に、妾に逢はさせられて下されませい。
▲上京「その御事でござりまする。成程、夜前これへも参られてござるが、辺りの若い衆のなぶらせらるゝと存じて、妾も、女のひとり過ぎはなりませぬによつて、薙刀使ひをつまに語らうたと申してござれば、腹を立てられまして、いづかたへやら参られて、これにはござりませぬ。
▲下京「いや。申し。妾も、つのを折つて参るからは、隠させられずとも、平に逢はさせられて下されい。
▲上京「何しに偽りを申しませうぞ。真実、これにはござりませぬ。
▲下京「扨は、真実これにはござりませぬか。
▲上京「中々。真実でござりまする。
▲下京「して、いづかたへ参られましてござるぞ。
▲上京「只今、人の話すを承れば、高野に出でさせらるゝとやら申してござる。
▲下京「やあやあ。かうやに出でさせられてござるか。
▲上京「中々。確かにその様に承りました。
▲下京「それは、苦々しい事でござる。何と致いたならば、良うござらうぞ。
▲上京「されば、何としたものでござらうぞ。ご思案をなされて御らうじられませい。
▲下京「妾が存じまするは、こなたと両人申し合はいて、上り下りの街道へ参つてござらば、定めて通らせられぬと申す事はござりますまい程に、あれへ参り、止めませうと思ひまするが、これは何とござらうぞ。
▲上京「これは良いご分別でござる。お供致しませう。
▲下京「それならば、いざ、ござりませい。
▲上京「まづ、こなたからござりませい。
▲下京「それならば、参りませう。さあさあ。ござれござれ。
▲上京「心得ました。
▲下京「いや。申し。かやうに両人、申し合はいて参るからは、いかな心強い鈍太郎殿でも、止まらせられぬと申す事はござりますまい。
▲上京「仰せらるゝ通り、ふたりして止めましたならば、止まらせられぬ事はござりますまい。
▲下京「いや。何かと申す内に、上り下りの街道へ参りました。
▲上京「その通りでござる。
▲下京「まづ、こゝ元に待ち合はせませう。
▲上京「良うござらう。
▲シテ「南無阿弥陀、南無阿弥陀。きのふまでは鈍太郎と云はれし身なれども、かやうの体になつてござる。南無阿弥陀、南無阿弥陀。
▲下京「申し。あれに見えまするは、鈍太郎殿ではござらぬか。
▲上京「中々。鈍太郎殿でござる。こなた、止めさせられい。
▲下京「心得ました。
申し申し。こなたは鈍太郎殿ではござらぬか。これは又、興あつた体でござる。思ひ止まつて下されいの。
▲シテ「南無阿弥陀、南無阿弥陀。
▲下京「申し申し。こなた行て、止めさせられい。
▲上京「心得ました。
申し申し。鈍太郎殿。これは、何と致いたなりでござるぞ。
▲シテ「南無阿弥陀、南無阿弥陀。
▲上京「両人参つて止めませう。
▲下京「心得てござる。
▲両人「申し申し。鈍太郎殿。これは、何と致いた体でござるぞ。何とぞ思ひ止まつて下されませい。
▲シテ「右からも左からも、媚びた女の、この尊い高野に出づる者を、なぜに取り付くぞ。南無阿弥陀、南無阿弥陀。
▲両人「いや。申し申し。御尤ではござれども、何とぞ思ひ止まらせられて下されませい。
▲シテ「棒使ひ、薙刀使ひをつまに語らうたれば、誰恐ろしいとも思はぬによつて、南無阿弥陀、南無阿弥陀。
▲両人「お腹立ちは御尤ではござれども、かやうに両人申し合はせて参るからは、何なりとも御心に従ひませう程に、さりとては思ひ止まらせられて下されませい。
▲シテ「いやいや。今までわゝしう云ひ付けた者が、俄かには直るまいによつて、南無阿弥陀、南無阿弥陀。
▲両人「申し申し。何なりとも、こなたの仰せらるゝ事は承引を致しませう程に、思ひ止まらせられて下されませい。
▲シテ「扨は、何なりとも某の云ふ事は聞かうぢやまで。
▲両人「中々。何なりとも承りませう。
▲シテ「それならば、某の思ふは、三十日を廿五日、そなたのかたへ行かうず。又、そなたの所へは残りいつか、行かうまで。
▲下京「なう。腹立ちやの、腹立ちやの。その様な片手打ちな事があるものでござるか。腹立ちやの、腹立ちやの。
▲シテ「それ。お見やれ{*3}。それぢやによつて、口を堅めた事ぢや。それがならずば、南無阿弥陀、南無阿弥陀。
▲上京「申し申し。まづ待たせられませい。こなたにも、左様の事は仰せられまするな。妾が良い了簡を付けませう。三十日の日を、十五日づゝ御出なされて下されませい。
▲シテ「和御料は了簡が良い。それならば、そなたは上京ぢやによつて、かみ十五日は和御料のかたへ行かうず。又、そなたは下京ぢやによつて、しも十五日はそちが所へ行かうよ。
▲下京「いやいや。それでは小の月は一日の損がござる。腹立ちやの、腹立ちやの。これもなりませぬ。
▲両人「それもならずば、南無阿弥陀、南無阿弥陀。
▲上京「申し申し。こなたにも、その様なこまかい事を云はせられずとも、了簡をして止めさせられい。
▲下京「心得ました。
申し申し。それならばともかくも致しませう程に、思ひ止まらせられて下されませい。
▲シテ「それならば、向後何なりとも、某の云ふ事を聞かうぢやまで。
▲下京「中々。承りませう。
▲シテ「それならば、思ひとまらうぞ。
▲両人「なうなう。嬉しやの、嬉しやの。
▲シテ「いや。なう。この度、某の高野に出たといふ事を、誰知らぬ者もなし。又、ふたりして止めたといふ事を世間へ知らするために、両人の手車に乗つて、囃子物で宿へ戻らうと思ふが、何とあらうぞ。
▲両人「これは一段と良うござりませう{*4}。扨、何と囃させられまする。
▲シテ「これは誰が手車と云はゞ、鈍太郎殿の手車と、とてもの事に、殿文字を付けてくれさしませ。
▲両人「何が扨、どの文字を付けませいでは。
▲シテ「それならば、まづ手を組ましませ。
▲両人「心得ましてござる。
▲シテ「ちと云うて見よう。
▲両人「良うござりませう。
▲シテ「これは誰が手車、これはたれが手車。
▲両人「鈍太郎殿の手車、鈍太郎どのゝ手車。
何とでござる。
▲シテ「一段と良い。急いで囃さしませ。
▲両人「心得てござる。
▲シテ「これは誰が手車、これは誰が手車。
▲両人「鈍太郎殿の手車、鈍太郎殿の手車。

校訂者注
 1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。
 2:底本は、「覚えて居るよ」。
 3:底本は、「夫(それ)を見(み)やれ」。
 4:底本は、「是(これ)は一段(いちだん)よう御座りませう」。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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