狂言二十番 12 丼礑(どぶかちつり){*1}

▲シテ「これは、この辺りに住居致す勾当でござる。まづ菊一を呼び出いて、談合致す事がござる。
菊一。居るかやい。
▲菊一「はあ。
▲シテ「あるか。
▲菊一「はあ。これに居りまする。
▲シテ「汝を呼び出すは、別の事でもない。この間は、打ち続いていづかたへも行かねば、気が屈したによつて、今日はいづ方へぞ遊山に出うと思ふが、何とあらうぞ。
▲菊一「内々、私のかたより申し上げうと存ずる処に、仰せ出だされた。一段と良うござりませう。
▲シテ「それならば行かう程に、さゝえを用意せい。
▲菊一「畏つてござる。小竹筒、用意致しましてござる。
▲シテ「いざ行かう。さあさあ。来い来い。
▲菊一「畏つてござる。
▲シテ「やい。何と思ふぞ。この如くに、汝や某が遊山に行くを、脇から人の見させられて、さぞ可笑しう思し召さうが、所が変ると思へば、ひとしほの慰みではないか。
▲菊一「いや。左様に思し召すお方もござりますまい程に、お心置きなう、ご遊山に御出なされたが良うござりまする。
▲シテ「いや。何かと云ふ内に、殊の外物淋しうなつたが。これは、野外れさうな。
▲菊一「誠、野外れさうにござる。
▲シテ「やい。広々とした所へ出たと思へば、さながら心が晴れ晴れとなつた様な。
▲菊一「仰せらるゝ通り、面白うなりましてござる。
▲シテ「やい。汝にいつぞは云はう云はうと思うて居た。そなたも、いつがいつまでも小歌や早物語でも済むまい程に、平家をちと稽古したならば良からう。
▲菊一「これは、私のかたよりないない願ひまする処に、仰せ出だされてござる。何とぞ御指南をなされて下されうならば、忝う存じまする。
▲シテ「それならば、幸ひ辺りに人も居ぬさうな。そちが稽古のために、一句語つて聞かさうぞ。
▲菊一「それは忝うござる。承りませう。
▲シテ「《平家》そもそも一の谷の合戦破れしかば、我も我もと高名せんと駈け廻る程に、きびすを切られてにじるもあり、おとがひをはつられてかゝふる者もあり。入り乱れたる合戦なれば、踵を取つて頤に付け、頤を取つて踵に付くる程に、生えうず事と、踵に髭が生え、頤にあかぎれが二、三百、ぽかりぽかりと切れにけり。
▲菊一「やんやゝんやゝんや。扨も扨も、これは承り事でござりまする。
▲シテ「いざ行かう。さあさあ。来い来い。
▲菊一「畏つてござる。
▲シテ「世間に平家を語る衆もあれども、上手がないものぢや程に、随分精を出いて稽古する様にせい{*2}。
▲菊一「何が扨、随分精を出しませう程に、御指南を頼み上げまする。
▲シテ「その上、某が検校になつたならば、汝をば勾当に取り立てゝ取らせうぞ。
▲菊一「それは別して、ありがたう存じまする。
▲シテ「いや。殊の外、水音がするが。川さうな。
▲菊一「誠、川さうにござる。
▲シテ{*3}「これは渡らずばなるまいが、何とせうぞ。
▲菊一「されば、何となされたならば良うござりませうぞ。
▲通行人「これは、この辺りの者でござる。山一つあなたへ所用あつて参る。まづ急いで参らう。いや。あれに座頭がふたりして、川をわたるさうな。何事を致すか、ちと見物致さう。
▲シテ「やいやい。まづ瀬踏みをするために、つぶてを打つて見よ。
▲菊一「畏つてござる。いや。えい。どんぶり。
▲シテ「やいやい。そこは深さうな。
▲菊一「殊の外、深さうにござる。
▲シテ「あちらの方へ、今ひとつ打つて見よ。
▲菊一「畏つてござる。いや。えい。づぶづぶづぶ、かつちり。
▲シテ「これは浅いさうな。
▲菊一「誠、浅さうにござる。
▲シテ「いざ渡らう。さあさあ。来い来い。
▲菊一「申し申し。まづ待たせられませい{*4}。
▲シテ「何事ぢや。
▲菊一「私の負ひ越しませう。
▲シテ「いやいや。苦しうない。汝も続いて渡れ。
▲菊一「いや。申し申し。私を連れさせらるゝは、かやうの時のためでござる。冥加のためでござる程に、平に負ひ越しませう。
▲シテ「いやいや。そちも目が見えず、自然、怪我があつてはいかゞな。互に手を引き合うて渡らう。さあさあ。来い来い。
▲菊一「いや。申し申し。常にご奉公致すは、かやうの時のためでござる。是非ともに負ひ越しませう。
▲シテ「それ程に思ふならば、負ひ越されう。さりながら、拵へをせう程に、汝もそれへ寄つて拵へい。
▲菊一「畏つてござる。
▲通行人「はて扨、座頭と申すものは、利発なものでござる。礫を打つて瀬踏みを致す。幸ひな所へ参りかゝつた。某の負ひ越されうと存ずる。
▲菊一「しかと負はれさせられい。さらば渡りまする。えいえい。深うなければ良いが。えいえい。まんまと負ひ越しましてござる。まづ、お怪我もなうて大慶に存じまする。
▲通行人「扨も扨も、嬉しい事かな。思ひも寄らぬ仕合せを致いてござる。
▲シテ「菊一。拵へは良いか。菊一、菊一。これはいかな事。菊一はどちへ行たぞ。菊一、菊一。やい。菊一。
▲菊一「やあ{*5}。
▲シテ「やあとは。なぜに負ひ越さぬぞ。
▲菊一「只今、負ひ越しましてござる。
▲シテ「負ひ越したとは。某は、これに身拵へをして居て、まだ負ひ越されはせぬ。おのれは、ひとり渡りをし居つたさうな。
▲菊一「こなたには、いつそれへござりましたぞ。
▲シテ「いつそれへござりましたとは。はて扨、憎い奴の。早うこれへうせう。
▲菊一「はて、合点の行かぬ事でござる。えいえいえい。さらば、負はれさせられい。
▲シテ「しかと負へ。
▲菊一「さらば渡りまする。えいえい。これは深さうにござる。
▲シテ「しかと負うてくれい。
▲菊一「えいえい。これはいかな事。深いわ、深いわ、深いわ。南無三宝。
▲通行人「扨も扨も、可笑しい事ぢやな。これは気の毒な事でござる。
▲シテ「扨も扨も、苦々しい事ぢや。たつたひと絞りになつた。これぢやによつて、負はれまいと云うたわ。
▲菊一「扨も扨も、気の毒な事を致いてござる。絞つて上げませう。私も随分、大事に渡りましたが、躓きましてござる。ご許されて下されませい。
▲シテ「過ちの事ぢやによつて、是非がない。何と、最前のさゝえは、何ともないか。
▲菊一「されば、何とござるか。いや。小竹筒は何ともござりませぬ。
▲シテ「いかう寒うなつた。まづ一盃呑まう程に、これへつげ。
▲菊一「畏つてござる。
▲通行人「これは幸ひな事ぢや。一つたべう。
▲菊一「さらば注ぎまする。とぶとぶとぶ。
▲シテ「おつと。あるさうな。これを呑うだならば、寒さを忘れうぞ。
▲菊一「左様でござりませう。
▲通行人「扨も扨も、旨い事かな。
▲シテ「菊一。なぜに注がぬぞ。
▲菊一「今の程、つぎましてござる。
▲シテ「ついだ様にはあれども、いつ水もない。
▲菊一「はて扨、合点の行かぬ。只今つぎましてござるに。それならば、も一つ上がりませい。
▲シテ「さあさあ。早うつげ。
▲菊一「心得ました。とぶとぶとぶ。
▲通行人「も一つたべう。又一つある。さらばたべう。扨も扨も、良い酒でござる。
▲シテ「おつと。あるさうな。汝も呑め。
▲菊一「私も下されませう。とぶとぶとぶ。扨も扨も、良い酒でござりまする。
▲シテ「やい。菊一。なぜにつがぬぞ。
▲菊一「はて扨、今の程つぎましてござる。
▲シテ「ついだ様にはあれども、ひと雫もない。某には呑ませいで、ひとり呑みをすると見えた。
▲菊一「いや。こなたには、お勾当とも申されぬ。さもしいひとり呑みを致すものでござるぞ。こなたには、呑み隠しをなさるゝさうな。
▲シテ「おのれは憎い奴の。人に呑ませぬのみならず、呑み隠しをするものか。いらぬ事を云はずとも、も一つ注げ。
▲菊一「畏つてござる。もはやござりませぬ。
▲シテ「何ぢや。ない。
▲菊一「中々。
▲通行人「扨も扨も、面白い事かな。ちと喧嘩をさせませう。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛。やい。菊一。酒を呑ませぬのみならず、なぜに某を打擲するぞ。
▲菊一「何と仰せらるゝ。打擲。
▲シテ「中々。
▲菊一「私は小竹筒を仕舞うて居つて、それへ手もやりは致しませぬ。
▲シテ「手もやらぬと。そちより他に、誰がするものぢや。
▲菊一「あ痛、あ痛、あ痛。申し。お勾当。こなたには、色々の事を仰せらるゝのみならず、咎もない者を、なぜに打擲なさるゝ。
▲シテ「某はそれへ手もやりはせぬ。
▲菊一「手もやらぬと。こなたより他に、たがあるものでござるぞ。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛。やい。菊一。なぜに某を色々になぶる。
▲菊一「私はそれへ手もやりは致さぬ。
▲シテ「手もやらぬと。そちより他に、誰があるものぢや。
▲菊一「あ痛、あ痛、あ痛。なう。お勾当。咎もない者を、色々になぶらせらるゝ。
▲シテ「何ぢや。なぶる。
▲菊一「中々。
▲シテ「某は、それへ手もやりはせぬ。
▲菊一「手もやらぬと。こなたより他に、誰があるものでござる。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛。
▲菊一「あ痛、あ痛、あ痛。
▲通行人「扨も扨も、面白い事かな。まだ、色々になぶつて遊ばう。これはいかな事。正真の喧嘩になつてござる。かやうの所に長居はいらぬものぢや。足元の明かい内、急いで罷り帰らうと存ずる。
▲シテ「もはや堪忍がならぬ。のがす事ではないぞ。
▲菊一「某も負くる事ではござらぬ。
▲両人「いやいやいや。
▲菊一「覚えたか。
なうなう。嬉しやの、嬉しやの。勝つたぞ、勝つたぞ。
▲シテ「やいやい。勾当をこの如くに打ちこかいて、どちへ行くぞ。人はないか。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。
 2:底本は、「稽古する程にせい」。
 3:底本、ここに「▲シテ「」はない。
 4:底本は、「中々、」。
 5:底本は、「や。」。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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