狂言二十番 13 神鳴(かみなり){*1}

▲アト「《次第》薬種も持たぬえせくすし、薬種も持たぬ似非薬師、きはだや頼みなるらん。
《詞》これは、洛中に住居致す藪医者でござる。某、色々とかたがたを療治を致せども、手前不如意にござる程に、他国を致いて見ようと存じて罷り出でた。まづそろりそろりと参らう。誠に、かやうに天下泰平の御代なれば、御典薬衆のかれのこれのと申して、歴々のお医者衆があまたござるによつて、我ら体の数ならぬ者は、他国致いて療治をつかまつらうより他はござない。いや。何かと申す内に、広い野へ参つたが、何といふ所ぢや知らぬ。
やあやあ。何と云ふぞ。播磨の印南野ぢや。
誠にこれは、聞き及うだ野でござる。いや。俄かに曇つて来たわ。扨も扨も、凄まじい気色になつた。これはいかな事。雨が降るわ。扨も扨も、苦々しい事ぢや。さればこそ、神鳴りが鳴るわ。雨宿りを致したいが。何とせうぞ。
▲シテ「ぴつかり、ぴつかり、ぴつかり。
▲アト「なう。怖ろしやの、怖ろしやの。桑原、桑原、桑原。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛。なう。痛やの、痛やの。あ痛、あ痛、あ痛。扨も扨も、したゝかに腰の骨を打ち折つた。天上がならぬ。この辺りに木が一本もない。いや。これに何者やら、かゞうで居る。
やいやい。そこに居るは何者ぢや。
▲アト「人間でござりまする。
▲シテ「人間にとつても、まづいかやうな者ぢや。
▲アト「私は藪医者でござるが、他国を致しまするによつて、この野を通り合はせてござれば、殊の外凄まじう雷の鳴らせらるゝによつて、余り怖ろしさの儘、これにかゞうで居りまする。
▲シテ「何ぢや。藪医師ぢや。
▲アト「中々。
▲シテ「某は神鳴ぢやが、何としてやら取り外してこゝへ落ちて、したゝかに腰の骨を打ち折つて、にじる事もならぬ程に、何とぞ療治をしてくれい。
▲アト「はあ。畏つてはござれども、只今まで人間の療治は致いてござれども、雷の療治は迷惑にござりまする程に、この儀はご許されて下されませい。
▲シテ「おのれ、療治をせぬに於いては、掴み殺してのけう。
▲アト「あゝ。それならば、療治をつかまつりませう。真つ平命を助けて下されませい。
▲シテ「さあさあ。それならば、療治をしてくれい。
▲アト「それならば、まづちとお脈を窺ひませう。
▲シテ「脈を見てくれい。これは何とするぞ、何とするぞ。
▲アト「ようござりまする。総じて、下界の人間は左右の手にござるによつて、心、肝、腎、肺、脾、命門を考へまするが、こなたには天上の御方でござるによつて、頭脈と申して、かしらで脈を窺ふ事でござる。
▲シテ「これは、尤ぢやよ。
▲アト「扨、こなたには、落ちさせられたが尤でござる。ご持病に中風がござるが、それ故落ちさせられたものでござらう。
▲シテ「汝は、よう脈を取り覚えた。殊の外、上手ぢや。某は、ふだん中風気なよ。
▲アト「左様に見えまする。
▲シテ「それならば、急いで療治をしてくれい。
▲アト「畏つてござる。さりながら、こゝは野なかでござれば、薬を煎じませう手立てがござらぬ。某は針をも致しまするが、かやうの早業には、薬程の事はござりませぬ程に、針を打ちませう。
▲シテ「それはともかくぢや。早う天上する様にしてくれい。
▲アト「心得ましてござる。くわつし、くわつし、くわつし、くわつし。
▲シテ「あ痛、あ痛。なう。痛やの、痛やの。あ痛、あ痛、あ痛。
▲アト「雷の、その様な卑怯な事がござらうか。ちと痛い分は、堪忍なされませい。くわつし、くわつし、くわつし。ずう。何とでござる。
▲シテ「はあ。今ので少し良い様な。
▲アト「それならば、今度は横針を致しませう。
▲シテ「良からう。さりながら、痛まぬ様に打つてくれい。
▲アト「少しの間でござる。ご堪忍をなされませい。くわつし、くわつし、くわつし、くわつし。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛。なう。痛やの、痛やの。
▲アト「申し。針が曲がりまする。ちとこらへさせられい。ずう。何とでござる。
▲シテ「余程快うなつた。
▲アト「それならば、今度はお腰へ打ちまする。
▲シテ「さりながら、静かに打つてくれい。
▲アト「ちとご堪忍なされませい。くわつし、くわつし、くわつし。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛。なう。痛やの、痛やの。あ痛、あ痛、あ痛。
▲アト「くわつし、くわつし。ずう。何とでござる。
▲シテ「もはや、すきと快うなつた。
▲アト「それはめでたう存じまする。
▲シテ「そちは、殊の外上手ぢや。某の朋輩どもにも中風げな者があるによつて、汝にかけたい事ぢやよ。
▲アト「私が掛かつてひと療治致さば、その儘治りませうものを。
▲シテ「扨、薬代をやりたいが、このみぎりぢやによつて何もないが、何とせうぞ。
▲アト「それは忝うござるが、こなたの達者に治られたこそ、めでたう大慶に存じますれ。別にお礼には及びませぬ。
▲シテ「さりながら、何ぞやりたいものぢやが。このばちを取らせう。
▲アト「いや。その撥は、私の方で用に立ちませぬ程に、いらぬ物でござる。。
▲シテ「それならば、何をやらうぞ。この太鼓を取らせう。
▲アト「その太鼓を貰ひましても、かへつて迷惑にござる。
▲シテ「しかしながら、何ぞ礼をしたいものぢやが。何とせうぞ。しからば、何ぞ望みがあらば云へ。叶へてやらう。
▲アト「それならば申しませう。私は、田舎を歩きまして渡世を送りまする者でござる程に、日の照つて良い時分には、日を照らさせられて下されうず。また、雨の降つて良い時分には雨を降らさせられて、干損、水損もなう、五穀成就致す様に守らせられて下されうならば、ありがたう存じまする。
▲シテ「それこそ易い事ぢや。さりながら、いか程守らうぞ。
▲アト「三千年守らせられて下されい。
▲シテ「いやいや。三千年といふは夥しい事ぢや程に、三年守らう。
▲アト「この界の三年では、あまり僅かの間でござる程に、それならば、千年守らせられて下されい。
▲シテ「いやいや。千年もまだ多い。しからば、八百年守らうぞ。
▲アト「それは忝う存じまする。しからば、八百年守らせられて下されい。
▲シテ「この上は、ひそん、みづそんもなう五穀成就致し、汝が行く末富貴延命に栄ゆる様に守らうぞ。
▲アト「それは、ひとしほありがたう存じまする。
▲シテ「もはや天上するぞ。
▲アト「お名残惜しうござる。
▲シテ「《上》降つゝ照らいつ。
▲地「ふつゝてらいつ、八百年がその間、干損水損もあるまじい、御身は薬師の化権かや、中風を治すくすしを、典薬のかみと云ひ捨てゝ、また鳴る神はのぼりけり。
▲シテ「ぴつかり、ぴつかり。
▲アト「桑原、桑原、桑原。

校訂者注
 1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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