狂言二十番 15 伊勢物語(いせものがたり){*1}

▲シテ「罷り出たる者は、西国方の者でござる。某、未だ伊勢参宮をつかまつらぬによつて、この度思ひ立ち、参宮の志で罷り出でた。まづそろりそろりと参らう。誠に、遥々の海上なれども、天照大御神の御利生を受くるか、順風なれば浪も静かにして船中快く乗り、又、くがになれども、天気よく打ち続き足も軽くして、祝ふ事でござる。
いや。こゝ元は何と申すぞ。やあやあ。何ぢや。近江の国、湖ぢや。
これは、国元で承り及んだよりも広々として、眺めひとしほある湖水ぢや。扨は、この橋は隠れもない、かの瀬田の長橋でござらう。扨も扨も、良い景かな。古歌にも、真木の板も苔生ふばかりなりにけり幾代経ぬらん瀬田の長橋。と詠まれたるも、この所での事でござらう。扨々、海上とは違うて、くがぢを通れば心面白い事かな。
扨、こゝ元は何と申す所ぞ。何ぢや。伊勢の国、安濃ごほりぢや。
扨は、はや伊勢の国へ着いた。やれやれ。嬉しい事かな。はるばる日向の国を発つて伊勢路に来るまで、つゝがなう足手息災で、これひとへに大神宮の御利生と存じ、ありがたい事でござる。いや。殊の外草臥れたれば、幸ひこれにみ堂がある。この御堂の縁に、ちと休んで参らう。
▲アト出家「これは、この辺りに住居致す、斎夢坊と申す者でござる。今朝さるかたへ斎に参り、只今帰る。まづそろりそろりと参らう。いつもとは申しながら、取り分き当年は殊の外、世間ともに雨続き良うて、田がよく植わるゝと申して、いづ方の在所にも、これのみ祝ふ事でござる。いや。この御堂の縁に、快う昼寝をして居る者があるよ。これは伊勢参宮の者と見えたよ。一炊の眠りに千年を延ぶると申すが、この事であらう。これは羨ましい事かな。愚僧もこれに、ちと休らうで参らうよ。
▲二のアト「これは、この在所に住居致す百姓でござる。今朝は志の事ありて、在所の衆中へ茶を煎じて供養致し、何か今までひま入り多くして、只今やうやう早苗を分けに罷り出でた。まづ参らう。雨続きが良うござる程に、早苗を分けて、今日明日の内に田を植ゑさせうと存ずる。いや。この御堂に、斎夢坊の余念もなう昼寝しておぢやるよ。これは誰ぢや。伊勢参宮道者ぢやよ。これは旅の疲れにて、前後わきまへず寝入りたるは尤ぢやが、斎夢坊は今朝某のかたへ斎に来て、左程に草臥るゝ事もあるまいに。これは又、出家に似合はぬ事ぢやよ。誠にこの御坊は、いづ方へ斎非時に参りても、先々にてよく眠るによつて、ときの夢と書いて斎夢坊と名付けたと申すが、誠ぢやよ。これは余りな事ぢやに、起こしませう。
こりやこりやこりや。やれ。起きよ。
▲両人「はつ、はつ。
▲シテ「いや。何右衛門殿か。はて、快う夢を見、寝て居るに、急な起こしやうで肝を潰したよ。
▲二のアト「和御料は誰ぢや。某は近付きではないが。何とて某が名を知りたるぞ。
▲シテ「今朝程そなたに斎に参つたわ。
▲二のアト「某は、斎にそなたは呼ばぬよ。
▲出家「こゝは何と申す所でござるぞ。
▲二のアト「御坊は寝忘れたか。そなたの在所でおぢやるわ。
▲出家「某は日向の者ぢやに、某が在所とは。そちは何者ぢや。
▲二のアト「何者と云ふ事があらうか。そなたはうろたへたの。
▲出家「やあら、うろたへたとは憎い奴の。所を尋ぬるに、所の者ならば教へはせいで、男に向かつてうろたへたとは推参な。参宮道者なれども堪忍せぬぞ。
▲シテ「まさしく今朝、斎にまで呼うで愚僧を近付けて、存ぜぬと。そなたは何事を云ふぞ。斎夢坊は愚僧ぢや。
▲二のアト「これは一円、合点が行かぬわ。まさしう斎夢坊は、そなたではおりないか。
▲シテ「斎夢坊はこれ、愚僧ぢやわ。
▲出家「某は、日向より伊勢参宮する者ぢやよ。
▲二のアト「いよいよこれは合点が行かぬ。
まづ、心を静めてよくお聞きやれ。そなた、何程日向より参宮すると仰しやつても、まさしく衣を着し、坊主ではないか。
▲出家「某を坊主とは。
やあやあ。これはこれは。これはどうした事ぢや。
▲二のアト「そなた、何程斎夢坊ぢやと仰しやつても、そなたは俗人ぢやわ。
▲シテ「何と、愚僧を俗人ぢやとは。
▲二のアト「でも、坊主ではないわ。
▲シテ「これはこれは。これは又、何とした事ぢやぞ。
▲二のアト「いかさま、これは合点が行かぬが、何とした事ぞ。誠、思ひ出した。最前、某が両人を慌たゞしう急に起こしたによつて、これは魂が入り替つたものであらう。
▲出家「某は、疑ひもない日向の者で、心にたがうた事もなし、そなたをつひに見た事もないが、姿は衣を着、坊主ぢや。これは合点の行かぬ事ぢや。
▲シテ「いかさま、何右衛門殿の仰しやる通り、今朝そなたの所へ斎に参つたは、紛ひもない事なり。斎夢坊は愚僧ぢやが、又、そなたの仰しやれば、髪を結ひ俗体ぢやが、これは不思議な事ぢやよ。
▲二のアト「とかくに、これは今一度こゝに両人寝させて、某が起こしやうがある程に、今一度両人ともに寝さしませ。
▲シテ「その儀ならば、今一度寝よう程に、出家は出家、俗は俗と、体も心も一同する様にしておくりやれ。
▲二のアト「心得た。まづ早く寝さしませ。
▲シテ「心得た。
▲二のアト「これは不思議な事かな。誠に、昔よりも、人の寝入りたるを急に起こさぬものぢやと申すが、かやうの事でござらう。これは前代未聞の物語になる事でござる。いや。やうやう寝入りませうに、まづ斎夢坊から起こしませう。
これ。なうなうなうなう。
▲出家「むうむう。良う寝た。
よいや。何右衛門殿か。まづ、今朝は忝うござる。いかうお斎の上で御酒にたべ酔うて、これにちと休みましたよ。
▲二のアト「尤でおぢやる。こちらも起こさう。
これこれ。なうなうなう。
▲シテ「あゝゝ。扨々、良う寝たよ。これは、殊の外日がたけたわ。
これはどなたでござるぞ。ようこそ起こして下されました。某は、西国方より遥々参宮を致す者でござるが、殊の外草臥れまして、これにまどろみましたよ。
▲二のアト「それそれ。いづれもそれでこそ良けれ。最前の通りでは、某の迷惑致すよ。
▲シテ「最前の通りとは、それは又、何事でばしござるぞ。
▲二のアト「扨は、様子を知らぬか。
▲シテ「中々。何事も存ぜぬよ。
▲二のアト「又、斎夢坊はお知りやらぬか。
▲出家「夢にも存ぜぬよ。
▲二のアト「それならば、話して聞かせう。最前、両人がよくこの所に余念もなう寝て居さしましたを、某が何心なく、慌たゞしく急に起こしたれば、魂が入り替りたるものであらうわ。斎夢坊は参宮の志と仰しやる。又、日向の道者は、某に今朝の斎の礼を仰しやる。何とも心と体とが替りたるによつて、某も起こして迷惑致し、よく思案をして、両人を又寝させて、只今そろそろと起こしたれば、誠の俗は俗、出家は出家と分かりておぢやるよ。
▲シテ「これは夢にも存ぜぬ。只今の様子を承れば、これは不思議な事でござる。これは後々までの物語になる事でござるよ。扨、日もたけてござる程に、もはやお暇申さう。さらば暇申さん。
▲両人「あら名残惜しや。
▲シテ「こなたも名残惜しけれど、あの日を向かうては、遥かの伊勢に参りける。
▲両人「げにもさあり、やよがりもさうよの、やよがりもさうよの。
▲シテ「下向道の土産には、下向道の土産には、伊勢菅笠や千度祓、鯨物差貝杓子、青海苔ふのり簫の笛、買ひ集め取り集め、日向の国に帰りけり、日向の国に帰りけり。

校訂者注
 1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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