狂言二十番 16 附子(ぶす){*1}

▲主「これは、この辺りの者でござる。召し使ふ者を呼び出いて、申し付くる事がござる。
太郎冠者。居るかやい。
▲シテ「はあ。
▲主「次郎冠者をも呼べ。
▲シテ「畏つてござる。
次郎冠者。召す。
▲次郎冠者「心得た。
▲両人「両人ともに、お前に。
▲主「汝らを呼び出すは、別の事でもない{*2}。某は、さる方へ遊山に行く程に、両人とも、よう留守をせい。
▲両人「畏つてござる。
▲主「それについて、汝らに預くる物がある程に、それに待て。
▲両人「はあ。
▲主「やいやい。これを汝らに預くる程に、よう番をせい。
▲シテ「して、あれは何でござる。
▲主「あれは、附子ぢやよ。
▲両人「それならば、両人にいち人。なあ。
▲次郎冠者「中々。
▲両人「お供に伺候致しませう。
▲主「汝らは何と聞いたぞ。
▲シテ「あれが留守ぢやと仰せられまするによつて、両人にいち人お供に参らうとの事でござる。
▲主「それは、汝らが聞きやうが悪い。あれは附子と云うて、人の身に大毒の物で、あのかたから吹く風に当たつてさへ忽ち滅却する程に、必ず傍に寄らぬ様にして、よう番をせい。
▲シテ「して、その大毒の物を、何とてこなたには、もて扱ひをなされまするぞ。
▲主「不審、尤ぢや。あれは主を思ふ物で、そのしゆが取り扱へば何事もなし。余人が取り扱へば、そのまま滅却する程に、必ず傍に寄らぬ様にして番をせい。
▲シテ「その儀ならば。
▲両人「畏つてござる。
▲主「やがて戻らうぞ。
▲両人「やがてお帰りなされませい。
▲シテ「いや。なうなう。今日は頼うだ人のお留守ぢやによつて、ゆるりと居て話さうぞ。
▲次郎冠者「何が扨、ゆるりと居て話さうとも。
▲シテ「まづ下におりやれ。
▲次郎冠者「心得た。
▲シテ「いや。なう。何と思はしますぞ。いづ方へ御出なさるゝとあつても、両人にいち人お供に召し連れられぬといふ事はないが、今日は両人ともにお留守に置かせらるゝは、あの附子は、よくよく大切な物と見えておりやる。
▲次郎冠者「和御料の云ふ通り、両人を留守に仰せ付けらるゝは、よくよく大事の物と見えておりやる。
▲シテ「そりや、そりや、そりや。
▲次郎冠者「これは何事でおりやる。
▲シテ「あのかたから暖かな風が吹いて来たによつて、すわ滅却する事かと思うて驚いたよ。
▲次郎冠者「今のは風ではなかつたよ。
▲シテ「それならば良うおりやる。扨、某はあの附子を、ちと見て置かうと思ふ。
▲次郎冠者「はて扨、和御料はむざとした事を仰しやる。頼うだ人の仰せらるゝは、そのしゆが取り扱へば何事もなし、余人が取り扱へば忽ち滅却すると仰せられたによつて、これはいらぬものでおりやる。
▲シテ「そなたの仰しやるは尤なれども、さりながら、自然どなたぞ、そちが所には附子といふ物があると聞いたが、いかやうな物ぢやと仰せられた時、いや。何とござるをも存ぜぬと申しては、いかゞぢや程に、ちよつと見て置かうと思ふ。
▲次郎冠者「和御料の仰しやるも尤なれども、あのかたから吹く風に当たつてさへ、その儘滅却すると仰せられた程に、これは無用にさしませ。
▲シテ「さればその事ぢや。風に当たれば滅却するによつて、風に当たらぬ様に、こなたからあふぎながら見ようではないか。
▲次郎冠者「扇ぎながらか。
▲シテ「中々。
▲次郎冠者「これは一段と良うおりやらう。
▲シテ「それならば某が扇がう程に、和御料、紐を解かしませ。
▲次郎冠者「某は紐を解かう程に、随分扇いでくれさしませ。
▲シテ「心得た。
▲次郎冠者「扇げ、扇げ。
▲シテ「扇ぐぞ、扇ぐぞ。
▲次郎冠者「解くぞ、解くぞ。
▲シテ「解け、解け。
▲次郎冠者「さあ。解いたわ。
▲シテ「でかさしました。ついでに蓋をも取らしませ。
▲次郎冠者「某が紐を解いた程に、和御料、蓋を取らしませ。
▲シテ「それならば、身共が蓋を取らう程に、随分扇がしませ。
▲次郎冠者「心得た。
▲シテ「扇げ、扇げ。
▲次郎冠者「扇ぐぞ、扇ぐぞ。
▲シテ「取るぞ、取るぞ。
▲次郎冠者「取れ、取れ。
▲シテ「さあ。取つたわ。
▲次郎冠者「でかさしました。
▲シテ「まづは、生類ではないと見えた。
▲次郎冠者「それはなぜに。
▲シテ「生類ならば、その儘飛んでも出さうなものぢやが、まづは生類ではないと見えた。
▲次郎冠者「その通りでおりやる。
▲シテ「これから、とつくりと見ようではないか。
▲次郎冠者「良うおりやらう。
▲シテ「随分扇がしませ。
▲次郎冠者「ぬかる事ではない。
▲シテ「扇げ、扇げ。
▲次郎冠者「扇ぐぞ、扇ぐぞ。
▲シテ「扇げ、扇げ。
▲次郎冠者「扇ぐぞ、扇ぐぞ。
▲両人「扇げ、扇げ、扇げ。
▲シテ「さあ。見たわ、見たわ。
▲次郎冠者「何と見さしました。
▲シテ「某は、白うどんみりと見ておりやる。
▲次郎冠者「身共は、鼠色にどんみりと見ておりやる。
▲シテ「扨、某はあの附子を、ちと喰ひたうなつた。
▲次郎冠者「はて扨、和御料はむざとした事を仰しやる。風に当たつてさへ滅却すると仰せられた物を、何と聊爾に喰はるゝものでおりやる。
▲シテ「いやいや。某は附子に領じられたやら、しきりに喰ひたうなつた。行て喰はうぞ{*3}。
▲次郎冠者「これこれ。まづ待たしませ。頼うだ人のお留守に凶事があつては、某いち人の迷惑ぢや程に、これはいらぬものでおりやる。
▲シテ「いやいや。苦しうない。放さしませ。
▲次郎冠者「某のこれに居る内は、遣る事はならぬ。いらぬものでおりやる。
▲シテ「いや。苦しうない。放さしませ。
▲次郎冠者「はて扨、いらぬものでおりやる。
▲シテ「放さしませいと云へば。
▲次郎冠者「いらぬものでおりやる。
▲シテ「名残の袖を振り切りて、附子の傍にぞ寄りにける。
▲次郎冠者「これはいかな事。たつた今に滅却致すでござらう。扨も扨も、苦々しい事でござる。
▲シテ「さあ。たまらぬわ、堪らぬわ。
▲次郎冠者「やいやい。何としたぞ、何としたぞ。
▲シテ「気遣ひさしますな。旨うて堪らぬ。
▲次郎冠者「何ぢや。旨うて堪らぬ。
▲シテ「中々。
▲次郎冠者「して、何でおりやる。
▲シテ「砂糖でおりやる。
▲次郎冠者「何ぢや。砂糖ぢや。
▲シテ「中々。
▲次郎冠者「どれどれ。某も舐めて見よう。
▲シテ「和御料も舐めて見さしませ。
▲次郎冠者「誠、これは砂糖でおりやる。頼うだ人に騙されておりやる。
▲シテ「いや。なうなう。そなたひとり舐めずとも、こちへおこさしませ。
扨も扨も、旨い事ぢや。手も離さるゝ事ではない。
▲次郎冠者「いや。なうなう。そなたひとり舐めずとも、こちへおこさしませ。
▲シテ「これはいかな事。又、どちへ持つて行た。
いや。なうなう。そなたひとり舐めずとも、こちへおこさしませ。
▲次郎冠者「又、どちへやら。
いや。なうなう。和御料ひとり舐めずとも、こちへおこさしませ。
▲シテ「これはいかな事。又、どちへやら持つて行た。
いや。なうなう。そなたひとり舐めずとも、こちへおこさしませ。
▲次郎冠者「こちへおこさしませ。
▲シテ「こちへおこさしませ。
▲次郎冠者「こちへおこさしませ、おこさしませ、おこさしませ、おこさしませ。
▲シテ「ほう。良い事をさしました。皆になつておりやる。
▲次郎冠者「誠、皆になつておりやる。
▲シテ「頼うだ人のお帰りなされたならば、真つ直に申し上げう。
▲次郎冠者「和御料がねぶりそめて置いて。某の真つすぐに申し上ぐる。
▲シテ「これはざれごとでおりやる。扨、何としたものであらうぞ。
▲次郎冠者「何としたならば良からうぞ。
▲シテ「まづ下におりやれ。
▲次郎冠者「心得た。
▲シテ「扨、なう。頼うだ人のお帰りなされたならば、何と申し上げたものでおりやらうぞ。
▲次郎冠者「されば、何と申し上げたならば良うおりやらうぞ。和御料、分別をして見さしませ。
▲シテ「いや。なうなう。良い事を思ひ出いた。あの床の掛け物を破らしませ。
▲次郎冠者「はて扨、和御料はむかつな事を云ふ人ぢや。あの附子を喰ふさへあるに、何と御秘蔵の掛け物が破らるゝものぢや。
▲シテ「いやいや。言ひ訳の種になる。
▲次郎冠者「それならば、破らいで何とするものぢや。さらさらさら。
▲シテ「ほう。良い事をさしました。頼うだ人のお帰りなされたならば、その儘申し上ぐるぞ。
▲次郎冠者「和御料が破れと云うて破らせて置いて。某の真つ直に申し上ぐる。
▲シテ「これも戯れ言でおりやる。
▲次郎冠者「それならば良うおりやる。
▲シテ「扨、あの台子、台天目をも打ち割らしませ。
▲次郎冠者「いや。なう。和御料、気でもたがひはせぬか。あの御秘蔵の掛け物を破るさへあるに、何とあのだいす、台天目が打ち割らるゝものか。
▲シテ「いやいや。これも言ひ訳の種になる。某も手伝はう程に、打ち割らしませ。
▲次郎冠者「それならば、打ち割らいで何とするものぢや。
▲シテ「まづ、この天目から打ち割らう。
▲次郎冠者「良うおりやらう。
▲シテ「くわらり、ちん。
▲次郎冠者「ちん、くわらりん。
▲両人「《笑》
▲シテ「微塵{*4}になつておりやる。
▲次郎冠者「その通りでおりやる。
▲シテ「台子をも踏み砕かう。
▲次郎冠者「良うおりやらう。
▲両人「めりめりめりめりめり。《笑》
▲シテ「みぢんになつておりやる。
▲次郎冠者「その通りでおりやる。
▲シテ「扨、頼うだ人のお帰りなされたならば、さめざめと泣いて居よう。
▲次郎冠者「泣けば済む事か。
▲シテ「中々。済む事ぢや。やうやうお帰りなされう程に、これに寄つておりやれ。
▲次郎冠者「心得た。
▲シテ「ゆるりと遊山を致いてござる。急いで宿へ帰らうと存ずる。両人の者どもが待ち兼ねて居るでござらう。
やいやい。太郎冠者、次郎冠者。戻つたぞ、戻つたぞ。
▲シテ「お帰りなされた。泣け、泣け。
▲次郎冠者「心得た。
▲両人「《泣》
▲シテ「これはいかな事。某の戻つたといふ事を聞いたならば、その儘飛んでも出さうなものぢやが。
さめざめと泣くは、何事ぢやぞ。
▲シテ「そなた、申し上げさしませ。
▲次郎冠者「和御料、申し上げさしませ。
▲主「どちらからなりとも、早う云はぬか。
▲シテ「それならば、私の申し上げませう。お留守になつてござれば、あまり淋しうなりましたによつて、次郎冠者が相撲を取らうと申しまする程に、私はつひに取つた事がないと申してござれば、是非ともにと申して、かひなを取つて引き立てまするによつて、それが迷惑さの儘、あの床の掛け物に取り付いてござれば、あの如くに。な。
▲次郎冠者「中々。
▲両人「裂けましてござる。《泣》
▲シテ「これはいかな事。某の秘蔵の掛け物を、あの如くに引き裂いて。只置く事ではないぞ。まだあらば、早う云へ。
▲シテ「それより右左へ取つて引き廻し、あの台子、台天目の上へ、ずでいどうと投げられてござるによつて、あの如くに。な。
▲次郎冠者「中々。
▲両人「打ち割れましてござる。《泣》
▲シテ「扨も扨も、憎い奴ぢや。台子、台天目をも、あの如くに打ち割つて。只置く事ではない。まだあらば、早う云へ。
▲シテ「この上は、生けては置かせられまいと存じて、附子を喰うて死なうと思うて。な。
▲次郎冠者「中々。
▲シテ「ひと口喰へども死なれもせず。
▲次郎冠者{*5}「ふた口喰へどもまだ死なず。
▲シテ「三口、四口。
▲次郎冠者「いつくち。
▲両人「十口余り、皆になるまで喰うたれども、死なれぬ事のめでたさよ。あら、かしらかたや候ふ。
▲主「何のおのれ、かしらかたや。
▲両人「まつぴら許いて下されい、許いて下されい。
▲主「あの横着者。人たらし。どちへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。
 2:底本は、「別でもない」。
 3:底本は、「行(い)てくうぞ」。
 4:底本は、「塵微(みぢん)」。
 5:底本、ここに「▲次郎冠者「」はない。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

前頁  目次  次頁