狂言二十番 17 仁王(にわう){*1}

▲シテ「これは、この辺りの者でござる。某、身上不如意にござつて、渡世の営みがなりにくうござるによつて、まづ他国致いて見ようと存じて罷り出でた。それに付いて、こゝに別してお心安うお目を懸けさせられて下さるゝお方がござるほどに、お暇乞ひながらこれへ立ち寄つて参り、もし又、良いご思案もござらば、お差図に任せ当所に足を止めうと存ずる。まづ急いで参らう。何と、お宿にござれば良うござるが。常々お暇なしでござるによつて、かやうにわざわざ参つても、自然お留守なれば、いかゞでござる。あはれ、お宿にござつて下されいかしと存ずる。いや。参る程に、則ちこれぢや。
物申。案内申。
▲アト「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。物申とは。
▲シテ「私でござる。
▲アト「いや。誰。ようこそおりやつたれ。
▲シテ「この間は久々お見舞ひも申しませぬが。
▲アト「中々。変る事もない。して、そなたは旅立ちの体ぢやが、いづ方へ行かしますぞ。
▲シテ「さればその御事でござりまする。こなたへ申し上ぐるも、近頃お恥づかしうござれども、殊の外身上不如意になりまして、もはや当所の住居もなりませぬによつて、他国を致さうと存じて、おいとま乞ひに伺候致しましてござる。只今までは、何かとお目を懸けさせられて下されて、忝う存じまする。
▲アト「はて扨、それは気の毒な事でおりやる。他国をせずとも、ひと稼ぎ稼いで見る様な分別はおりないか。
▲シテ「いや。申し。かたがたを塞げましたによつて、いづ方へもご無心申さうかたもござりませぬ。
▲アト「して又、他国をすれば、基く事でもおりやるか。
▲シテ「いや。左様の事もござりませぬが、ふと思ひ付きましでござる。
▲アト「はて扨、そなたは無分別な人ぢや。心当たりもなうて他国するといふ事があるものでおりやるか。
▲シテ「はあ。
▲アト「某の聞いて、聞き捨てにはならぬ。何とぞしておませたいものぢやが。
▲シテ「良い様にご分別なされて下されませい。
▲アト「なうなう。良い事を思ひ出いた。我御科は、物真似などはならぬか。
▲シテ「物によつて真似ませうが、何の真似を致す事でござる。
▲アト「仁王の真似は、なるまいか。
▲シテ「あの、楼門に立たせられた仁王の真似でござるか。
▲アト「中々。
▲シテ「これは幸ひ、辺り近い楼門に仁王がござつて、見覚えてをりまするによつて、仁王の真似ならば致しませう。
▲アト「それならば良い事がある。そなたを仁王の体に拵へ、扨、当所の上野へあらたな仁王が降らせられた程に、いづれも参らせられいと触れたならば、定めて参詣があまたあらう。
▲シテ「これは左様でござりませう。
▲アト「その散物を以て基く様にしたならば良からうが。これは何とおりやらうぞ。
▲シテ「これは良い事を思し召し出されて、忝うござる。それならば、左様になされて下されませい。
▲アト「その儀ならば、これへおりやれ。仁王の体に拵へておまさう。
▲シテ「心得てござる。
▲アト「まづこの頭巾を着けさしませ。
▲シテ「心得ました。
▲アト「肩を脱がしませ。
▲シテ「心得てござる。何と、良うござりまするか。
▲アト「大方出来ておりやる。いざ上野へ同道致さう。さあ。おりやれおりやれ。
▲シテ「心得てござる。いや。申し。かやうに何かとお世話をなされて下さるゝ様な、大慶な事はござりませぬ。
▲アト「云ふまではなけれども、随分見顕はされぬ様にさしませ。
▲シテ「その段はお気遣ひなされまするな。見顕はさるゝ事ではござりませぬ。
▲アト「いや。何かと云ふ内に、これは早、上野へ参つた。どこ元が良うおりやらうぞ。
▲シテ「されば、どこ元が良うござりませうぞ。
▲アト「いや。こゝ元が良からう。まづこれヘ寄つて、仁王の体をさしませ。
▲シテ「心得てござる。
▲アト「なうなう。その儘の仁王でおりやる。某は触れう程に、参詣を待たしませ。
▲シテ「心得ましてござる。
▲アト「やあやあ。皆々聞かせられい。当所の上野へあらたな仁王の降らせられた程に、志のともがらは、皆々参らせられいや。
▲立頭「いづれもござるか。
▲皆々「これに居りまする。
▲立頭「当所の上野へあらたな仁王の降らせられたと申すが、いづれも聞かせられてござるか。
▲二ノ立衆「中々。承つてござる。
▲立頭「それならば参詣致しませう。
▲皆々「良うござらう。
▲立頭「さあさあ。ござれござれ。
▲皆々「心得てござる。
▲立頭「仁王の降らせらるゝと申すは、珍らしい事でござる。
▲二ノ立衆「仰せらるゝ通り、これは不思議な事でござる。
▲シテ「もはや参詣がありさうなものぢやが、いや。あれへ見ゆるは参詣さうな。急いで真似を致さう。
▲立頭「いや。何かと申す内に、これは早、上野へ参つてござる。扨、どこ元に立たせられてござるぞ。
▲二ノ立衆「されば、どこ元に立たせられてござるぞ。
▲立頭「いや。申し申し。これに立たせられてござる。
▲二ノ立衆「違ひもない。これでござる。
▲立頭「いざ拝みませう。
▲皆々「良うござらう。
▲立頭「まづ散銭を上げさせられい。
▲皆々「心得ました。
▲立頭「いよいよ息災延命に守らせ給へ。
▲二ノ立衆「富貴繁昌に守らせ給へ。
▲三ノ立衆{*2}「家内安全に守らせ給へ。
▲立頭「私には力を授けさせられて下されい。この刀を寄進に上げまする。
▲二ノ立衆「私はこれを上げまする。
▲立頭「扨々、あらたな仁王ではござらぬか。
▲二ノ立衆「誠、あらたな仁王でござる。
▲立頭「いざ下向致しませう。
▲皆々「良うござらう。
▲立頭「いづれもへこの由を申して、参詣致さるゝ様に申しませう。
▲皆々「一段と良うござらう。
▲立頭「さあさあ。ござれござれ。
▲皆々「心得てござる。
▲シテ「《笑》なうなう。嬉しやの、嬉しやの。これは夥しい散物でござる。まづ急いで持つて参つて広めませう。
申し申し。ござりまするか。
▲アト「何事でおりやる。何と参詣はおりやつたか。
▲シテ「いや。夥しい参詣でござつて、鳥目の事は申すに及ばず、この様な物まで寄進致されてござる。
▲アト「はて扨、それは仕合せな事ぢや。それを以て基く様にさしませ。
▲シテ「何が扨、基く様に致しませう。まづこれをばこなたへ預けませう。
▲アト「中々。某の預からう。
▲シテ「扨、申し。私は今一度参りたうござりまする。
▲アト「いやいや。もはやいらぬものでおりやる。
▲シテ「お気遣ひなされまするな。見顕はさるゝ事ではござりませぬ程に、今一度遣はされて下されませい。
▲アト「いやいや。もはや無用にさしませ。
▲シテ「何とぞ今一度、遣はされて下されませい。
▲アト「それ程に思はしますならば、いかやうともさしませ。
▲シテ「まづは近頃、忝う存じまする。
▲アト「今度は独鈷を貸しておまさう。
▲シテ「それはひとしほ、忝うござる。
▲アト「これを貸しておまさう程に、必ず必ず見顕はされぬ様にさしませ。
▲シテ「何が扨、お気遣ひなされまするな。随分見顕はさるゝ事ではござりませぬ。
▲アト「早う行かしませ。
▲シテ「心得てござる。
▲シテ「扨も扨も、ありがたい事でござる。急いで参らう。良いご思案をなされて下されて、かやうの仕合せな事はござらぬ。いや。はや上野へ参つた。今度は吽の仁王を致さう。何と参詣はないか知らぬ。いや。あれへ参詣が見ゆる。
▲立頭「いづれもござるか。
▲皆々「これに居りまする。
▲立頭「当所の上野へあらたな仁王の降らせられたと申す程に、参詣致さうと存ずるが、何とござらうぞ。
▲二ノ立衆「一段と良うござらう。お供致しませう。
▲立頭「それならば、いざ参りませう。さあさあ。ござれござれ。
▲皆々「心得てござる。
▲立頭「何とこれは不思議な事ではござらぬか。
▲二ノ立衆「仰せらるゝ通り、不思議な事でござる。
▲立頭「いや。何かと申す内に、これは上野でござる。
▲二ノ立衆「誠、上野でござる。
▲立頭「いづ方に降らせられてござるぞ。
▲二ノ立衆「されば、いづ方に降らせられてござるぞ。
▲立頭「則ちこれでござる。
▲二ノ立衆「誠に、これに立たせられてござる。
▲立頭「いざ拝みませう。
▲皆々「良うござらう。
▲立頭「まづ散銭を上げさせられい。
▲皆々「心得ました。
▲立頭「さあさあ。拝ませられい。
▲皆々「心得ました。
▲立頭「いよいよ福徳自在に守らせ給へ。
▲二ノ立衆「子孫繁昌に守らせ給へ。
▲立頭「申し申し。殊の外、殊勝な事でござる。
▲二ノ立衆「その通りでござる。
▲立頭「さながら正真の人の様にござる。
▲二ノ立衆「その通りでござる。
▲立頭「申し。これへござれ。
▲二ノ立衆「何事でござる。
▲立頭「何と思し召すぞ。お目の内を見ますれば、玉眼が動く様にござるが、いづれもにはお気が付かせられぬか。
▲二ノ立衆「誠、仰せらるゝ通り、おぐしも動く様にござる。
▲三ノ立衆{*3}「はて扨、これは合点の行かぬ事でござる。
▲立頭「かやうの事には売僧があるものでござる程に、誠か偽りか、ちとこそぐつて見ませうが、何とござらうぞ。
▲二ノ立衆「これは一段と良うござらう。
▲立頭「さあさあ。これへ寄らせられい。
▲皆々「心得ました。
▲立頭「これは、殊勝に良う出来させられてござる。
▲二ノ立衆「その通りでござる。
▲立頭「何とやら、お髪が動く様にござる。
▲二ノ立衆「その上、玉眼も動きまする。
▲立頭「さながら人の様にござる。
▲二ノ立衆「その通りでござる。
▲立頭「こそこそこそ。
▲皆々「こそこそこそ。
▲シテ「《笑》面目もござらぬ。
▲立頭「やい。あの横着者。
▲シテ「真つ平許いて下されい、許いて下されい。
▲皆々「人誑し。どちへ行くぞ。人はないか。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。
 2:底本は、「▲二ノ立衆「」。
 3:底本は、「▲立頭「」。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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