狂言二十番 18 口真似(くちまね)

▲主「これは、この辺りの者でござる。まづ召し使ふ者を呼び出いて、談合致す事がござる。
太郎冠者。居るかやい。
▲シテ「はあ。
▲主「あるか。
▲シテ「お前に。
▲主「汝を呼び出すは、別の事でもない。只今さる方より御酒を貰うたが、この口が開きたいが、誰も良い相手はあるまいか。
▲シテ「こゝに良いお相手がござる。
▲主「それは誰ぢやぞ。
▲シテ「私。
▲主「いやいや。汝が様に、酒を呑むばかりでは相手にならぬ。酒を参りさうで参らいで、又、参らぬかと思へばよう聞こしめすお方を、汝が才覚を以て呼びまして来い。
▲シテ「その儀ならば、畏つてござる。
▲主「早う行て来い。待つて居るぞ。
▲シテ「はあ。
扨も扨も、難しいお使ひを仰せ付けられた。酒を参りさうで参らいで、又、参らぬかと思へばよう聞こしめすお方は、どなたが良うござらうぞ。いや。こなたを呼びまして参らう。則ちこれぢや。
物申。案内申。
▲アド「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。物申とは。
▲シテ「私でござりますよ。
▲アド「いや。太郎冠者。何と思うて来たぞ。
▲シテ「頼うだ人のお使ひに参つてござる。
▲アド「何と云うて越されたぞ。
▲シテ「頼うだ人、申されまする。只今さる方よりごしゆを貰うてござるが、この口が開きたうござる程に、ご大儀ながら御出なされて一つ参つて下されうならば、忝からうと申し越されてござる。
▲客「思ひ寄つて人を越されたれども、今日は叶はぬ暇入りがあるによつて、行く事はなるまいよ。
▲シテ「こなたのお暇入りはいつもの事でござらう程に、お暇を欠かれて御出なされて下されうならば、私までも大慶に存じまする。
▲客「今日は叶はぬ暇入りがあれども、そちまでが何かと云ふにより、暇を欠いて行かうまで。
▲シテ「それは別して大慶に存じまする。
▲客「それならば、いざ行かう。さあさあ。来い来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲客「最前も云ふ通り、今日は叶はぬ暇入りがあれども、そちまでが何かと云ふにより、暇を欠いて行く事ぢや{*1}。
▲シテ「お暇を欠かれて御出なさるゝご様子{*2}を頼うだ人へ申したならば、さぞ満足致さるゝでござらう。
▲客「扨、某は久しう行かねば不案内な程に、行き着いたならば教へい。
▲シテ「畏つてござる。いや。何かと申す内に、これでござる。それにちと待たせられい。
▲客「心得た。
▲シテ「申し。頼うだお人。ござるか。ござりまするか。
▲主「いや。太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者。戻つたか
▲シテ「ござるか。
▲主「戻つたか、戻つたか。
▲シテ「ござるか、ござるか。
▲主「戻つたか。
▲シテ「只今帰つてござる。
▲主「して、どなたを呼びまして来たぞ。
▲シテ「あれは誰殿とやらを呼びまして参つてござる。
▲主「誰を呼うで来たか。
▲シテ「中々。
▲主「汝はあの人の事を知らぬか。
▲シテ「いや。存じませぬ。
▲主「あれは大の酔狂人で、酒を一盃呑めば刀を一寸抜き、二盃呑めば二寸、度重なれば辺りへも寄れぬ程の酔狂人ぢや程に、某は会ふ事はならぬ。良い様に云うて戻しませい。
▲シテ「もう往なせられいと申したならば、帰らせられませうが、重ねてお会ひなされてのご挨拶がござりますまい。
▲主「誠、重ねて会うての挨拶があるまい。それならば、ちよつぽりともてなして帰したいものなれども、かの人は京田舎を駈け廻り、つゝと目恥づかしい人ぢやにより、かの人の前で使はう者がないよ。
▲シテ「私を使はせられませい。
▲主「いやいや。おのれが様に腰の高いやつが使はれてこそ。
▲シテ「腰をばいかやうにも低うつかまつりませう。
▲主「いやいや。その事ではない。腰の高い低いと云ふは、辞儀作法を知つた知らぬを云ふ。今かう云うても是非がない。何なりとも某の口真似をせうか。
▲シテ「お口真似ならば致しませう。
▲主「それならば、あれへ行て云はうには、幸ひ表に待ち受けて居りまする程に、かう通らせらるゝ様に云へ。
▲シテ「それは走つて参りませうか。但し、静かに参りませうか。
▲主「目恥づかしい人ぢやと云へば、はや臆して色々の事を云ふ。只、常の通りに歩いて行かう。
▲シテ「畏つてござる{*3}。
あゝ。申し。ござりまするか。
▲客「何事ぢや。
▲シテ「頼うだ人申されまする。幸ひ表に待ち受けて居りまする。
▲客「それならば、通らうか。
▲シテ「良うござりませう。
▲客「只今は太郎冠者を下されて、忝うござる。
▲主「人を進じまする処に早速御出、忝うござる。もそつとそれへ寄らせられい。
▲客「いや。これが良うござる。
▲シテ「人を進じまする処に早速御出、忝うござる。もそつとそれへ寄らせられい。
▲客「いや。これが良いよ。
▲主「太郎冠者。盃を出しませい。
▲シテ「太郎冠者。お盃を出しませい。
▲主「あいつは何事を申すか知らぬ。
やい。来い。
▲シテ「何事でござる。
▲主「その真似をせいと云ふ事ではない。あそこへ本のお盃を早う出しませい。やい。
▲シテ「あゝ。
やい。来い。
▲客「何事ぢや。
▲シテ「その真似をせいと云ふ事ではない。
▲客「はて扨、むざとした事を申す者でござる。
▲主「不調法な者を使ひますれば、面目もござらぬ。
▲客「少しも苦しうござらぬ。
▲シテ「不調法な者を使ひますれば、面目もござらぬ。
▲客「苦しうないよ。
▲主「おのれ。立ち居れ。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛。
▲主「その真似をせいと云ふ事ではない。気がちがひはせぬかい。やい。
▲シテ「おのれ。立ち居れ。
▲客「あ痛、あ痛、あ痛。
▲シテ「その真似をせいと云ふ事ではない。気が違ひはせぬかい。やい。
▲主「お耳が痛うござらう。まつぴらご許されませい。
▲客「苦しうござらぬ。
▲シテ「お耳が痛うござらう。まつぴらご許されい。
▲客「いや。苦しうないよ。
▲主「それにござれば、あいつが何かと云うてなぶりまする。かう奥へ通らせられい。
▲客「いや。これが良うござる。
▲シテ「それにござれば、あいつが何かと云うてなぶりまする。かう奥へ通らせられませい。
▲客「いや。これが良いよ。
▲主「いや。こちへ通らせられい。
▲シテ「いや。こちへ通らせられい。
▲主「おのれはまだその様な事をぬかすか。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛。
▲主「おのれが様なやつは、こゝにかうして置くが良い。覚えたか。
▲シテ「おのれはまだその様な事をぬかすか。
▲客「あ痛、あ痛、あ痛。
▲シテ「おのれが様なやつは、こゝにかうして置いたが良い。覚えたか。
▲客「これは迷惑な処へ参り掛かつてござる。

校訂者注
 1:底本は、「隙(ひま)をかいて行(ゆ)くぢや」。
 2:底本は、「御出(おいで)なさるゝ様子」。
 3:底本、ここに「畏つてござる」はない。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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