狂言二十番 20 鬼瓦(おにがはら)

▲シテ「これは、遥か遠国の者でござる。召し使ふ者を呼び出いて、談合致す事がござる。
太郎冠者。居るかやい。
▲アト「はあ。
▲シテ「あるか。
▲アト「御前に。
▲シテ「汝を呼び出すは、別の事でもない。長々の在京なれば、気が屈したによつて、遊山に出ようと思ふが、何とあらうぞ。
▲アト「御意の如く、この間はいづ方へも御出なされませぬ程に、御出なされたらば良うござりませう。
▲シテ「それならば、いざ行かう。さあさあ。来い来い。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「何と思ふぞ。遊山といふものは、かねて期したよりも、かやうにふと思ひ立つて出づるが、ひとしほの慰みではないか。
▲アト「仰せられまする通り、お連れを誘はせられたらば、あまたござりませうが、私いち人召し連れらるれば、お心安うて良うござりまする。
▲シテ「汝が云ふ通り、心に合はぬ方を連れうより、そちいち人連るれば、気遣ひなうて良いよ。
▲アト「ご尤でござりまする。
▲シテ「いや。こゝに大きい堂が見ゆるが、そちは知らぬか。
▲アト「この堂をご存じござりませぬか。
▲シテ「いや。知らぬ。
▲アト「これは都に隠れもない、六角堂でござりまする。
▲シテ「内々聞き及うだ六角堂の観世音は、これか。
▲アト「左様でござりまする。
▲シテ「かねて聞き及うだ程あつて、念のいつた堂ぢやなあ。
▲アト「その通りでござりまする。
▲シテ「いざ参詣せう。
▲アト「良うござりませう。
▲シテ「南無大慈大悲の観世音菩薩、武運長久に守らせ給へ。
▲アト{*1}「息災延命に守らせ給へ。
▲シテ「いざ後堂へ行かう。さあさあ。来い来い。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「この絵馬を見よ。さすが都とて、しほらしい物数寄の絵馬ぢやなあ。やい。あのつゝと軒に、何やら恐ろしい物が見ゆるが、あれは何ぢや。
▲アト「あれは、鬼瓦とも花瓦とも申しまする。
▲シテ「はて扨、あれは恐い面体ぢやなあ。
▲アト「仰せらるゝ通り、恐ろしい面体でござりまする。
▲シテ「やい。あの面体に、誰やらよう似た者があつたが。汝は覚えぬか。
▲アト「あの面体に似た者は、世間にはござりますまい。
▲シテ「いやいや。確かによう似た者があつたが。《泣》
▲アト「申し。頼うだお人。何とてご愁嘆をなされまするぞ。
▲シテ「そちが不審に思ふは尤ぢや。あの鬼瓦に似た者を誰ぢやと思うたれば、国元の山の神が顔によう似たによつて、古さとの事を思ひ出いて、それ故落涙する事ぢや。
▲アト「誠に、仰せらるゝについて、ようよう見ますれば、その儘でござりまする。
▲シテ「心にそまぬ事があつてわめく顔は、よう似たではないか。
▲アト「よう似ましてござる。
▲シテ「又、機嫌の良い時分笑ふ口元は、よう似はせぬか。
▲アト「それはこなたのご贔屓でござる。御口元は、まだくわつと広うござりまする。
▲シテ「やい。あの様な面体の者に添うて居る心底の程が恥づかしいよ。
▲アト「いや。左様にも存じませぬ。
▲シテ「やい。太郎冠者。某はむざとした事の愁嘆をした。心にそまぬ女なれども、子仲まで栄ゆる様なめでたい事はあるまいぞ。なあ。
▲アト「左様にござりまする。
▲シテ「いざ、この悦びに、どつと笑うて帰らう。
▲アト「良うござりませう。
▲シテ「それへつゝと出よ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「さあ笑へ。
▲アト「まづ笑はせられい。
▲両人「さあさあさあ。《笑》

校訂者注
 1:底本、ここに「▲アト「」はない。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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