咢堂自伝
尾崎行雄

第一章 幼年時代

尾崎家の祖先

 相模の国津久井郡に又野村といふ山村がある。甲斐の水晶を溶かしたような清冽な流れと、鮎漁で名高い相模川を前に、武甲相の翠巒迫るところと云へば、大層きこえもよいが、道志の山裾にかこまれた極めて辺鄙な所だ。そこが私の生れ故郷である。
 そして私の家も先祖代々この又野村に住んでゐたものと見え、そこから一里ほど隔つた大沢の祥泉寺といふ寺には、歴代の位牌もあれば、先祖の墓といふものも今に残つてゐる。
 こゝで尾崎家の歴史を語るのが、この物語にふさはしからうが、残念ながら資料がない。私の幼い頃、私の家は怪火にあつて家財一切を焼失したと云ふから、記録もその時灰燼に帰したものであらうか、今では尾崎家が相当な旧家であつたらしいといふことが徳川時代に出版された書物によつて判る{*1}くらゐのもので、寺にある位牌と墓の外には先祖その他に関する記録は一切私の家に残つて居ない。
 そういふ訳であるから、私は現在寺に遺存して居る位牌と墓石によつて尾崎家の先祖は、元和八年に死んだ徳厳院殿雄宗浄行居士尾崎掃部守行永と云ふ人であり、その夫人は寛永五年に亡くなつた栄玄院殿昌林妙繁大姉であるといふことだけは知つて居る。
 しかし、尾崎掃部守と称した人は、如何なる人物であつたか、又何処から来て、どういふ仕事をした人であるかについては、津久井郡の牧野村に伏馬田城といふ城址があつて、掃部守がそこに住んで居たといふ口碑があり、その城址の下に尾崎が原といふ畑地があるといふ程度以外は、色々な書物を調べて見ても判らない。その人の没年から想像すると徳川に反抗して没落し、又野村に隠遁したのではあるまいかと思はれる。元和八年といへば、徳川二代将軍の末期、三代将軍家光が職に就いたその前年に当るのだ。それから又あの辺では、戒名に院殿といふ称号を付けることは容易に許されない。従つて代々の位牌中にも、院殿の称号の付いたものは、この人の他には一つもない。こんな点から掃部守は、相当な身分の人であつたやうにも想像される。しかし、伏馬田城址と云つても、それは山の頂にあるさゝやかなもので、とても城と名付ける程のものが置かれさうもない。所は恰も甲斐と相模の国境が入り乱れ、北條と武田勢が絶えず相犯すところであつたから、或は物見台が置かれてゐたのではあるまいかと思ふが、いづれにしてもまことに空漠たる話である。しかし、私は、先祖が何であつても構はない流儀であるから、知らなくとも別に苦にはしない。世間で謂ふ所の先祖については、私は大いに疑問を持つてゐる。どこの家でも系図を見ると、先祖といふものが、麗々しく載つてゐるが、その先祖とても、もともと人間である以上、父母があり、祖父母があり、さらにその先代もあつた筈だ。それをたゞ中間の比較的重要な人を探し出して来て、これを先祖と云ふのは、まことにおかしな習慣だと思ふ。ダーウヰンが人類は猿猴と同祖だと証明してゐるところを見ると、私達の先祖は御同様に、猿の御親類といふことになるかも知れない。
 祥泉寺といふ寺は今でもある。寺について聞いて見ると、昔は尾崎家専属の寺で、外には檀家もなかつたから、尾崎家の衰微と同時に寺も甚だ貧弱なものとなつてしまつたらしい。しかし今では檀家も沢山出来て立派な寺になつてゐる。

掃部守墓

父と母

 安政六年十一月二十日、私はこの又野村で呱々の声をあげた。父は八王子在散田村の峰尾氏から婿養子に来た人で、行正といひ、私はその長男に生れたのである。安政六年といへば、所謂安政の大獄のあつた年で、翌年三月には井伊大老が桜田門で殺される。これより先黒船は浦賀湾頭に現れると云つた具合で、世は徳川の末、王政復古の気運が大いに動き、物情騒然たる頃であつたから、辺鄙な又野村の山の中にも尊王攘夷の風は、遠慮会釈もなく吹きこんで居つたらしい。されば父などもこの時代の波に乗つて、早くから勤王浪士と共に、諸国を漂泊して居つたものと見え、ほとんど家に居ることはなかつた。
 この頃の父の行動については、会津征伐に甲州浪士を以て断金隊を組織し、板垣退助に従つて奮戦したといふ外に余り聞いてゐないが、父などと共に東奔西走して居つた浪士仲間の利け者落合直亮といふ人は、父の親友であり又親戚でもあつた。落合氏は又野村からは、対岸の高尾山の麓なる武州駒木野の産で、明治文学界に有名な落合直文氏の養父であるが、早く本居、平田らの学風を受けて、すこぶる勤王の志が厚かつた。しかもこの人は、なかなか胆力もあり、策にも富んで{*2}居つたものと見え、ある時は清川八郎と、又ある時は藤本鉄石らと相謀り、慶応三年には薩兵と江戸擾乱を企てる等、大いに倒幕に奔走したが、いづれも成功せぬ中に幕府に感付かれ、遂には幕船に追はれながら、江戸から海路薩州に命からがら落ちていつたといふ風雲児である。その後は西郷隆盛、岩倉具視らと通じて、王政維新に功労のあつた人だ。
 父はさういふ訳で余り家には居なかつたから、私は幼年時代を母一人の手で、貧しい中に育てられた。ひと口に貧しいと云つても、私が生れた頃の尾崎家は最も衰微の極に達した時代と見え、貧乏この上なしといふ状態であつたやうだ。それでも村では自分だけが特別扱ひにされて、父母共に普通の人をば、家来のやうに扱つて居たやうに記憶する。家をめぐつて数軒の和光姓の家があつたが、それは皆昔の家来だなどと言つて居つた。がまづこの時代は全く母一人子一人、親戚はあつても、何れも数里の遠方に住居し、兄弟や姉妹は、母にも又私にもなかつた。実に淋しい生活を山の中で致して居つたのです。
 私は幼い頃、殊の他身体が弱かつた。わけても頭痛が甚しく、生れ落ちてから、頭痛のしない日をば知らなかつた。頭痛が常態で、頭痛のない日が不思議なくらゐ珍しいのであつた。しかもその上、又皮膚が弱く満身に痒い小さな物が出来てゐたから、幼年時代の私の生活は、実に苦痛を極めたものであつた。従つて母なども学問をさせるよりも、どうしたなら、この児を無事に成長させることが出来るであらうかと、長子のことだけに、専ら命を繋いで行かせることに心配されたやうだ。もつとも学問といつたところで、もちろんこの山間には、学校もなければ、教師も居よう筈はない{*3}。たまたま父が帰つて来た時に教へてもらふぐらゐのものであつた。
 かうして自分が一番初めに習つた書物――今で言へば、小学校教科書とも言ふべきもの――は、唐詩選であつたやうに記憶する。学問といふものは、実に難しい、分らないものだと思つた記憶は、今でもかすかに残つて居る。さうでせう、いろはもろくろく知らない者に、イキナリ唐詩選を教へられては、びつくりするのも当然だが、私は実にさういふ、乱暴といへば乱暴な教育を受けたのである。いろはも父や母について教へられたけれども、これもろくろく稽古するといふ程のことはなかつた。かうして私は、別に学問らしい学問をするでもなく、この浮世離れした山の中で、幼年時代の七年余りを送つた。

明治初年父子

東京に移住

 私が初めて、東京へ出たのは明治元年であつた。王政維新と共に勤王浪士達も、新政府に仕へる事となり、久しい間席の温まる隙{*4}のなかつた父も、明治元年にはいよいよ明治政府の役人となつて、私達一家もこゝに父祖の地を後に、東京に移住することゝなつた。そしてまづ落付いたところは、駿河台の安岡良亮氏の屋敷内であつた。
 この安岡といふ人は、土佐幡多郡中村の郷士で、勤王家の一人であつた。なかなか武芸達者の人で、日置流の弓術をよくし、大坪流の馬術も心得てゐれば、刀槍の術は土方謙吉について練磨し、砲術は田所左右次に学ぶと言つた具合であつた。しかも文学についても造詣が深く、筑前亀井鉄太郎門の錚々として聞こえて居つた程で、文武兼備の人であつたやうだ。さう言ふ人であつたから、維新東征の役に従軍するや、大いに功績があつて抜擢さるる所となり、維新後には弾正台大忠から集議員判官、民部少丞などに昇任し、政府でもかなり重要な地位を占めて居つた。私の父は、この人の配下にあつて、十年余り役人生活をして居つたのである。明治二三年頃には、私達一家は番町に転居した。
 私はこれまでろくな学問はして居なかつたが、東京に出てからは論語、孟子等を習ひ、又安岡氏について、時々七書の講義などを聞いた。この聴講仲間には、私とは親子ほど年齢が違つてはゐたが、河野敏鎌、小畑美稲、大塚成美ら後に名を成した人達も同席していた。番町に住むやうになつてからは、平田塾に通学して古典を学んだ。当時の平田先生は、有名なる篤胤氏の子息で、 天皇陛下の侍講を勤めて居つたやうに記憶する。
 明治四年の頃、安岡良亮氏が高崎に赴任を命ぜられるや、父も誘はれてその下役となつて行くことになり、私も父母と共に高崎に移住した。当時高崎藩は、藩士の間に紛擾があつて、大分不穏な形勢が見えた。元来上州は人気の荒い所だけに、事態中々不穏であつたから、これを鎮撫するには、安岡氏が適任だらうといふ評議と見えて、明治政府は氏を高崎県参事――今の知事――として送つたのである。安岡氏は文武両道に達した人であつたから、何をやらしても治績が上がるといふ訳で、その手腕を買はれたのであつた。そして高崎藩の紛擾が鎮まると、今度は伊勢に暴動が起こつたので、安岡氏は度会県参事に任命され、山田へ行き伊勢が静穏になると、今度はさらに熊本県知事に転じ、こゝで明治九年神風連のために殺された。私の父も、安岡氏に従つて転々と各地に赴任した。
 それは後の話として、高崎に行つた時、私は初めて学校といふものに入つて、英語を学んだ。主なる教師は小泉敦といふ人で、英語には中々堪能な人物といふ評判であつた。当時の学友は大抵今は生死も知らないほど疎遠な関係となつてゐるが、今でも生糸輸出業者として、日米の間を往来して居る新井領一郎君は、当時学友の一人であつた。この人については、私に一つの思出話がある。
 新井君はその頃驚くべき美少年であつた。一方私は、子供の時には鬼つ子とまで云はれたぐらゐで、鬼のやうな顔をして居つた。鼻の穴は上を向いて居り、歯は前の方へ出つ張つてゐて、雨降りに外を歩いてゐると、雨の雫が鼻の穴へ入る――まさか入りはしなかつたが――夫れほど顔全体が醜く、近所でも評判であつて、両親殊に母親はこれを苦に致して居つた。そこで自分も幾分かこの新井君のやうな、天下無類の美少年に類似するやうになりたいと念じ、同君をモデルに顔の作り変へを始めたのである。この努力によつて私は大いに、自分の相貌を善くすることが出来た。
 高崎に居ること幾ばくもなく、安岡氏は度会県に赴任することゝなり、私達一家もこれに同行して伊勢に行つた。三重の咢堂といへば、別に断るまでもなく、尾崎といふことが判ると云はれる程、三重が私にとつてゆかりの深い土地となつたのは、この時に始まつたのだ。
 高崎を去るに臨み、父は私が非常に病身であつたため、一ケ月の賜暇を請うて、全家草津の温泉に静養することになつた。草津に入浴すること三十日余りの内に、いつとは知らず、あれほどつきまとつてやまなかつた頭痛も、拭つて去つた如くなくなつた。皮膚病も大いに善くなつた。しかし今日思ひ出しても、ぞつとするのは、有名な熱の湯に二三回入り、癩病患者や、極度の黴毒患者と混浴した事である。近来は熱の湯も、大層立派になつたが、その頃の熱の湯は、実に不潔千万なものであつた。浴場は大道に屋根を構へただけで、その周囲には、鼻のない人や、頭に穴のあいた人や、その他身体各部のくされかゝつた癩病患者が充満して居つた。
「草津に来て、熱の湯に入り切らないやうな者は、意気地なしだ。」
と言はれて、奮発したものか、どうか、原因はよく分らないが、とにかく私は熱の湯に、癩病患者と共に、二三度入浴した。よく伝染しなかつたものだと、今でも思ひ出すと、気分が悪くなる。
 度会県は伊勢の山田にあつた。その当時は、三重県は別に津にあつたやうだ。山田には外宮の附近に宮崎文庫といふのがあつて、そこに英学校が建てられ、高崎で教鞭をとつた小泉敦氏が招かれて、山田英学校の教師に転任して来た。随つて高崎の生徒も数名教師と共に、伊勢に来たが、この人々は今はどうなつたか、新井氏の外は自分は知らない。こゝで一緒に学んだ者のうち的場中、大井斎太郎などいふ人達は、のち工学寮に入り何れも博士となつて、各々その道に於いて国家に貢献する所があつた。

天性の臆病者

 東京から高崎へ、高崎から伊勢へと転々として移動した頃の記憶は余りないが、なほ一、二を語ることゝしよう。
 東京で平田塾在学中、一日子供仲間と遊んで居る間に、ふと後ろに倒れて気絶したことがあつた。それから後も二、三度仮死状態に入つたことがあるが、それらの追憶より、次いで霊魂に付いて、一種の意見といふ程ではないが、感想を抱くやうになつた。
 又この通学中に、最も記憶に残つて居るのは、私が子供仲間に於いて、非常な嫌はれものであつた事実である。学校仲間では、余りさうでもなかつたが、往来で遇ふ見ず知らずの子供は、大抵私に向かつて、石を投げたり、悪口雑言するのが常であつた。これがため自分の知らない者は、皆自分の生れながらの敵であるかの如き感じが興つた。他の子供は、無事に通行することの出来る往来で、なぜ自分一人石を投げられたり、罵詈されるのか、どうしても分らなかつた。私は、他の児童に反感を与へる性質を持つて生れたものと見える。もし身体が強かつたならば、それらの子供を相手に喧嘩したであらうが、自分は生来の病身、極めて弱いことを自ら知つて居たから、やむを得ず喧嘩もせず、さりとて逃げもせず、石を投げられながら、ノソノソ往来したことを覚えて居る。かくの如く人から嫌はれる性質は、その後も長く続いて居つた。
 次に今なほ記憶に鮮やかに残つてゐるのは、首斬り見物である。当時は王政維新から廃藩置県が初めて実行されたばかりの頃であつたので、各地共に不穏であつた。東京でも人に殺されたり、割腹した死骸が、時に路上に横たはつて居る事があつた。さういふ時には、父に促されて死骸を見に行つた。又父に伴はれて、首斬り場に見物に行つたこともある。高崎へ移つてからも、罪人を殺す場合には、よく生徒と共に首斬り見物にやられた。拷問見物もした。その頃は裁判官が、未だ行政官と分離されなかつたために、父は学務の外に、裁判官のやうな仕事をもして居つた。随つて自ら拷問などすることもあつたので、その折には、私をひそかに拷問場の唐紙の蔭に坐らせ、拷問する模様などを見させたのである。後年伊勢に移つてからも、たびたび首斬り見物にやられた。なぜそんな事をさせられたのだらうか。多分自分が非常に臆病であつたから拷問、首斬り、切腹等を実際に見せたら、少しは勇気が付くであらうといふ、父の考へででもあつたのだらう。かくして方々で首斬りを見せられたが、しかし自分は勇気が付くどころではなく、かへつて首斬りを見せられるたびごとに、甚しく不愉快を感じた。殊に割腹した死骸を見せにやられた時などは、非常に不愉快で、ろくろく見もしないで帰つて来た。
 天性の臆病者は、どうしても強くはなれないのみならず、見れば見るほどいやになり、沢山見た時は、血の臭ひが鼻について、弁当すらも十分に食ふことが出来ず、家に帰つてから、大いに叱られたこともあつた。
 しかし、これほどいやな首斬り見物であつたが、妙なもので、高崎で見た罪人と、伊勢で見た罪人の間には、非常な違ひがあることを、子供心にも気が付いた。高崎で断頭場に引き出される罪人中には、鼻唄を唄ひながら来る者も、少くなかつた。中には、
「俺の首には、鉄の筋が這入つて居るから、気を付けて斬れ。腕が鈍つて居ては、斬れないぞ。」
などと、首斬り人に向かつて悪口雑言するものもあつた。首斬り人の誇りとする所は、全く首を斬り落とさずに、ズツト斬つてひと皮だけ残し、その首が落ちないで、ブラリとブラ下がるやうに斬るのにあつた。実に驚くべき巧者なものであつたが、そんなことを言はれると、不思議なもので、巧者な首斬り役ですらも、時々斬り損なふことがあつた。これに引き替へ、伊勢で断頭場に臨んだ罪人は、多くは半死の状態で、鼻唄どころではなく、ろくろく歩くことも出来ないのが大部分、否、ほとんど全部であつた。これは監獄の扱ひ方が違ふためであるか、或は上州と伊勢とは、人間が違つて、伊勢人は大層温順と言ふよりも、寧ろ柔弱な風があり、上州人は、上州無宿の伝統を承けて、元気者が多いためであるか、判然とした原因は分らないが、とにかく首を斬られる罪人には、非常な相異があつたやうに感じた。


校訂者注
 1:『大日本地誌大系 第40巻 新編相模国風土記稿』には、372頁に「〇尾崎掃部助城跡」、388頁「旧家彦四郎」に「先祖尾崎掃部助は北條家に仕ふ」云々、425頁に「又野村里正彦四郎所持の古文書一通」等の記事が見える。
 2:底本は、「富むで」。
 3:底本は、「居やう筈はない」。
 4:底本は、「席(せき)の暖まる隙(すき)」。