第二章 学生時代

慶応義塾に学ぶ

 伊勢に一年余も居る間に、私の東京遊学の希望は非常に強くなつた。それには二つの原因がある。私は下級の地方官をして居つた親父に従つて、そこに一年、ここに半年と田舎歩きをして居る間に、東京に慶応義塾といふ大層エライ学校があると云ふ評判を聞いた。慶応義塾は当時日本一と評判され、官立の学校よりも、よほど有名であつた。そこで自分もとても学ぶなら、日本一の学校で学びたいと考へたのが一つ、又生来人に干渉されることが、極度に嫌ひであつた私にとつては、父母の膝下に居る事は、楽しいには違ひないが、色々な事に付いて、その干渉を受けなければならぬ。それが生命も縮まると思ふほど嫌ひであつたから、これをのがれたかつたのが、第二の原因で、遂に明治七年の夏その許可を得、十歳ほどの弟を連れて、慶応義塾に入ることになつた。自分はその時十六歳であつた。十一月生れであるから、満十四歳何ケ月といふ子供に過ぎなかつたが、弟を連れてとにかく東京に遊学した。その当時はまだ汽車はなかつたから、伊勢から蒸汽船に乗つて横浜に来たのである。
 東京遊学は、非常に愉快であつたが、同時に心配の種でもあつた。有名な慶応義塾のことであるから、さだめし生徒も優れて居るに違ひない。さうすると、未熟な自分は大いに軽蔑されるだらうと思ひ込んでしまつた。私は子供の頃から、自尊心が強かつたものと見えて、軽蔑される事が非常に嫌ひであつた。しかし、自分は高崎と山田で少しばかり学校に居ただけで、ろくろく教育らしい教育を受けたこともなく、又どういふ訳か人には嫌はれがちの性質を持つてゐるから、優れた生徒から、軽蔑されても仕方がないが、どうしたらそれを少しでも、或は全部免れることが出来るだらうかと、種々に小さな胸を痛めた。東京へ来るまでは、何よりもそれが心配で、夜もろくろく眠れなかつた事もある。さうして考へ出したのが「無言生活」といふ大発明! その当時は我ながら、これを至極の名案と思つた。即ち、
「おとなしく道を歩いて居るのに、石を投げ付けられるのは、予防の仕方もないが、普通仲間から軽蔑されるのは、多くは自分の無能無学を見透されるためだ。何にも言はずに居れば、どのくらゐ智恵や学問があるか分らない。分らなければ、軽蔑の仕様もなからう。」
と、必要以外には一切物を言はないことにした。まことに悲壮な決心をしたのである。
 無言生活を考へ出した理由は、右の通りであるが、それには少なからず漢学流の教育が影響してゐたやうに思ふ。支那思想では口舌の徒と云つて、おしやべりを賤しみ、文章は千古の業であると称讃する。私は幼少の時からこの漢学主義で、育てられたのであつたから、自然しやべることは、賤しむべきものと思ひ、口数も余りきかなかつた。その代り文章の方は、名文家になるつもりで、ずいぶん骨を折つたものであるが、これも結局二流以上にはなれなかつた。
 さて慶応義塾に入学して見ると、案の如く、一番下の級に編入された。十歳ばかりの自分の弟と、一級違ひの級に入れられた。これでは必ず軽蔑されるに違ひないとの心配が益々強くなつたので、いよいよしやべらぬことに決めて、恐る恐る教場へ出て見ると、自分の知つてゐるほどの事を先生に尋ねる者がある。「こいつ可笑しい」と、恐怖心が多少減つた。いよいよ学習して見ると、同級の人より自分の方がよく出来る。
 これは当然な話で、格別に低い級に入れられたのだから、教師もそれに気が付いたものか、一ケ月も経たない中に、一級のぼせてくれた。その当時慶応義塾では、毎月試験があつて、昇級が出来た。私も右の如く比較的下級に入つたので、級でもよく出来る方であつたから、毎月昇級させられた。時には一ケ月の内に二度も昇級させられる事があつて、たちまちの間に、上から二番目くらゐの高級生になつてしまつた。しかし、それでも無言生活を守つていた。或は以前より一層酷くなつたかもしれない。それは初めは他の学生を怖れたために、口をきかないことに決めたのであつたが、自分の方が少し優勝者であることを自覚すると、今度は他の学生を軽蔑するために、あんな者と口をきく要はないといふ傲慢心が起きて来て、いよいよ口をきかなくなつた。かくして生徒からは「気取り屋」、「澄まし屋{*1}」などと盛んに悪口されたが、なほ無言主義を執持した。

教師を困らせる

 生来無口な上に、しやべらぬと決めたのであるから、無言生活もよほど徹底して居つたものと見える。三田に居る時分は、脚気を患つて、毎年箱根に湯治に行つた。温泉場は通常友達を作り易い所であるが、私は温泉に往つても、友達は作らなかつた。三、四十日間も逗留して居ても、下女に対して、床を敷け、お膳を出せなどと云ふ用事の外は、何事も云はないで、一室に籠つて本ばかり読んで居た。箱根の福住は、福沢先生などもよく御入来になつて、懇意な所から、三田の書生をば、特別に優遇してくれたのであつたが、初めて私の往つた時には、
「気違ひか何か知らぬが、尋常ならぬ変物が来た。」
と云つて、私の身の上を心配したといふ事を、後で懇意の者から聞いた。とにかく私はこんな風に生徒仲間に対してばかりでなく、世間に出ても口をきかなかつた。しかし、教師を苦しめるためには、かなり口をきいた。それは誤れる悪念から起こつた考へであつて、今さら慚愧の至りに堪へぬから、罪滅ぼしのため、こゝに懺悔する。
 当時子供心に思へらく、
「おとなしくして居ても、昇級させてくれるだらうが、教師をいぢめて困らせてやれば、なほ早く昇級させるに違ひない。」
と。そこで教場で教へるものよりも、上級の書物を購入して、自分で独習し、教師の知りさうもない事を質問する。教師には答へが出来ない。教師は一には困惑のため、二には私の学力を買ひかぶるため、私を昇級させた。何を質問してもサツサツと答弁し、困らせる事の出来なかつたのは、門野幾之進君――今日の千代田生命保険会社社長で、門野重九郎氏の令兄――と後藤牧太の両君だけであつたかと思ふ。この二君は教師中でも、最も年若な方であるのに、エライものだと感服した。しまひには、感服するだけでなく、門野さんは頭のよい人だから、この人の頭をモデルにして、自分の学問的方面を伸ばさなければならぬと考へ、爾来これを努力実行したものである。
 かくして悪策と実力との混合的働きで、私は入塾後一年経つか経たない内に、ズツと上級の生徒になり、当時自分にはよく分らなかつたが、一寸名のある注意人物となつてゐたやうだ。そのころの慶応義塾には、大人寮と童児局及び幼稚舎の三つがあつて、生徒を夫々年齢によつて三種に分けて収容してゐた。幼稚舎には一人で寝起きも出来ないやうな子供も大分来てゐたので、それを集め寄宿舎へ入れて寝起きから飲食の世話までも、学校でしてくれた。私はもちろん童児局に入つてゐたのであるが、私と同級の人々は、大人寮に居るものばかりで、童児局に居るものはなかつた。そのためであつたか、どうか、知らないが、私が入学後一年程して、大人と童児の間に、中年寮といふのが新設されると、私は早速童児局の仲間を外され、中年寮に移された。この中年寮はどういふ必要があつて、設けられたか知らないが、是非拵へねばならぬ程の理由もないと私は思つた。そこへもつて来て同時に移された人の中には、私より年の若い者も一、二人はあつたが、いづれも生意気な連中で、不良少年と云ふほどではないが、まあ童児局中の札付き人物であつた。私はかういふ余り良くない仲間に移された事に不平を起こして、これを容易ならぬ侮辱と考へるに至つた。
 それまでは、私の欠点といへば、生徒仲間では無口、只教師をいぢめる――甚だよくないいたづらだが――だけで、上の方には、寧ろ評判の善い生徒と見られ、優遇されて居つたのであるが、この時からは不平の勢ひにかられて、教師ばかりでなく、塾監局の人々にまでも反抗し、いぢめてやらうと決心し、しきりに塾の取締り連中を困らせるやうな計画を立てたり、又実行もした。
 もつともかうして反抗するに至つたについては、別にまだ一つの動機があつたのだが、それは後から書くことにしよう。

九州に父を訪ねる

 東京に遊学した翌年、即ち明治八年、数へ年で十七歳の時、私は弟を連れて熊本まで旅行した。その頃私は、知識見聞を広めるためには、全世界を旅行する必要があり、その手初めとしてまづ日本全国を旅行する必要があると考へて居つた。しかしそれには地理、植物、鉱物、その他の学問を、ひと通り予備知識として持つてゐる必要があると考へてゐたが、その準備の出来ない中に、たまたま父母が私の東京遊学後間もなく熊本県に赴任したので、暑中休暇を利用して、とりあへず九州旅行を企てたのである。しかし、この旅行は途中珍事に遭遇して遂に挫折してしまつた。今から考へれば、大した事ではないが、当時の私には非常な大事件のやうに思へた。もちろん九州までは船旅であつたが、その頃は米国汽船会社と三菱の間に、激烈な競争があつたから、運賃も極めて廉く、ほとんど無賃同様の安値で乗船させたから、学生の身分でも、一等切符を買ふ事が出来た。そこで我々は一等客として、米国汽船に乗り込んだのはよかつたが、九州へ帰る同行の学友が、船中で切符を紛失した。船員が改めに来た時、弁解しようにも、相手が亜米利加人だから、言葉がよく通じない。大いに困つた。私の拙劣な手真似や筆談で事務長と談判し、どうかかうか追徴をのがれることになり、友人の船から降りることも到着後許してやらうといふことになつて、ひとまづ安心はしたが、それまでの間は、容易ならぬ心配であつた。この友人は馬関で上陸したが、私は長崎まで乗船し、弟と二人で長崎の旅館に泊まつた。この旅館は普請中で、多数の職人が泊まり込んで居た。寝る時から怪しい者が徘徊するやうな心持ちがして居つたが、夜中フト目を醒まして見ると、枕辺に置いた提げ鞄が見えない。その内に下の方では、泥棒々々と云ふ声が起こつて大騒ぎを始めた。私は昼の中来て居た職人が、私の提げ鞄を盗んで、さうして自分自ら泥棒々々と、騒ぎ出したのだらうかと感じた。幸ひ私は僅少な旅費ではあつたが、二分して半分は懐中に入れて置いたから、提げ鞄の分は盗まれても、とにかく熊本まで行き着くことは出来たが、実はびつくりした。無論長崎から熊本までも、今とは違つて、小さな日本船で天草に寄つたり方々を経て行くのであるから、中々容易な旅ではなかつた。今から考へると、十六七歳の少年、しかも小さい弟を連れて、よくも大胆に旅行したものだと思ふ程、その当時は困難であつた。かくして漸く熊本に着いたが、旅といふものは、意外に面倒なもの、怖いものといふ感じが起こり、その上旅費も不足してしまつたので、九州漫遊の壮図も挫折して、暑中休暇は熊本なる父母の膝下で暮らしてしまつた。その当時熊本には旧藩主細川侯が維新当時設立した、外人教師の英学校と医学校が存続してゐた。小さい学校ではあつたが、この二つの学校には、中々有為の俊才が居た。横井時雄、海老名弾正、小崎弘道、徳富猪一郎等の諸君は、皆この英学校で育てられた人である。緒方、北里等の医学博士は、多分右の医学校で教育されたものであらう。英学校の俊才の論文も、ひと通り父から見せてもらつたが、中々感服すべきものが多かつた。自分は到底企て及ばないと思つたものもあつた。帰京の折は、別段の出来事もなく横井時雄君と同船で横浜まで来た。これが私が横井君と交はりを結んだ初めである。神風連の名は、この頃既に世間に聞こえて居たが、翌年所謂神風連の乱を起こして、安岡知事は熊本鎮台司令官種田少将と共に殺された。この時は殺されたり怪我した者もかなり多かつたが、私の父は僥倖にして、怪我もせずに免れた。東京某地の芸者で、種田少将の妾となつて熊本に居た女が、在京の母に向かつて、少将の遭難を報じた電報を、「旦那はいけない、私は手傷」といふ都々逸文句で送つたため、口さがない京童が「遺るお前はどうなさる」と附加して、一時世間の笑柄に供したのは、この時の事である。

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校訂者注
 1:底本は、「済まし家」。