慶応義塾退学

 熊本から帰つた後も相変らずの無言生活を続けて居た。只変つたのは中年寮に移された不平から、反抗心を固めたことに過ぎなかつたが、この一事は私にとつて相当な事件まで発展してしまつた。
 元来私は子供の時分には喧嘩をしたことはなく、他の子供にはいつもいぢめられ通して、ずつと来たのである。非常に気の小さな子供として育つて来たのであつた。それで子供心にもこれではいけない。何とかして改めなければ、とても人の上に立つて、これを支配することは出来ないと、気が付いたから、私は弱い心を直すために、無理に強い真似をして人に反抗するやうにしたのである。それを何十年間習慣的にやつて来た結果、臆病には相違ないが、無理にでも強がり、人に反抗するやうになつた。明治七年慶応義塾に入つた頃は、反抗の稽古を始めた時で、大抵の教師には反抗を試みた。かうして中年寮行きや何かで、遂には塾監局にまでも反抗して、体のよい退学を命ぜられたのであつたが、その顛末はかうである。
 その頃福沢先生は、折節全校の生徒を集めて、学問の心得を演説されるくらゐで、別に教授されるやうなことはなかつた。しかし、文章の出来さうな生徒を指名して、それに論文を書かせ、先生ご自身で見てくれると云ふ話であつた。私も論文の提出を求められた。その時書いたのは、学者自立論といつたやうなものであつた。その頃、少し学問の出来る者は、多くは政府の役人になつた。私は子供心にもこれは宜しくないことだと思つてゐたから、今の言葉で言へば、猟官運動を非難攻撃し、学者は自分で独立して行かねばならぬといふ意味の論文を書いた。所が、これに福沢先生であつたか、先生代理の文章家であつたか分らないが、評語を入れて戻して来たのを見ると、議論は甚だよいが、その実行に先鞭を付ける者のないのは遺憾だといふのであつた。もとより評語に他意はなかつたのであらうが、反抗心を養成し始めたばかりの私は、それを「論ずるばかりで行ひ得ぬもの」と嘲けられたやうに僻んで解釈してしまつた。さあかうなると黙つてゐられない。早速、「書いた以上は実行して見せる」と、大層威張つた返事同様な論文を書いて再び提出した。
 もちろんこれは一時の出来心で、別に深い考へも何もあつた訳ではないが、騎虎の勢ひとでも云ふか、問題がこゝまで発展した以上、何とか独立して飯の食へるやうな、学問をせねば、福沢先生に対して申し訳がない。しかし、慶応義塾で学ぶやうな法律、経済、政治等の学問では、役人になるか、人に使はれるかするより外に、飯の食ひやうはないと自問自答した揚句、子供心の一徹心で畢生の智恵を絞つて考へ出したのが、染物屋になる決心であつた。
 なぜ染物屋になれば、必ず飯が食へると考へたかと云ふに、その頃読んだ書物の中に不良染料の害が書いてあつた。その例にクリミヤ戦争に行つた英仏の兵隊が、悪染料を使つた靴下のために病者続出した事が挙げてあつた。又我が国でもその頃西洋から下等染料を沢山輸入して居り、それを使つた布帛類は褪色し易くて、有害なやうにも聞きかぢつてゐた。そこで染料の改良こそ国のためにもなれば、自分が独立して飯を食ふ方便にもなる大事業だと考へたのであつた。さて染物屋になるには、慶応義塾に居ては駄目だ。他の学校に転じて化学を学ぶに限る。化学なら官立の工学寮に入学するのが、最もよからうと考へた。子供心の単純さとは云ひながら、余り軽率な次第であつた。

工学寮へ転校

 紺屋にならうと考へてゐた頃、私は風紀問題を捉へて、「福沢先生の徳を汚す」とか、「三田の校風を破壊する」とか色々なことで慶応義塾の塾監局や学生監に反抗し、邪魔をして居つたので、学校でもうるさい奴だと思つたのであらう、私の保証人にそれとなく、自発的退学を希望して来た。放校といふ悪名を付けるのも気の毒だと云ふ訳らしかつたが、聞かねば放校もなしかねまじき形勢であつたから、私もいよいよ慶応義塾をやめて、工学寮に入らうと決心し、確か明治九年の初めであつたかと思ふが、たうとう{*1}慶応義塾を退学した。
 在塾中はさきにも述べたやうに、必要以外には口をきかぬ主義であつたから、余り友達は出来なかつた。親しく交はりを結んだのは、波多野承五郎、三宅米吉、吉田熹六等の二三人に過ぎなかつた。この三宅君も至つて無口な方で、私の下宿に来れば、一日でも黙つて、ぢつと私とむかひ合つてゐることが、出来るといふので、さういふことを楽しみにして来た人である。こんな訳で、その他の慶応義塾の友人は、塾を出てから知り合ひになつたものが多い。
 慶応義塾退学後は、予ねての計画通り工学寮へ入るつもりであつた。
 この工学寮は日本の工学の元祖となつたもので、のち工部大学校と改称し、現在では帝国大学の工科大学となつてゐる。ところで、この工学寮は工部卿伊藤博文氏が、西洋の実学を奨励する目的で、授業の仕方はもちろんのこと、学校の経営法に至るまで、全部外国人に一任して居つたから、教師はすべて西洋人で講義でも何でもことごとく英語であつた。私もこれまで英語も少しは習つてゐたが、慶応義塾では専ら訳読の稽古ばかりしてゐたので、英語を話す事も、聞きわける事も出来ない。
 英語ばかりではない、工学寮で必要な算術も、私はろくろく学んでゐなかつた。これでは決心はしても、入学は出来ないから、やむを得ず英語と算術を学ぶために、その予備門と言ふべき学校に入つたが、実はそれさへ私にとつては困難なことであつた。
 その頃シヨウといふ英国宣教師が、福沢先生の邸内に住居して居つた。この人は軽井沢を避暑地にした元祖であるが、私はこの人から英語と高等数学を教へてもらつた。シヨウ氏は工学寮の事実上の校長ダイヤー氏の朋友であつたから、ダイヤー氏に私を特別に紹介してくれて、無理ではあつたが、その後間もなく工学寮に入学することになつた。
 その頃工学寮は虎の門にあつた。今の華族会館や文部省などのある辺で、工学寮の建物は、学校の移転後久しく御料局と虎の門女学館とに使用されて居つた。私の入学当時の校長は大鳥圭介君であつたと思ふが、前にも述べたやうに教頭も教師も、ことごとく英国人であつて、校長の実権を握つて居たダイヤー氏は、スコツトランドの人であつたから、衣食住を始めとし、すべての事が皆スコツトランド式であり、校医にも外人を用ひ、甚だしきは便所までも西洋輸入のものであるなど、今から考へれば、ずいぶん思ひ切つたことをしたものであつた。ダイヤー氏は帰国後グラスゴーの大学総長となり、国会議員の候補者ともなつた。
 此らの英人教師は、いづれも本国の大学を出たばかりの新進揃ひで、優秀な人達であつたと見え、ダイヤー氏の外にも、地震学者のミルン氏、建築学者のコンデル氏らを初めとし、世界的学者となつたものが多い。さて私はこゝで{*2}化学を勉強し、卒業後は、京都の西陣辺りへ行つて染物屋になるつもりであつた。もしこの計画が成功したなら、私の一生は、現在とは全く変つたものとなつたであらう。

工学寮も退学

 さて、工学寮に入学していよいよ化学教室に入つて見ると、自分は早速頭痛、その他の不快を感じた。教室に浸みこんでゐる薬品の臭ひが鼻につくためで、これには一番閉口した。色々な化学上の実地試験をさせられ、薬品の変な臭ひを嗅がされると、益々以て耐へられないほど、厭な心持ちになる。どの教場に行つて稽古しても習ふものが、皆気に入らない。無理に嫌な学問をすると身体が持てない、病気になる。私は生来虚弱であつて、草津滞在後は、よほど丈夫にはなつたが、未だ普通人とは比べものにならなかつた。現に工学寮に入学の際も、健康で落第しかけたのを、ダイヤー教頭の好意で漸く入学を許可された程であつたから、とても真面目に嫌な学問を継続することは出来なかつた。確か在学一年ばかりの間に、六ケ月余りは学校の病室に居つたと思ふ。とにかく、これは大変な所へ来たものだと思つた。苦心して入学したとは云ふものゝ、私はもともと化学が好きな訳でも何でもなく、一寸した行き掛かりから、向かう見ず{*3}に入学したのであるから、後悔したのも無理はなかつた。
 さういふ訳だから、授業時間ばかりでなく、ダイヤー教頭自ら毎夜全校の生徒を大食堂に集めてやらせた学習時間にも、私は病室に居ない時は、仕方なしに出席したが、一向課業をば勉強しなかつた。しかし、二、三時間もある学習時間を何にもせずに居れば叱られる。どうしたらよからうかと思案を重ねた揚句、暇つぶしに新聞の投書を書くことを考へ出した。これならダイヤー先生が見巡りに来ても、西洋人のことだから、何をしてゐるか分らない。かうして学習時間には、大抵つまらぬ論文を書いて居た。先生はこれを見ていつもよく勉強して居る、翻訳でもしてゐるのかと褒めてくれたが、いつまでもこんな事をしてゐても仕方がないし、のみならず、性質に合はないことは、どうしても長く続けてゐる訳にも行かなかつたので、たうとう一年足らずで、工学寮を退学した。それは明治九年の末であつたと思ふが、或は十年の初めであつたかもしれない。
 工学寮をやめてから、十二年の末頃までは、投書、反訳などをして遊んでゐたが、この間に本郷湯島の共勧義塾に招かれて、英国史の講義をしたことがある。この学校は慶応義塾、中村敬宇の同人社と並んで、三大義塾と言はれた程であつたが、その塾長の子供が、慶応義塾と工学寮で、私と同窓であつた関係から頼まれたのであつた。しかし、この講義は失敗した。生来おしやべりは余り上手でない上、慶応義塾以来の無言生活が祟つて、自分では分るやうに講義したつもりだが、生徒には一向分らない。ことに生徒は皆私より年上の者ばかりであつたので、私をばかにして、「幽霊講義で分らない」などと言ひ出し、果ては私を排斥するといふ始末であつたから、私もわづか五六回くらゐで、講義をやめてしまつた。幽霊講義とは、言葉の語尾が消えてしまつて、不明になるといふ意味。後年私が議員になつてからの演説に対してイヤに語尾に力を入れすぎて、キザだと評するものがあるのは、多分右の非難を忘れず、これを改めようとして、かへつて反対側に走りすぎた結果であらう。
 工学寮に居た時、学習時間に書いた論文中に、「討薩論」と言ふのがある。当時、薩摩はほとんど独立国の状態であつて、政府の命をきかない。西郷隆盛は、私学校を建て、私兵を養つて勝手な振舞ひをして居つた。故に私は是非共速やかに討伐せねばならぬと言ふ議論を書いたのだ。その頃の日本は、明治維新で階級制度打破、四民平等の大義を確立した筈であるが、習慣の惰性は怖ろしいもので、大臣や長官には、公家{*4}大名がすはり、維新の元勲は、いづれも今の次官どころの卑い位地に就いてゐた。明治四年に漸く大久保利通、大木喬仁、副島種臣らが一省の長官となり、六年には大隈重信が大蔵卿、伊藤博文が工部卿になり、漸次門閥制度は打破されたが、今度は薩長人が専横を極め、藩閥政治の世となつた。子供心にも私は閥族政治が癪に障り、討薩論を書いたのである。
 さてこの論文が出来ると、自分は内心得意で、福沢先生にお目にかけた。慶応義塾を飛び出したとは言ふものゝ、やはり福沢先生を忘れる事は出来なかつたからだ。その時先生は、唯一言、
「こんなものを書くと縛られるぞ。」
と申された。私は縛られるのは嫌であつたが、さう言はれると、私の性癖として黙つて引つ込んでも居るわけには行かなかつた。

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校訂者注
 1:底本は、「とうとう」。
 2:底本は、「こゝでに」。
 3:底本は、「向ふ見ず」。
 4:底本は、「公卿(くげ)」。