第三章 新聞記者時代
演説の稽古
工学寮をやめてからは、別に学校に入るでもなく、暇であつたので、読書の余暇には新聞の投書や翻訳をした。それから、福沢先生が拵へた「民間雑誌」といふ雑誌が一時休刊となつてゐたのを、私達友人等と共に再興した。創刊号は明治十年四月に発行し、最初は月刊であつたが、翌十一年三月から日刊に改めた。この雑誌の関係で、私は初めて朝吹英二氏と知り合ひになつた。朝吹君が主としてこの雑誌の経済方面を受け持ち、記者には古渡資秀、加藤政之助、波多野承五郎、本多孫四郎、本山彦一らの人々があり、なかなか意気盛んなものであつた。この時朝吹君の発案で、是まで政治を論ずる者は、皆羽織袴か洋服であつたが、それでは面白くない、法被を着て政治を談じたらよからう、民間雑誌は、法被着て、政治を談ずるといふ趣意で、やつて見よう{*1}といふことになつたので、私もそれは至極面白からうと同意した。しかし、実行して見ると、どうもピツタリとしない。元来私は人並み以上に、しかつめらしく言語応対すべてをやつて居つたのであるから、法被には不向きであつた。そのため法被連中から大層笑はれたものだ。
その後この友人らもそれぞれ地方へ聘せられて分れ分れになつた。時も時、明治十一年五月十四日、大久保内務卿が紀尾井坂で暗殺された。たまたま民間雑誌が「内務卿の兇聞」といふ社説を掲げ、政府に冷静沈着を勧告したが、当局の忌諱にふれ、今後かかる言論を弄すると発行停止か発売禁止にするから、以後今回のやうなことは書かぬといふ請書を出せと要求して来たので、福沢先生は大いに憤慨して、再び雑誌を休刊して了つた。
その後しばらく貧乏書生をしてゐた。「西洋穴探し」や「公会演説法」などは、この時代の翻訳である。やはりその頃の事であるが一友人が、「ソシアル・サイエンス」といふ本を買つてきて、之を翻訳して、「交際論」と名付けて出版した。今なら誰でも社会学と云ふのであるが、当時福沢先生が社交の必要を唱へ、世人もだんだん之に和鳴して、交際を説き始めた折柄であるから、右の友人は、「ソシアル・サイエンス」を交際論と名づけたものと見える。随分乱暴な話である。
これもその頃の話。私が著述を始めて間もない時、福沢先生を訪ねてご意見を伺つた事があつた。その時先生は毛抜きで鼻毛を抜きながら、変な目付きをして斜めに私の顔をながめながら、
「おミエーさんは、だれに読ませるつもりで著述なんかするのかい。」
と問はれた。私はその態度や言葉使ひにムツとしたが、怒気を抑へ、襟を正し、儼然として、
「大方の識者に見せるため。」
と答へた。スルト先生は、
「馬鹿ものめ! 猿に見せるつもりで書け。おれなどはいつも、猿に見せるつもりで書いてるが、世の中はそれで丁度いゝのだ。」
と叱咤しつゝ人を引きつけるやうな笑ひ方をされた。私は叱られたのか、褒められたのか、何だか分らなかつたが、とにかくその態度や言葉使ひが気に入らなかつたから、その後はなるべく先生を訪問しないやうにした。しかし、これは私の誤りで、先生は実用的著述の極意を示されたのであつた。
工学寮退学後、たしか十年の末頃かと思ふが、私は波多野承五郎、桐野捨三、加藤政之助の諸君らと協議社といふ会をこしらへ、討論会や演説会などを開き、又新聞へ投書もした。さうすると私達を生意気組と称して、反対の気勢を挙げて居たものに猶興社といふものがあつた。この猶興社の牛耳を執つて居たのが犬養君であるが、この頃はまだ君を知らなかつた。無言生活をやつて居つた私がかうしてしやべるやうになつたのは、丁度福沢先生が日本でも追々演説を流行させなければならないと言つて、態々三田演説館を建造し、自らその範を示し、奨励しはじめた時であつたから、私も先生にすゝめられるまゝに、演説を試みるようになつた。
けれども、おしやべりの下手な私に、上手な演説が出来よう筈がない{*2}。他の人に比べると大変まづい。しかしその頃私は、「文章は百年の業、口舌は一時の用」と心得てゐたから余り苦にもしなかつた。従つて熱心に演説はやらなかつた。この頃の演説で記憶に残つてゐるのは「尚武論」丈けである。これは国家の盛衰興亡は、尚武の気象の有無に依つて別れるといふ事を歴史上より論じたもので、後出版して好評を博した。この演説は明治十二年と思ふが、芝のある寺の隅に、海軍士官の倶楽部のやうなものがあつて、種々な人物を聘して講演を聞いて居つた。多分水交社の前身であつたらうかと思ふが、そこから長谷川貞雄(後に貴族院議員になつた)と云ふ海軍将校が、どういふ訳であつたか、人を介して、私に講演を求めて来た。当時私はまだほんの一書生であつたが、一席弁じたのが右の「尚武論」である。
その頃私は、しばらく駿河台の加藤桜老といふ漢学先生の所へ、漢詩漢文を習ひに行つた。この先生は、支那の古楽をよくし、詩を学ぶものは、楽を知らねばならないと言つて、私にも旁ら、音楽を学ばせた。音楽といつても横笛、琴、篳、篥、簫等である。ものにはならなかつたが、私も琴の稽古をした。友人中には、
「尾崎は鋤鍬でも握るべき武骨な手で、琴を弾いてゐる。」
とあざ笑つたものもあつた。
「琴泉」といふ私の古い雅号は、その頃琴の音と、泉の流れの音との相似た連想から、付けたのであつた。ところが、犬養君が例の毒舌で、
「琴泉とは粋な名だ。女の画家か、按摩のやうだな。」
と笑つた。さういはれるまでもなく、私も琴泉では少し弱過ぎると思つてゐたから、間もなく「学堂」と改めた。学問は学校だけのものでなく、一生いそしむべきものと考へたからである。すると犬養君が又言つた。
「学堂とは、支那ではスクール(学校)のことだ。可笑しな雅号もあつたものだ。」
そこで私は、
「木堂(犬養君の雅号)は材木小屋のことであらう。」とやり返した。
かうしてしばらくの間私は読書、翻訳、投書などで、日を暮らしてゐたが、この時思ひがけない吉報が来た。
新潟新聞主筆となる
明治十二年の冬のある日、十一月であつたか十二月であつたか、とにかく福沢先生から用事があると言つて来た。何事であらうかと、早速行つて見ると、
「新潟新聞の主筆に推薦した古渡資秀が、赴任後間もなく病死したので、その後任を頼まれてゐる。どうだ行かないか。」
といふ話であつた。古渡君は私より後に、慶応義塾を出た人であるが、年輩は私より上で、文筆もすこぶる達者な人であつた。さて越後と云へば田舎ではあつたが、当時新潟新聞は地方新聞の尤として大阪の大新聞と対抗する程の勢力を持つてゐたから、私は勧められるまゝに、新潟行を承諾した。
その頃はもちろん汽車はまだない。漸く人力車が出来たぐらゐで、旅は悠長なものであつた。熊谷、本庄、高崎、軽井沢等に泊まりを重ねて、六日目に長岡へ着き、ここから船で新潟へ赴いた。新潟へ着く前に、途中で日数がかゝり過ぎたので、旅費を使ひ尽くして了ひ大いに困つた。
さて、新潟へ着くと、向かうからは{*3}新主筆の到着といふので、船着場には出迎へが来て居つたが、お互に顔を知つてゐる訳ではない。私が船から上がると、しきりに私の方を物色しながら、私に、
「尾崎先生はお着きになつたか。」
と問はれた。そこで私は、これが出迎への人々だなと気がついて、
「自分が尾崎だ。」
と答へた処、一行は怪訝な顔をして不承々々に迎へた。その頃は身体の大きさで、人物を評価して居つたので、身体の小さい、年若な私が、見損なはれたのも無理はない。その後懇意になつてから、内輪話を聞いたが、当時新聞社の人達は皆、
「福沢先生も大変なものを寄越したものだ」と云つてびつくりし、「尾崎は書生を伴れて来て、その書生が先に上陸したのだらうと思ひ、尾崎先生はと尋ねると、その書生のやうな子供が尾崎だと云ふ。こんな者が主筆になつて、新聞が出来るかしらん」と大層心配したといふことだ。
その頃新潟新聞は、今の医学町の新潟印刷所の所に社屋があつて、私はそこで社説を書いた。かうして私の公人生活の第一歩は始まつた。然し筆を執つて見ると、初めから評判が悪くない。紙数も殖えた。社の人々も大層喜べば、私の社内の評判も宜しい。しかし、それは私が偉いのでもなんでもなく、私が筆を執つた頃は、文明開化の急潮にのつて、新聞の読者も増すときであつたから、ズンズン増加したので、畢竟時勢のお蔭であつたらう。
筆の方はそれでまづよかつたが、物を云ふことになると、生来の談話下手に、多年の無言主義の修養が祟つて、非常に困つた。新聞主筆といふので、田舎から色々な人が訪ねて来る。又招待もされるが、その応対にも私は只ハアとか、エエとか答へるだけで、寒暖の挨拶もろくには出来なかつた。いや、出来ないばかりではなく、寒いとか暖かいとか、天気が善いとか、悪いとかいふやうな千人万人皆知つてることを、遇ふ人毎に繰り返すのは、愚の至りだと考へて居たのであつた。又演説もやらされた。座談的には物が言へなかつたが、可笑しなことに理屈だけは言へたので、しばしばやつた。もちろん義塾出の人などに比べると、すこぶる下手で、評判も悪かつたが、やる事の筋が立つてゐるため、公衆も聞いてくれたやうだ。
さて、新潟時代の仕事で今日まで残つてるものとしては、まあ学校の設立ぐらゐである。越後へ行く前に私は、新聞の投書はよく書いたが、学校を出たばかりの無経験者が、一躍主筆になるのであるから、出発に臨み、福沢先生に新聞記者として世に立つ心得をお尋ねした。先生はその時、
「マアどうしても、地方人士の智識を開発しなければならないが、それには、新聞に書くばかりでなく、同時に演説会を開き、目と耳と両方から、世間を嚮導して行かなければならぬ。これを自分の職分とせよ」と云つて、その他にも商事思想の注入、県会指導の必要など、二三箇条の心得を巻紙に書きつけて下さつた。
そこで、商事思想の普及については、新潟の有力な実業家を勧誘して、まづ北越興商会といふものを興した。これは一般に商業教育を為す目的であつて、さらに進んでは興商会附属の学校をも建てるつもりであつた。この学校は有志を募り、計画丈けはたてたが、明治十四年七月私は新潟を去つたから、自分の手で学校を設立するまでには至らなかつた。しかし、その年の十二月、同志の人々は、私の計画を継いで、予定通り学校を創立した。その後種々の変遷はあつたが、今日県立新潟商業学校となつてゐるのが、それださうだ{*4}。
これなどは忠実に教へを実行した方であるが、私は先生の訓令を自己流に解釈して、随分乱暴なこともやつた。
校訂者注
1:底本は、「やつて見やう」。
2:底本は、「出来やう筈がない」。
3:底本は、「向ふからは」。
4:底本は、「それだそうだ」。
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