新潟県会を指導す
私が越後へ行つた頃の新聞は、論説に重きを置いて居たから、論説記者の勢力は、大層なもので、その主任は主筆と称し、編輯全体を指揮した。私も勿論さうであつたが、しかし主筆だけで満足せず、初めから新潟新聞総理と署名し、さらに指揮権を営業方面にまで拡張し、株主代表者たる社長を更迭せしめたこともあつた。少年時代には誰しも威張りたがるものと見えるが、これでよくも苦情が出なかつたものだ。それから二、三十年して、私は当時の新潟新聞社主の子息から、一通の手紙を見せられて、初めてその謎が解けた。手紙は強情我慢な少年を推薦して、些か心配であつたと見え、福沢先生が私の赴任に際し、私の性質から待遇法まで、事細かに社主に書き送つたもので、これによると、先生はこの時、既に私の腹の底まで見抜いて居つたのである。私は当時さうとは知らなかつたから、先生を敬遠し、時には反抗もして、御存生中余り親しく教へを受けなかつたが、これは実に残念なことであつたと今もなほ思つてゐる。新聞はそれでもよかつたが、私は県会まで、その流儀で押し通さうとした。
明治十一年七月府県会規則が発布されて、十二年三月から各地で漸次府県会が開かれたが、新潟県は遅れて、私の行つた時は、まだ開かれなかつた。何分初めての事であるから、どうして開いて善いか、議事法なども知つて居る人がない。そこで私は福沢先生からも言はれて居つたので、県会開設にも尽力した。さて、いよいよ県会が開かれると、県会の方では私の席も、書記のつもりで議長より一段下に設けようとした。無論福沢先生が指導せよと云はれたのも、書記のつもりであつたらうが、自分は教師のつもりに聴き取つてゐたから、たとひ名義は書記でも、県会を指導するのには、議長と席を並べなければならぬと云つて、議長の松村文二郎君と並んでテーブルを据ゑさせた{*1}。松村君は温厚にして徳望ある君子人であつたが、議長の職務には不慣れであつた。しきりに失策をする。温厚すぎて議場の整理が充分出来ない。私は教師のつもりであるから、見かねて議長に命令的に指図する。余り議論がやかましくなつた時には、議長に向かつて「モウお止めなさい。散会なさい」と云つて、散会させた事も度々あつた。又議長が私の言ふことを聴かない時は、私が散会を宣告し、筆を投じて議場を去つたことすらあつた。当時の議事録は、珍物として、今日もなほ保存してあるさうだが、私の筆記した県会の議事録には、種々な評語が加はつて居つて、「愚論聞くに堪へず」とか「この論採るに足らず」とかいふ事が、筆記の中に書いてあるさうだ。
翌年の県会にも、私は再び書記になつた。しかし今度は温厚な松村君が、その任に非ずと議長を辞して、山口権三郎といふ人が、代つて議長になつた。この人はなかなか厳格で、私の我が儘を許さない。私もこれはとてもいかぬと思つたから、山口君が議長になると同時に、書記をやめた。
新潟へ行つてから、しばらくして、私は何であつたか、永山新潟県令を主賓とした官民合同の宴会に、新聞記者として招待されて行つた事がある。行つて見ると{*2}私の席は、末席も末席、一番端に設けられてあつた。当時私は丁年未満の書生であつたから、末席でも別に不思議はなかつたのであらう。しかし、それを見ると、かねがね米国では新聞記者は無冠の帝王と称し、大いに声威があるといふ事を聞きかじつて居た私は、早速案内した世話人をとらへ、これは新聞記者を遇する道ではない。自分の席をもつとよくせよと談判を始めた。世話人はなかなか聴き容れなかつたが、官尊民卑の陋習に忿懣を感じて居つた私は強情を張つて、押し問答をしてゐると、永山県令はこれを聞いたものと見え、
「それは面白い、こちらへ移せ。」
と言つた。そこで漸く県令の隣に座を占めることになつたが、県令の言ひ方も私には気に喰はなかつたものだから、宴たけなはにして、私も酒に酔つて来た時、私は床の飾り花をもぎとつて、知事の頭上や席上に、バラバラふり撒き、
「謹んで祝意を表する。」
とか何とかと言つて帰つてしまつた。その頃県令と云へば、なかなかの権勢家であつたから、属吏達は憤慨して、唯では尾崎を帰すことは出来ぬと猛りたち、無事に済みさうにもなかつたが、永山といふ人は、度量の広い人と見えて、始終優しくしてゐて、おこらない。それで私は何事もなく帰れた。今から考へれば青年血気の致す所とはいへ、恥づかしい所業であつた。その当時私は永山県令は一廉の人物であると感心した。
結婚生活に入る
明治十三、四年といへば、既に自由民権論の囂々たる時代であつたが、中央政界を離れた草深い越後の新潟新聞は、別に目覚ましい競争相手もなく、私はむしろ張り合ひのないくらゐであつた。ところが、そのうちに長岡に競争相手が現れた。長岡の人大橋左平君が、新聞を拵へたが、新潟は地方の中心であるのみならず、新潟新聞は暖簾も古く評判もよいから、長岡の新聞は、尋常の手段では対抗が出来ない。私と対抗させるには、誰か私以上の声望力量のある者を呼んで来なければならなかつた。大橋君は今の博文館の創立者で、大橋新太郎君の父君であるが、なかなかのやり手であつただけに、俸給を惜しまず人選した揚句、その頃東京でも有名な草間時福君を招聘して来た。その頃の新聞記者の俸給は、大抵五十円から七、八十円ぐらゐであつたが、草間君には、百五十円以上二百円も出したといふ評判であつた。大橋君の意気込みも、推して知る事が出来よう{*3}。従つて草間君もまた自分が行けば、尾崎などの書く新聞は、何のひと振りと云はんばかりの勢ひで越後に乗り込んで来た。
私は、草間君も慶応義塾出であつたから、顔ぐらゐは知つて居たが、別に知己でもないので、知らぬも同様であつた。しかし、その技量は稍知つて居つたから、好敵手ござんなれと、しきりに彼と対戦し、自分ではむしろ彼を圧伏するつもりで論戦を開いてゐた。かうして盛んに筆陣を張つてゐる内に、社説のたねもなくなつて来たから、例の尚武論を思ひ出し、やはり「尚武論」といふ題で十五日間ばかり連載した。連載して見ると、これが案外好評であつたので、明治十三年に出版したところが、これまたよく売れて、東京辺からも大分註文があつた。
私が田舎生活一年半余りを送るうちに、自由民権論や、国会開設論が非常に盛んになつて、明治十三年には各地の在野有志が、国会論のために、日本全国の与論を喚起し、「国会期成同盟」、「国会願望」などといふ会を各地に拵へて、板垣退助その他有名な人々が、盛んに国会開設論を唱へ、越後辺にも、国会願望の空気はよほど高まつて来た。この時勢の動きと、中央の風雲を眺めては、私も雄心大いに動いて、東京へ帰りたくて堪らなかつた。この時、突然矢野文雄君から、政府に入ることを勧め、上京を促す手紙をもらつたので、私は二つ返事で承諾を与へた。
矢野君は私の先輩で、慶応義塾で、少しの間教へを受けたことがあつたかもしれないが、ほとんど記憶にとゞまつてゐなかつた。私が矢野君の声望を聞いて、私かに感服したのは、君が義塾を去つて、報知新聞記者となつた後である。こんな訳で、これまで何らの交際もなく、先方ではおそらく私の顔も姓名も知らないだらうかと思はれるくらゐだのに、それが私に目をつけたのは、全く「尚武論」の取り持ちであつたと云ふ事だ。即ち「尚武論」を見たある先輩が、面白い感心な少年が居ると、矢野君に推薦し、これが縁となつて、政府入りを誘はれることになつたのだと聞いた。しかし、これは直接矢野君から聞いたのではないから、真偽は保証の限りでない。
私が新潟新聞を去つた後、後任主筆には同窓の友人津田興二君を推薦した。この人は後年三井に入つて相当な地位を得た人である。津田君の次には箕浦勝人君、その次には吉田熹六君と、主筆後任者は、常に私が依頼を受けて、三代ばかり推薦した。新潟新聞は、その後政党の軋轢に禍ひされて、一時廃刊された。再興後は、昔日の面影がないやうだ。
それはとにかく、弱冠廿二歳の新聞主筆は、いよいよ実際政治に自分の志を伸ぶることが出来るかと思ふと、愉快であつた。維新頃は男は十五歳、女は十三歳を以て丁年と認められて居つた{*4}時代で、すべての人が、早熟であつたから、今の人から見れば、私も早熟で、子供の頃から、既に国事を談論して居た。そして新潟に来る頃は、政治に志す人が、誰でも持つやうに、私もどうせ政治家になるからには、自分の思ふ通りの政治をやつて、藩閥政治を打破し度いと考へてゐた。しかし、それには腹心の部下がなくては駄目だ。一番信頼出来る者といへば、自分の子供であらう。子供も政治家にするのであるから、男の子でなければならない。自分が老いぼれないうちに、役に立つやうな男の子を、沢山拵へるに限ると空想したのも、その頃の事である。なぜこんな妄想を抱くに至つたかと云ふに、水戸の烈公が、五十余人の子福者で、これを全国の各大名に配し、大いに勢力を振るつたと聞いて居つたため、子供心にこれを真に受けたのであつた。従つて、私は早く結婚し、新潟に居る間に誂へ通り男の子が出来た。子供が出来て喜んだのはよいが、今度は早速生活に困つて来た。自分だけでも、衣食の計に苦しんでゐた折からであつたので、一人子供が出来てすら、既に大いに困つた。それがため、妄想も一朝にして打ち砕かれてしまつた。その頃の有志は、坊主と同様に、貧乏な癖に、食ふ心配などはしなかつたので、こんな馬鹿げた考へも持つたが、現実に直面すると、たちまちその不可能が分つた。私も早く気がついて、正妻以外の婦人にまで発展しなかつたから、面倒も起こさずに済んでよかつた。しかし、腹心のものだけで、ひと仕事して見たいといふ考へは、その後もなほ頭の隅に隠れてゐたと見え{*5}、それがため遂に弟の身を誤らしめるに至つたが、それは追つて話さう。
校訂者注
1:底本は、「据えさせた」。
2:底本は、「行て見ると」。
3:底本は、「出来やう」。
4:底本は、「認(みと)められておつた」。
5:底本は、「見へ」。
コメント