第四章 国会準備時代
大隈参議に識らる
官尊民卑の思想は、私の最も排斥するところではあつたが、単なる役人でなく、国会準備のためと云ふので、私は勇躍東京に帰つた。帰るとすぐ、矢野文雄君の推薦で、統計院権少書記官に任官した(明治十四年の七月)。権少書記官と云へば、奏任七等の本官であるが、当時私は二十三歳の若輩で、田舎新聞の主筆に過ぎなかつた。そこで、私の履歴書を見た太政官では、こんな年少の者を奏任七等の本官にしたことはないと云つて、大分任官を渋つたさうだ。犬養君もこの時、私と同じ権少書記官に任ぜられたが、同君は私よりも年齢が上ではあるし、東京で色々新聞雑誌に関係し、相当に名を知られてゐた。
統計院と云へば、只統計を調べるだけの役所のやうに聞こえるが、矢野君の話では、統計事務を執るだけなら、局で沢山だが、時勢の進運に促されて、内閣にも国会開設論が起こり、大隈参議などは、明治十六年を期して国会を開く希望で、既にその準備に着手した。国会が開かれゝば、国務の説明をさせる政府委員が、多数必要であるから、今の内に民間の人材を抜擢して政府に入れ、二年間政務の練習をさせることになつた。それには、政務全般の事を調べねばならないので、院となし、各省から材料の蒐集に便ならしめることにしたのださうだ。さて、出勤して見ると、成程矢野君の話の通りで、お前達は将来――今日の言葉で云へば――政府委員になつて国会に臨むのであるから、そのつもりで研究しろ、統計その物のためには、力を尽くさぬでも宜しい、国務全体の調査に力を注げと云ふやうな訓令があつた。
かう云ふ訳であるから、人材が集まるべき筈であるが、まだ役所を開いたばかりの時であつたから、牛場卓蔵君、犬養毅君、永井久一郎君と私の外には、統計専門の杉亨二{*1}君が居たばかりであつた。波多野承五郎君、那珂道世君らも、誘はれたさうだが、承諾しなかつたと云ふ事だ。
統計院総裁は、大隈参議の兼任であつた。明治十四年大久保内務卿の死後は、大隈参議が、政界第一の有力者で、外務、大蔵、司法、農商務の四省を監督してゐた。その頃の諸官省は、内閣と分離し、有力の人は、参議として太政官に居り、各省には、第二流の政治家を以てその長官となし、一人の参議が、各二三省ぐらゐづつ監督して居つた。この飛ぶ鳥も落とすやうな勢ひの大隈参議を総裁に戴いて、我々は大いになすあらんとしたのであつた。
さて私が入つたのは、七月の末で、すぐ暑中休暇となつた。大隈参議は、御巡幸の御伴をして、北陸地方に行かれ、太政官大書記官で統計院幹事を兼任してゐた矢野君も、賜暇を得て、関西に旅行し、院に残つた者は、新たに就職した吾々数名に過ぎなかつた。その暑中休暇の終はるか終はらぬに、政府部内に、激烈な大隈参議排斥運動が起こつた。所謂明治十四年の政変がこれである。即ち伊藤、井上、大隈の協調が破れ、薩長連合の勢力を以て、当時福沢先生の三田派と結んで、国会開設の準備に取り掛かつてゐた大隈参議を、政府から排斥したのである。この運動が表面化したのは、大隈さんが北陸巡幸{*2}の供奉をして、東京を留守にしてゐた時であつたが、とにかくこの運動は成功して、大隈さんは薩長連合軍の総攻撃を受けて、三田出身の役人は云ふに及ばず、いやしくも大隈派と目せられたものは、ことごとく辞職すべく余儀なくされ、矢野君はじめ吾々一同も、辞職した。私が政府に居つたのは、僅か二ケ月足らずで、しかも暑中休暇中であつたから、何も仕事をする隙はなかつた。
役人をやめてすぐ当惑したのは、徴兵検査であつた。私はその前年に適齢に達したのだが、病気の故を以て、一年だけ検査を延ばしてもらつてゐたところ、十四年には、役人になつたから、一時徴兵検査を免れた。然るに、意外の政変に遇つて辞職したため、忽ち東京府庁に呼び出された。やむを得ず検査を受けるため出頭すると、まつ裸にされて、五六人の者と、一部屋に追ひ込まれた。十一月頃ではあつたし、火の気もないので、寒くてたまらない。それでなくてさへ自ら国士を以て任じてゐる自分が、丸裸にされて、黴毒患者ででもあるのか、全身に変な腫れ物が出来てゐたり、又横痃などの出来て居る不潔な連中と一緒に立たされてゐるのであるから、不平に堪へないが、致し方がない。そのうち身体検査が始まつた。検査官は、黴毒患者だか何だか分らない不潔な人物の股間や尻の穴をいぢくつた手を、洗ひもしないで、私の検査に掛かり、その指を私の唇に触れよう{*3}とした。私は堪へきれなくなつて、二三歩退くと共に怒気を含んで、検査官を睨み付けた。さうすると{*4}検査官は、ろくろく検査もしないで、私の体質などを書き始めた。私はどんな事を書くのかと、怪しみながら、覗いてみると、「色白き方」とか、「ふとつた方」とか、全然反対なことを書いて居る。可笑しいなと思ひながら、なほ見てゐると、最後に体格は甲の上と書いた。
当時私の健康状態は非常に悪く、体重の如きは十一貫余りしかないぐらいであつたから、検査は受けても、或は不合格で免役されるだろうと思つてゐた。その後間もなく、金融上の必要から、生命保険を付けたが、保険医は、普通の保険料では引き受け難い部類に、私を入れた。しかるに、徴兵検査では甲の上とあつて、兵役に就かねばならない事になつた。兵役の勤まる健康状態ではなかつたため、大いに困つたが、その頃は今日と違つて、一定の料金――たしか三百円?――を納めれば、兵役の免除を受ける事が出来た。が、貧乏な私には、その金すらなかつた。国士を以て任じてゐても、金は中々自由にはならない。実に弱つたが、この時は事が兵役といふ大事件であつたから、友人が私を救ふために、その金を貸してくれた。これが、抑々ひと口百円以上に及んだところの私の借金の初めである。
改進党を組織す
私が大隈参議に親しく面会したのは、統計院に入つた後、矢野君につれられて、雉子橋の同邸を訪れた時である。私はそれまで新潟の片田舎に居つて、ずいぶん傍若無人な振舞ひもやつたが、さすがにこの時は非常な興味を感じた。その頃の新聞雑誌によれば、官界では書記官が偉物で、大臣参議はその傀儡たるに過ぎないやうに書かれて居た。私もこの噂を真に受けて、矢野君を大隈参議の師匠だと思つてゐたから、この両人が、私の面前でどんな態度をとるかと、それが楽しみであつたのだ。ところが往つて見ると、予想とは正反対で、やはり大隈さんは参議の威厳たつぷりで、滔々と弁じ立て、矢野君は、書記官らしく謹聴してゐる。私は可笑しくてならなかつた。そのうち、大蔵卿の佐野常民君やある省の長官が来たが、いづれも大隈さんの講釈を聞いて、
「ヘーツ」と引きさがつて行く。私は、これは自分が居るので、芝居をして、大隈参議をエラさうに取り繕つてゐるのかと、狐につままれたやうな気持ちで、その日は帰つた。その後いつ往つて見ても、同じやうな応対ぶりであつた。それで漸くこれは、芝居でも何でもなく、実は大隈さんの方が偉いのだと知つたのである。
かうして、次第に大隈さんに接近するやうになつたが、十四年の政変で野に下つた大隈さんを始め同心一味の人々は、他年の国会開設に備へて、政党を組織することになり、従つて私もその下相談にのつて政治上に働いたが、その年は大したこともなかつた。
当時は自由党が、主に{*5}血気さかんな士族連によつて組織されたばかりで、過激な振舞ひが多かつたから、私達は穏健な道を進まなければならぬと云ふことになつた。そして穏健に進むには、知識あり、財産あり、名望あるものを党員にせねばならぬと云ふので、もつぱらこの方面の人々を集めた。かくて明治十五年初めに、沼間君及びその麾下の島田三郎、肥塚竜、角田真平等の諸君の「嚶鳴社」と、矢野君の一派即ち藤田茂吉、箕浦勝人、犬養毅及び私など慶応義塾出身者の組織した「東洋議政会」と、又小野梓君の率ゐた高田早苗、天野為之、山田喜之助諸君など大学出の一派よりなる「鴎渡会」との三派を合はし、これに大隈配下の旧官吏河野敏鎌、前島密、北畠治房、牟田口元学など云ふ諸氏及びその他を加へて、改進党を組織した。
改進党が生まれると党の機関新聞として、矢野君が報知新聞を譲り受けた。私もこゝで、犬養、箕浦の諸君らと共に報知新聞に入社して、論説記者となつた。やはり明治十五年の初めである。報知新聞の経営は、かうして矢野君の手に移つたが、藤田茂吉君は、引き続き在社したので、論説記者は都合五人となり、日を定めて順番に書いた。
新聞社といへば、時代の尖端を行くものゝやうに思ふであらうが、この時分は、新聞社まで、官僚式であつた。報知新聞の如きも、編輯局は上局と下局と別々に設けられ、上局には吾々論説記者が居り、下局には雑法記者や翻訳方等が居つた。
これは、今から見るとずいぶん可笑しな話であるが、当時大新聞の論説記者は、今と違つて大抵国士を以て自ら任ずるものであつて、単なる政論家ではなかつた。いつでも天下を取つて代らうと云ふ覇気満々な連中が多かつたから、自然論説は気位が高く、その態度も中々横柄であつた。
私は、入社すると、まづ新潟新聞主筆の頃、報知新聞の論説欄でその名を知り、心ひそかに感服してゐた原敬君を思ひ出した。どんな人であらうと探したが、自分の居る上局には見えない。不思議に思つて居たら、原君は仏語の翻訳方をする下局の記者で、翻訳だけでは、暇なので、退屈凌ぎに論説の手伝ひをして居つたのであつた。そこで私は原君の技倆も認めてゐたから、なるべく上局の仲間へ入れたいと思つて、その話を持ち出した。ところが矢野君はじめ上局の連中は、
「かの人は政府との関係が深過ぎるから、むしろ退社させようと思つて居るところだ。」
と云つて反対された。私は、
「何とか救ふ道はないか。」
と考へて見たものゝ、強ひて引き止めるほどの力もなく、その内に、原君は我々が入社して間もなく自発的に退社した。
その頃の論説は、矢野君、藤田君、犬養君、箕浦君と、私の五人でかはるがはる書いたのであるから、ずいぶん面白い論説もあつたらうが、改進党の機関紙となつたため、政府から非常の圧迫を受け、しばしば発行停止の厄運に遭遇し、発行紙数は漸次減少して三四千に落ち、ずいぶん引き合はない営業となつた。しかし、我々論説記者五人は、皆お抱へ車を持つてゐたので、沼間守一君などはよく、
「報知社の前を通つて見ろ、黒塗りの人力車が、いつでも五六台は欠かさず着いて居る。」
と云つて、その贅沢を冷やかしてゐた。
自由党と争ふ
報知新聞の論説記者をしながら、私は改進党にあつて政治家生活を始めた。もちろん演説もやらされた。ことに改進党は、自由党と喧嘩をして居たので、互に文書、演説で攻撃し合ふ。私もその喧嘩にひつぱり出された。その頃はもう無言主義でもなく、議論もすれば、演説もしたが、しやべることは、相変らず下手であつた。方々からよばれるから、行つて演説したけれども、評判は宜しくない。喝采などされる事はなかつた。むしろ引つ込めなどと云はれることも度々あつた。私が、心中ひそかに軽蔑してゐた人々で、私より評判のよかつたものが、幾人もあつた。しかし私は、上手な演説者にならうとは考へなかつたのみならず、かへつて反対に演説を軽蔑し、遂に趣意さへ通れば、下手でも構はぬと考へるやうになり、いぢめられながらも、意地になつて下手な演説で押し通した。
明治十六年三月の末、私は矢野君と共に、東海道の遊説に出た。乗り物の不便な時であつたから、第一日は神奈川に泊まり、翌日は神奈川から人力車で小田原まで行つて一泊すると云つた風に、道々党員を募りながら、悠長な旅をして東海道を下つた。旅は悠長ではあつたが、到るところで、自由党の妨害に遭ふので、一向呑気ではなかつた。それに、改進党の連中は財産あり、知識あり、随つて喧嘩嫌ひな穏健の士が多かつたので、演説会はいつも振るはなかつた。
かうしてとにかく名古屋まで来た私達は、そこで秋琴楼といふ宿屋兼料理屋に泊まつて、党勢拡張のため、地方の有志家と毎日会見して居た。さうすると、ある日のこと、当時はすこぶる有名であつたところの自由党の雄将内藤魯一氏が、三十人ばかりの壮士を引き連れて、吾々の宿舎へ面会にやつて来た。その前年、板垣君が、岐阜で刺客に襲はれた時、刺客の襟上をつかんで二三間も投げ出したといふ評判のあつたのは、この内藤氏で、名うての剣客か柔術家であつた。さて面会すると、内藤氏は肩を怒らして、
「報知新聞は何故に国家の害物たる三菱を攻撃しないのか。甚だ以て不都合である。返答を承りたい。」
と語気鋭く詰めよつた。後ろに引き具して来た三十余名の壮士は、腕を撫して返答如何と待つて居た。
この三菱問題と云ふのは、当時薩長政府は、陸海軍から警察権、民間事業に至るまで、ほとんどすべての要所々々を掌握してゐたが、独り海運だけは、三菱一手で持ち切つて居て政府の自由にならなかつた。しかも大隈さんと三菱とは、ドンナ縁故があつたか知らないが、政府は改進党の総裁が三菱と結託して居ると睨んでゐたから、万一の場合には海上権を大隈に取られるのを恐れて、三菱を潰さねばならぬと、品川弥二郎氏らが中心となつて、色々画策して居つたのである。そのために、報知新聞も、大隈の関係で、三菱から金をもらつてゐると噂され、これが改進、自由両党の離間にも利用されてゐたのである。
さて吾々の返答次第では一悶着は免れまいと覚悟してゐると、矢野君はおもむろに口を切つて、まづ自由党首領板垣君の遭難を悼み、見舞ひを送つた事などを話しておいて、
「お話はごもつともである。帰京後、篤と事情を取り調べた上、諸君の言ふ通りであれば、然るべく論評を試みるであらう。」
と云ふやうなことを物柔らかに答へた。矢野君は、長者の風のある人であつたから、この答へを聞いて、自由党の連中も色を和らげ、我が意を得たりとばかりに、今度は私に向かつて尋ねた。
「矢野君が既に承諾した以上、足下も勿論であらう。」
と。私も矢野君がさう云つた以上、
「勿論。」
と一言答へれば、それで事は済んだのであるが、内藤氏らが力を恃んで脅迫的に言つたのが癪にさはつたから、
「イヤ、私は不同意である。攻撃しようとしまいと、こつちの勝手である。」
と言つた。もとより身に寸鉄を帯びてゐた訳ではないが、武器のないのも、時にとつての幸ひで、彼らは、
「生意気な奴だ。二階から放り出せ。」
「殴り殺せ。」
と物凄い権幕で、私に迫つたが、内藤氏はこれを制止し、
「矢野が承諾した以上、尾崎のやうな小僧の云ふ事は相手にするな。」
と悪口雑言を吐きながら、席を蹴立てゝ引き揚げた。この連中の内には、後に名古屋事件、加波山事件等に加はり、人殺しをやつたものもあつた。よくまあ無事に済んだものである。それからと云ふものは、名古屋滞在中は散歩に出ればうるさく付きまとつて大道で談判を開き、演説会を開けば打ち壊しに来る。ずいぶん厄介であつた。内藤氏の弟もまた有名な乱暴者で、我々の演説会に太い青竹を振りかざして乱入し、改進党員を逐ひ散らした。当時内藤兄弟の威名は壮士仲間に轟いてゐた。
校訂者注
1:底本は、「杉享二」。
2:底本は、「北陸巡行」。
3:底本は、「触れやう」。
4:底本は、「さうすると」。
5:底本は、「重もに」。
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