政党の受難時代
自由党や改進党が生まれた後、我々は自ら「民党」と称し、政府党をば「吏党」と名づけてこれを軽蔑したが、政府側では在野党をば国賊の如く言ひなし、その撲滅に取りかゝつた。
明治十五年六月には、独逸の社会党鎮圧條令や、英国の愛蘭党鎮圧條例等かの国々では、小戒厳令と称するものに倣つて、集会條例が改正され、政党はもとより、いやしくも政治を講談論議するものは、いかなる会団もすべて、党員名簿を作つて届け出でよとか、或は政社互に連結すべからずとか、色々政党拘束の規定が設けられた。我々はこれに対し、主義主張によつて離合集散する政党の党員、その数は何百万人何千万人の多きに及ぶから、名簿など出来るものではない。たとひ解散を命ぜられても、主義さへ同一なれば、同党員であるから、こんな乱暴な法律に従つて、届け出る必要はないと、大いに反対したが、結局法律として発布された以上、服従せねばならぬと云ふ方が、多数で、遂に政社として届け出ることになつた。
政府の政党撲滅策は、これだけではなかつた。ことに藩閥の勇将品川弥二郎君一派の如きは、政党撲滅を以て、国家安泰の重要手段と考へ、政党員と見れば、謀反人扱ひをなし、民権論者をば帝政に反対するものであると云つて圧迫した。又政党主義の新聞には、しきりに発行停止を命じ、御用新聞の拡張をたすけた。こんな風であつたから、政党員で牢に入れられたり、殺されたりするものは、珍しくなかつた。犬養、島田の諸君も度々殴られたり、傷つけられた。箕浦君のやうな温厚な人でさへ、牢に入れられた。私は、強情な癖に、お先棒に使はれる方だから、憎まれ者の先頭に立ち、ずいぶん危ない目にたびたび遇つたが、幸ひに殴打もされず、牢にも入れられなかつた。しかし、論説の方では、ずいぶんいぢめられた。私が書くと二週間、三週間、ひどい時は四週間の発行停止を命ぜられたこともある。これには全く閉口した。
さうかうしてゐる間に、政府の魔手は、後藤象二郎、板垣退助両君に伸び、これを口説き落として、明治十五年九月に洋行させた。首脳部を引き抜かれた自由党は、洋行派と非洋行派とに分かれて、ごたごたを始めた。大阪にあつた自由党の一派、立憲政党の如きは、集会政社法に羈束されては、本当の働きが出来ないと云ふので、十六年三月遂に解散して、自由行動を執ることになつた。この時、大阪に旅行して居り、立憲政党解散のいきさつを見て来た改進党の河野敏鎌君、藤田高之君などは、東京に帰ると、河野君が先頭で、改進党の解散を唱へ始めた。私は解散反対を主張し、あくまで維持説を唱へたが、折柄政府の弾圧で意気揚がらざる時であつたから、結局解散党が勢ひを得て、遂に在京党員の役員会を開き、党の態度を決するまでに立ち至つた。
この会議には、会する者僅かに三十人足らず、うたた政党凋落の悲愁を嘆ぜざるを得なかつた。ところが改進党でも少壮派の連中には、私の非解散論に賛成する人々も少なくなかつたので、これらの人々は会議に列する資格はないが、党の興廃に関する重大なる会議であるから、傍聴だけでもさせてもらひたいと申し出で、許されて議場の片隅に顔を並べた。そこで会議が始まると、会長河野敏鎌君は、
「今日来会の諸君並びに推参の方々に告ぐ。」
と前置きして討論に入つたが、この時は、私も河野君も自説をまげず、結局解党非解党いづれとも決定する事が出来ないので、仕方がないから、大隈総理の裁断を仰ぐことになつた。この会議の劈頭に河野議長が使つた「推参の方々」といふ言葉は、かなり反響があつて、当時の流行語の一つになつた。
さて、解党論の代表者として河野敏鎌君、非解党論の代表者として北畠治房君、中立論の代表者として前島密君の三人が、打ち揃つて大隈総理の裁断を仰いで来たと云ふから、報告会を開いて聞くと、三人は銘々に、大隈総理は自分の主張に賛成したと三人三様の報告をなした。その時私は、大隈さんは何といつたか知らないが、人間も段が違ふと、一度に異説の三人とも満足させることが出来るのかと感心した。しかし後から考へれば、これは佐賀県人独特の芸当であつて、曖昧な言葉を巧妙に使つたに過ぎないのであつた。しかし、人物が偉いため不得要領のうちに人を魅する力があつたことは否まれない。
とにかくこんな有り様で、肝腎の党の態度が決まらぬ。我々は業を煮やして、大隈さんの意見を直接承らうと考へ、いよいよ談判に行かうとした時、大隈さんから、
「党の議論がさう別れてゐてはやむを得ないから、大隈、河野、北畠、前島の老人連は脱党しよう。維持したい人は維持したらよからう。」
と脱党の挨拶があつた。確か明治十七年三月頃であつたと思ふ。そこで我々は、改進党に踏みとゞまつて、沼間守一、肥塚竜、中野武営らの諸君と共に頽勢挽回に努めたが、政府の圧迫が奏効して、その目的が達せざるのみならず、益々悲境に陥つた。演説会を開いても聴衆が少なく、新聞は発行紙数が減少し、脱党者は増加するばかりであつた。その以前から、明治協会といふ非政社団体を作つて、政社に対する圧迫を免れようと試みたが、これも余り人が集まらず、失敗に終はつた。実に政党の受難時代であつた。
その頃の支那征伐論
政府の政党撲滅運動と相並んで行はれたものに、言論圧迫があつた。集会條例の改正された翌年、明治十六年四月十六日には、新聞紙條例が改正されて、峻烈な圧迫が新聞紙に加へられた。改正実施後、日ならずして廃刊となつたものも多数あつた。
しかしいつの世でも、圧迫に反抗するものはある。その頃こんなはやり歌があつた。
よしや綻び縫はんずとても、縫ふに縫はれぬ人の口
二十三年そりや大馬鹿よ、善は急げと書いてある
報知新聞も、改進党の機関紙であつたから、反政府軍の中堅と見られて、最も睨まれた。私などは報知の論説記者として、議院政治と政党主義を鼓吹してゐたが、政府の圧迫に憤慨して、努力すれば、する程、圧迫の度が加はり、何でもない事をも、治安妨害に名をかりて発行停止にした。只でさへ苦しいのに、この始末{*1}であるから、日増しに経営は、苦しくなつた。犬養君は秋田改進党創立のため、出羽下りをし、しばらく秋田新聞の記者をやつて居つたが、帰つてからは、報知を去つて朝野新聞に入つた。矢野君も、やがて新聞及び政党を始め、諸般の事相を研究するため、欧州に赴き、箕浦君は、私の推薦で新潟新聞主筆に招かれて行つた。後に残つた藤田君と私は、二人で五人分働かねばならなくなつた。しかも、経営難は増すばかりなのに、改進党解散論などが起こつたから、新聞事業は、益々窮境に陥つた。
私はその頃矢野君の帰朝を一日千秋の思ひで待つてゐたのである。その矢野君は、明治十八年新知識をもたらして帰つて来たが、私の期待は、あへなく裏切られてしまつた。新帰朝の矢野君は、新聞はもつと売れなければならぬと言つて、報知新聞を大衆化するために大改革を行つた。その頃の報知新聞は、「敷紙新聞」と云はれたほど、紙が大きかつたのを小さくし、値段も半額以下に下げ、活字に振り仮名を附けたり、発句を掲げたり、大いに平民的な新聞を拵へた。
これらは今日何処の新聞でも、やつて居り、当然なことになつて居るが、私は不満であつた。私は、議論を以て社会を指導して行かうと云ふ硬派であつたから、矢野君の経営方針に対しても、みだりに読者に媚びて、品位を落としてはならぬなどと云つて、故障を入れたこともあつた。しかし、矢野君は、新知識を実行するつもりであるから、一向頓着しない。自然面白くないので、藤田君がまづ著述に転身し、私もやがて報知新聞をやめることゝなつた。
報知新聞記者時代に、私は上海に行つたことがある。明治十七、八年頃であつたが、支那とフランスとの間に安南事件が起こつて戦争になりさうだと云ふから、私は通信員となつて、まづ上海に赴いた。当時日本に於ける支那崇拝熱と云ふものは、今日の西洋崇拝熱どころの比類ではなかつた。しかも西洋崇拝熱もまたなかなか盛んであつたから、私はこの両者を苦々しく思ひ、仏支相争ふのを幸ひにして、両者の実力を観察して来たいと思つたのである。
しかし支那は、あれだけの大国であるから、とても短日月の間に、単独で、直接に研究することは出来ないに決まつてゐる。これは、出発前に出来るだけ、多年支那に在住し、又は支那内地を旅行したことのある人々や、支那通に面会して知識を養ひ、向かう{*2}に行つても先輩に就いて、種々事情を聴き、その上で、実際に当たつたら、よく分るだらうと考へ、その通り実行して見た。ところが、上海に行くと、僅々一ケ月居るか居らぬ間に、どうもその人達の言ふ事が、多く間違つて居るやうな感じが、起こり始めた。自分は上海に来てから、まだ一ケ月かそこらしか、経たないし、耳目の及ぶところ極めて浅く狭い。三年、五年ないしは七八年も、在留してゐる先輩の言ふ事に、間違ひのある筈はないと、思ひ直して、さらに研究して見るけれども、どうしても自分の観た方が正しい。多年支那を見てゐる先輩の意見は、多く間違つて居るやうな感じがやまない。かくて二ケ月も過ぎる頃には、益々その感じが深くなるばかりであつた。そこで、初めて私は、百聞一見にしかずなどゝ云ふ言葉はあるけれど、国と云ふが如き大きなものを観るには、当てにならぬ肉眼を以てしては、到底観えないものであるといふ事を悟つた。この考へはその後、幾度かの洋行でいよいよ強められた。
さて、上海に行つて見ると、もう支那の軍隊が出動準備で大騒ぎであつた。何しろ七十歳の老将軍の後には、妾連の駕籠が二三台も供をして居るのみならず、兵隊は銘々雨傘を背負つたり、提灯をぶら下げたりして居る。又無数の旗や鼓などを携へ居るなど、その騒ぎは大変なものであつた。賑やかではあるが、私はこれでは戦が出来る筈がないと思つた。
この時は、仏艦より福建省馬尾の造船所を攻撃されただけで、別段大きな戦争にはならずに済んだが、私の素人目に、支那には全く戦闘力がない事が判然と分つたので、私は支那と一戦してその暴慢心を挫く事の必要を感じ、ここに初めて支那征伐論を唱へ出し、それから日清戦争の起こるまで十年間も熱心に主張した。そのため、狂人扱ひされたこともあつた。
戦争見物はこんな事で済んだが、済まないのは、弟行隆の身の上であつた。その頃私は、政治家には優れた秘書役が必要だと考へてゐたので、弟行隆を自分の秘書役に仕立てるつもりで、上海につれて行つた。
その頃は、上海に行けば、東洋の学問も西洋の学問も、日本よりはよく出来る便があつた。弟は、私より頭がよかつたと見え、英語なども忽ち上達した。弟は、私の帰朝後もなほ上海にとゞまつて、知能を磨き秘書役になる頭を拵へてゐたが、肝腎の兄貴は、相変らずの記者生活で、なかなか秘書役を抱へる身分にはなれなかつた。従つて弟は、就職口を得ることが不可能であつた。
校訂者注
1:底本は、「仕末(しまつ)」。
2:底本は、「向ふ」。
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