府会入りで沼間と抗争
報知新聞社では予備役同様の身分となり、遊び半分に社外より手伝つてゐる間に、私は犬養君の薦めで朝野新聞に入つた。
朝野新聞は成島柳北翁の死後、末広重恭君が主宰して居たが、柳北時代ほど盛んには行かなかつたやうだ。しかし記者としては末広君の外に犬養君、町田忠治君、滝本誠一君などが居た上に、私の入社後、新帰朝者の吉田熹六君を迎へ、中々人材揃ひで、さかんに議会政治を鼓吹して気勢を挙げた。評判は大分よくなつたが、反政府軍の急先鋒であつたために、しばしば筆禍を得て発行停止に遭つた。一度発行停止を喰ふと、数千円は飛んでしまふ。それがたびたび重なつたから、経済的には、すこぶる困難になつた。
その頃は、政治文学が流行して居た。ちやうど国会開設前であり、言論圧迫に悩まされて居つたので、文学の上にその鬱憤を晴らした政治家も少なくない。矢野君は、さきに、「経国美談」を著して、名声隆々たるものがあつた。
私もこれにかぶれて、「新日本」と題する政治小説を書いた。この小説の主人公が、やはり紋切り型の才子佳人であつたまでは、無事であつたが、佳人の対話たるや、徹頭徹尾憂国慨世的であつたからたまらない。犬養君に、「あの婦人は何だ。男としか思へぬ。」と冷やかされた事がある。大体私は、態度相当堅苦しい文章ばかり書いてゐたので、犬養君の悪口も当たり前であらう。柄にもないことに憂き身をやつしたものである。
朝野新聞には明治廿一年、保安条例によつて江戸払ひになるまで働いてゐた。
明治十八年の何月であつたか忘れたが、私は日本橋区から選出されて、東京府会議員になつた。東京府会は、明治十二年に開けたが、議員の年齢資格は満廿五歳であつたから、私は廿五歳になると、すぐ議員になつた。
その頃の府会には、名士も少なくなかつた。府会議長は福地源一郎君であつたが、同君が疑獄事件で失脚した後は、沼間守一君がこれに代つた。この人は、旧幕府の歩兵隊長で、明治戊辰の役には、伝習歩兵を率ゐて日光今市の戦ひに於いて、板垣退助君の官軍を苦しめた快男児で、その働きに感心した板垣さんが、後に沼間君を土佐に聘して、洋式教練を頼んだと云ふから、板垣さんも偉かつたが、沼間君も、よほどの人物であつた。
しかし、なかなか癖の多い人で、ことに一身一家の経済に付いては、一種風変りの行ひをもした。悪く云へば、吝嗇でもあつた。府会のやすい弁当の喰ひ残しを持つて帰つたり、当時の政治家中では屈指の金持ちでありながら、抱へ車を持たず、いつも飛び乗りであつた。それも並んでゐる車を一瞥して、中から一番汚い車で、年のいつた弱さうな車夫を撰んで、やすく乗るのを自慢にして居つた。
又その頃は物価も大変やすいから、新橋や柳橋で宴会を開いても、会費は三円とはかゝらなかつた。それを沼間君にやらせると、芸者付き一円か一円五十銭でやる。何か秘訣でもあるのかと思ふと、沼間君は芸者街を散歩しながら、ひまさうな芸者を探して、
「どうだ、来んか。遊んで居るのなら、たゞでも良いではないか。」
と云ふやうに談判して来るのださうだ。沼間君は、金はあるし、顔は広く売れてゐたから、そんな事も出来たのだらうが、他人には到底出来ない芸当だ。
沼間君に付いては、沢山面白い話があるが、私も実験した。それは、私が府会へ入る前の事であるが、私は改進党のため、沼間君と茨城県へ遊説に行つたことがある。ある寺に泊まつた晩のこと、夜半過ぎと覚しきころ、沼間君が私の寝床へ侵入して来た。その頃は、維新後まだ多く年所を経ないので、男色の陋習なども未だ残つて居つた時分であるから、私は邪推して、沼間君は私を侮辱しに来たのであらうと思つた。そこで私は、
「何だ。」
といつて拳骨でつき退けたが、沼間君は只ウーンと軽くうめきながら、並んでゐた自分の寝床に、ころげて行つたやうであつた。翌朝私は、
「君は無礼な事をする。」
と面責したところ、沼間君は、
「さうか、どうも申し訳がない。」
と陳謝しながら、
「昨夜は君のところばかりでなく、屋外へも出たやうだ。自分は何も知らないが、寝衣が泥だらけになつてゐるのを見ると、縁側から転げ落ちもしたに違ひない。」
と云ひつゝ、泥土の附着した着物を見せた。沼間君は一種の夢遊病者であつたらしい。
さて、沼間君は明治十二年十月以来、府会に席を占めて居り、私の入つた頃は、古株ではあるし、自派の議員が多数を占めてゐたので、府会では大層幅を利かして居つた。犬養、鳩山などの諸君も、その頃は沼間君と行動を共にしてゐたほどであるから、沼間君はずいぶん我が儘な振舞ひをなし、郡部の議員などをば、ひどくいぢめて居た。
ところが、新参の私が出ると、色々の理屈を並べて、沼間派の言ふことをきかない。沼間君は、それに業を煮やして居たところ、府会議員の半数改選後、郡部その他沼間反対の議員達が、自分らの仲間からも常置委員を選出すると同時に、私をも常置委員に選挙した。もちろん私を担いで、反沼間派の大将にするつもりであつたらう。そこで沼間君らは怒つて、私を常置委員から排斥すべく作戦計画をめぐらした。
臆病が教へた戦術
東京府会を我が物顔に切り廻してゐた沼間守一君は、反対派のために常置委員に推された私及びその他の異分子が二三名当選したのを憤り、犬養君その他同志者全部を率ゐて辞職した。その意中は、府会の有力なる常置委員が、全部辞職すれば、私その他の反対者も、やむを得ず辞職するだらうと云ふにあつた。
しかるに、私は一人でも常置委員の仕事は引き受けると傲語{*1}して辞職しなかつた。又河野敏鎌君も、
「これまで府会で一緒に働いてゐながら、常置委員会で一緒になるのは嫌だと云ふのは、筋が立たない。」
と云つてやめなかつた。この人は、改進党の元老で沼間君の先輩であつたから、沼間君の計画は、一頓挫を来たした。しかし沼間一派は、どうかかうか河野君を動かして、遂に辞職させたが、私はなほ頑張つて辞めなかつた。
こんな風で、私はずいぶんいぢめられたが、いぢめられゝば、又それだけ反抗もした。ある時、郡部は地方費の負担額が少ないため、郡部議員が口ぎたなく罵られるのを見かねて、私は癪にさはつてたまらないから、郡部の肩を持つて、沼間君に反対した。すると沼間君は怒つて、ひどいことを云ふ。甚だしきに至つては、私の議席番号を指して、
「何番は自分の借金の計算も出来ない癖に、地方税などにくちばしを容れるのは不都合だ。」
などゝ悪罵した。そこで私は益々反抗して、事毎に突つ掛かつた。
しかし、沼間君にさう云はれたのも、無理はない。その頃私の家庭生活は、実に貧困を極めてをつた。私の収入は、朝野新聞から得る僅かの月給に過ぎなかつたが、それで妻子を養ひ、書生を二、三人も置いてゐた上に、私は家を顧みず政治に奔走して居たから、私の妻などはずいぶん辛い思ひをしたやうだ。
ある時は、除夜を守つて夜更かしをすると、ランプ{*2}の石油がなくなり、書物を売つて石油を買つたこともあつた。群れ来る債鬼を逐ひ払つて、漸く新年を迎へ、
「いのちにはまづ別條もなかりけり」
と鼻歌をうたひながら、家人と共に屠蘇を傾けたこともあつた。
ことに明治廿年の元旦であつたかと思ふが、妻や弟や書生らが、カルタを取りたいと云ふ。カルタがない。買ひにやれと命じたが、その金がなかつた。僅か五十銭か一円であらうが、その金がなかつた。私はその時ほど、些細の事で、強い哀愁を感じた事はない。長いこと貧乏には慣れてゐたから、金がなくとも、平常は余り苦にはしなかつたが、この時はどういふわけか、非常な苦痛を覚えた。前に石油を買ふ銭がなかつた時などは、
「剣を売つて書を買ふは昔年の事。書を売つて今は買ふ読書灯。」
などゝ口吟して空嘯いてゐたが、この時は、なぜか、さうは行かなかつた。不思議な事もあるものだ。
それはとにかく、私はいぢめられゝば、いぢめられるほど、反抗するから、沼間君もすこぶる憤激したやうだ。
これより先、沼間君は、酒を飲みすぎて脳病にかゝり、府会にも常に頭に氷嚢をのせて出る程であつたから、怒ると頭が悪くなる。その時、私は忿懣の余り考へた。
「一週間も怒らせつゞけに怒らせたら、沼間君は発狂するだらう。よしよし彼を癲狂院に入れてやらう。」
と。そこで私は機会ある毎に、沼間君を怒らせるやうな議論をした。しかし、右の決心をしてから、三回とは府会が開かれない内に、私は保安條例で退去を命ぜられたので、沼間君も狂人にならず、私も無益な罪業を作らず、双方無事に済んだのは、全く保安條例の賜ものである。
府会に於ける私と沼間君の関係は、こんな風であつたが、その他の関係は必ずしも悪い方ではなかつた。彼は他人に対しては、常に私を褒めてゐたさうだ。
ちやうどその頃、私が後藤象二郎伯を戴いて、條約改正に反対した時、示威運動の目的で、民間各派の連合大懇親会を、浅草の井生村楼に開いた事がある。日頃軋轢争闘して居た連中を一堂に集めるのだから、会を永びかせては危険と考へ、私達は、膳がすはり、酒が少し廻ると散会を促し、後藤伯らと共に会場を引き揚げた。ところが、沼間君一派と星君らは、容易に引き揚げなかつたものと見える。沼間君は、後進有為の士として、星君を認めては居たが、昔はその身分が低かつたため、星君の事をいつも、
「大森の百姓」
と呼んでゐたさうだ。この時もその癖が出て、星君に向かつて、
「百姓酌をせよ。」
といふや否や、かねて不満を抱いて居つた星君は、
「なに、無礼者、後は俺が引き受けるから殴り殺せ。」
と、その部下に号令したさうだ。壮士の面々は、得たり賢しと、真鍮の蝋燭台(その頃はまだ瓦斯灯も行き渡つてゐなかつた)を逆さに振り挙げ、散々に殴打した。殺しはしなかつたが、半死半生の状態にした。
無事に済んだ事と思つてゐた私は、翌朝この報告に接して、忿懣にたへなかつた。この大計画が、その門出に於いて、早くも破綻したのは、残念である。
そこで私は、早速橋場の沼間邸に見舞ひかたがた苦情を述べに行つた。沼間君は非常に苦しさうであつたが、寝ながら私に面会した。私は、ひと通り見舞ひを述べた後、
「誠にお気の毒ではあるが、今日はかねての計画通り、各派連合の大演説会を開くことになつてゐるから、戸板に乗つてゞも、出て戴きたい。」
と云つた。周囲の者はもちろん、
「尾崎は無情な男だ。」
と怒つたが、沼間君はさすがに偉い。
「尾崎君のいふ事はもつともだ。死んでも出る。」
と答へた。しかし、出席することは出来なかつたのみならず、その後遠からずして沼間君は死去された。
私は生来の臆病者だから、時々可笑しな失策をする。ことに右の大懇親会を開いた頃は、私は自由党の憎まれ者であつたため、絶えず警戒して居た。この日も無事に済めばよいがと心配しつゝ、立つて柱に倚りかゝりながら、大広間に入り来る各派の人物を眺めてゐると、向かう{*3}から大男が、私を睨みながらまつすぐに進んで来る。此奴何をするつもりかと怪しんでゐると、私の前へ来るや、イキナリ猿臂を伸ばして、私の頭に触れんとした。私は間髪を入れず、その男の親指を握つたところ、彼は詫びながら頭を下げた。私は小兵でかつ微力だから、腕を押さへたのではかなはない。故にいつとはなく、イザと云ふ場合には、相手の指を捕らへる術を覚えた{*4}。親指を握れば、大概の男は、自由になる。然るにこの男は、私の後に貼つてある名札が、私の頭で隠されて見えなかつたため、自分の席ではあるまいかと思つて、見に来ただけで、何もいたづらしに来たのではなかつた。たゞ私が臆病なため、私の耳でも引つ張つて、侮辱を加へる目的かと邪推し、先手を打つて、その指を緊握したのである。私は臆病ゆゑに、時々こんな失策をする。

校訂者注
1:底本は、「傲語(がうご)」。
2:底本は、「ラムプ」。
3:底本は、「向ふ」。
4:底本は、「覚(おぼ)へた」。
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