第五章 外遊とその前後
條約改正問題
政党は弾圧に萎縮し、新聞は箝口され、私は改進党の残塁を固守して、苦闘を続けてゐたが、政界は、かねて政府の企んでゐた通り、火の消えたやうになつた。
しかしそれも永くは続かなかつた。明治十九年の半ば頃になると、目睫に迫つた議会開設を前に、小異を捨てゝ大同に就くべしとの議が起こり、同年十月まづ浅草井生村楼に、全国有志大懇親会が開かれた。改進党からも自由党からも出席し、こゝでいよいよ提携して、この悲境を打開することになつた。
その頃、突如として降つて湧いたのが、條約改正問題であつた。突如と云ふけれども、これは明治五年安政條約満了以来の国家的宿題であつた。もし対等條約が結ばれるのなら、別に問題は起こらなかつたのだが、悲しいかな、当時の我が国状では、それが出来ない。
そこで時の政府は、欧化政策をとつて、少しでも早く條約改正を行ひたいとあせつて、舞踏会を開いたり、内外人の交際を奨励したり、甚だしきに至つては、日本を耶蘇教国になさうと主張する者さへあつた。故に心ある国民からは、欧化の極、かへつて国辱的條約を結ぶと見なされ、反対の気運が大いに起こつた。欧化の思潮は、明治二十年の春に入つて、いよいよ甚だしくなつて、首相官邸、外相官邸は、宴楽の巷と化し、国事を挙げて、声色の間に溺没するかに見られた。
ことに二十年四月二十日の伊藤首相官邸に於ける仮装舞踏会の如きは、会するもの、内外朝野の貴顕紳士及び貴夫人合はせて四百名といはれ、その狂態言語に絶すると云ふ評判であつた。
当時の新聞は、その有り様をかう書いて居る。
そのいでたちは千差万別、いづれも他の意想外に出で、一驚を喫せしめ、かつ喝采を博せんと、工夫{*1}を凝らしたることなれば……其が中について「天莫空勾践時非時無范蠡{*2}」との十字を、背旗に墨黒々と筆太に記したるを背負ひ、鎧上に蓑を着け冠り笠にて、備後三郎にいでたてるは、これなん三島警視総監にして、腰蓑に潮汲み桶を荷ひて、松風村雨に擬したるは、同氏の令嬢と聞こえし{*3}。……頭巾鈴掛金剛杖を突き鳴らし、安宅の弁慶かと見紛ふ山伏は、これぞ渋沢栄一氏にして、同氏の令嬢は胡蝶の舞に扮し、最も美麗なりき……又夜討曽我の十郎祐成は、鍋島桂次郎氏にて、五郎時致は、末松謙澄氏の一対、同じ一対なる素袍烏帽子の三河万歳は、井上外務大臣にて、才蔵は杉内蔵頭なり……大山陸軍大臣は、チヨン髷にて、大小を腰に横たへたり。古き唐服を着て吉備大臣かと思しきは、山田司法大臣にして、行脚飄然たる富士見西行は、渡辺帝国大学総長とぞ聞こえし……山県内務大臣は、その昔一隊を引率して、幕軍を諸処に駆け悩ましたる騎兵隊長のいでたちにて、日本服の筒袖に韮山笠を冠り、両刀を横たへ、かつて同氏が馬関にて、変名したる長藩萩原慶之助源有朋の十字を白木綿に記して、肩印となし……伊藤総理大臣は、伊太利ベニスの貴族に擬し、同令嬢は、同国田舎娘に、岩倉具綱氏は、その長男に扮してこれ又一対なりき……松方大蔵大臣は烏帽子直垂を着して、その令嬢は、稚児の姿に扮し、七條の袈裟を着け、門跡もどきなる真宗の僧侶のいでたちは、これなん高木海軍々医総監にして、多久某の蝦夷人と、加賀美令室の前髪を分けたる扇屋の桂子ともいふべき風姿は、これまた二つながら喝采を博し……舞踏を畢はり、全く退散したるは、昨廿一日午前四時の頃なりと。さてもさても大平無事の世の中、実に面白の御遊かな(時事新報四月廿二日)
こんな有り様だから、大臣貴女等に関する醜聞続出し、国民の痛憤を買つて居た。
そのうちに、政府部内も、この狂態に顰蹙し、同時に井上外務大臣の屈辱的條約改正案に反対する者が出て来た。即ち農商務大臣谷干城子は、欧米視察から帰朝すると、この始末に憤慨し、痛烈な意見書を残して、大臣をやめてしまつた。これが明治二十年の七月で、勝安房伯も、建白(五月)するし、板垣退助伯も、八月には意見書を提出して、国辱的條約改正に反対した。そればかりではない。司法省顧問ボアソナード氏さへ、建言書を出して、忠告した。
かうして、改正案の内容が、漸次民間に漏れて来るに従ひ、頑固連は、無論のこと、吾々の如き進歩主義者まで、盛んにこれに反対するに至つた。
国論の沸騰は、実に物凄く、秘密出版は盛んに行はれ、谷、板垣、勝の意見書、ボアソナードの建言書、憲法草案と題する文書などが、秘かに印行されて、到るところに流布し、国士にしてこれを持たぬ者は、一人もないといふ有り様になつた。この今なら怪文書とも云ふべき文書の横行に、政府が狼狽して、盛んに密偵を放つたのは、もとよりのことであつた。
しかし政党不振の時であつたから、よし大同団結の気運が、興つてゐたとは云へ、政党としての反対力は、なほ薄弱を免れなかつた。
改進党では、私がほとんど単独で、反対運動にたち、それに沼間君の一派が、少しく私と一緒に働いたくらゐであつて、吾々は十分に戦へなかつた。私はこれでは、とても成功の見込みはないと思つたから、誰か中心人物を拵へて、打倒政府の戦線を統一せねばならぬと、色々人物を物色して見た。幸ひ、当時後藤象二郎伯が、負嵎の虎の如き状態で、遊んで居つたから、私は末広重恭君と共に、この人に白羽の矢を立てゝ交渉することにした。
後藤伯を担ぐ
後藤象二郎伯は、北陸旅行中であつたので、その帰るのを待つて交渉すると、伯はすこぶる乗り気になつて、
「さう云ふ事なら、自分も老後の思ひ出に、全力を尽くして諸君と共にやらう。」
と早速承知してくれたのみならず、私と末広重恭君とが、一致した意見のためなら、水火の中へでも飛び込む。決していやとは云はないといふことまでも誓つた。先輩から、こんな壮快な言葉を聞いたのは、私にとつては初め{*4}ての事であつたから、真剣になつて種々計画を樹てると、後藤伯はすべて承知してくれた。私は、それまでは、いつも先輩の指揮に従つて、働いてゐたのだから、こんな愉快な事はなかつた。その中、大石君が、英国から帰つたから、これをも仲間に入れ、三人で万事画策した。
吾々三人の外に、有名な土佐の吉田東洋先生の子か孫に当たるところの吉田正春といふ才物があつた。後藤伯は、氏を吾々に紹介して、
「これは自分の親戚の者であつて、秘書同様に使つてゐるから、諸君の仲間に入れて、すべての謀議に参与させてもらひたい。」
といふ事であつた。その頃後藤邸に出入りするものは、林有造君、星亨君らを初め{*5}として、かなり多かつたが、後藤伯は、すべて吾々三人――おとなしく常に緘黙を守つてゐた吉田正春君を加へれば四人――の意見に従つて、進退する約束であつた。
かくて、十月三日には、まづ芝の三縁亭に七十余名の在野政客を集めて、後藤伯がかどでの大獅子吼をした。
運動は、右の通り順調に進んだが、その頃後藤伯は、ずいぶん嘘吐きだと云ふ評判があつたから、私は考へた。世評通りで、イザと云ふ場合になつて、背負ひ投げを喰はされては困る。ついては、まづ後藤伯の覚悟の程を試験して置いた方が、安全だと。そこで、板垣伯の封事を思ひ出して、ある時、後藤伯に向かひ、
「この條約改正問題は、実に重大事件であるから、貴下は参内して、吾々国民の意見を、親しく奏上されたら宜しからう。」
と勧めて見た。すると後藤伯は、「よからう。」と言つて、承知したので、俄かに礼装用手袋を買ひ求めたり、古い礼帽を取り出したり、大騒ぎをして、仕度を整へて、伯を送り出した。それは、確か明治廿年十二月二日であつたと思ふ。後藤伯は、宮内省に行つて拝謁の執奏方を乞うた{*6}が、許されなかつた。土方宮相に拒絶されて、空しく帰つて来た。そこで吾々は、又伯に向かつて、
「維新の元勲とも云はれる者が、許されぬと云つて、そのまゝ引つ込む訳には行くまい。許されるまで、幾度でも御出なさい。」
と云ふと、伯は、
「しからば、又出掛けよう。」
とその後再び宮内省に往つたが、今度も拒絶されたのは、云ふまでもない、結局、上奏文一篇を、宮相を通じてたてまつる事にして、この問題は終はつたが、吾々は伯の意気込みを知つて、これなら、先の約束を反古にするやうな事もあるまいといふ確信を得た。
伯の決意は、これで判つたが、吾々の運動の目的貫徹となると、容易にうまい考へが浮かばない。條約改正の談判は、歩調を速めて進行するらしい。どうしたものかと、思案にくれてゐると、ある日、一人の少年が、私を訪ねて来た。会つて話して見ると、見すぼらしい身なりに似ず、なかなかしつかりしてゐる。名前を聞くと、青森の人斎藤新一郎、早稲田専門学校の学生だと答へた。別に紹介状を持つて来たのではなかつたが、私は一見して、たちまち旧知の如き交はりを結び、さらにこの人の手引きで、弘前の桜庭経緯、秋田の引田長輔などといふ有為果断の青年と懇意になつた。そしてこの人達の働きによつて、私の條約改正反対運動は、目立つて見えるやうになつた。
私が「壮士」といふ言葉を用ゐ{*7}始めたのも、この頃であつた。「有志家」といふ言葉も初めの頃は、受けがよかつたが、しばらくすると、どうも勢ひがなくなつたので、私は「壮士」という言葉に改めた。すると口のわるい犬養君などは、我々の仲間に斎藤君のやうな、やせた人が居つたので、
「なに壮士だと{*8}。痩士と書いた方がよい。」
と笑つたが、壮士といふ言葉のためそれから不思議に、意気があがつて来た。
そこへ又土佐の豪傑林有造氏が、我々の決心を聞いて、決死の士三百人を出すと、後藤伯まで申し出た。
これに勢ひを得た吾々は、種々考へた揚句、後藤伯が内閣弾劾奏上に失敗したのは、後押しがすくないためだ。全国各地から、およそ三千の有志を呼び集め、これを引き連れて、二重橋に至り、後藤伯が、その代表者となつて、拝謁を願つたら、宮内省でも、拒絶はすまいと言ふことに衆議一決し、早速その準備に取りかゝつた。しかし、いざ実行して見ると、予定した日になつても、思つた通りには人数が集まらない。理屈に於いてはひけをとらない吾々も、かういふ事務的な仕事は、すこぶる不得手であつた。交通機関の不便な当時に於いては、無理もない事であつた。とにかく、早く来過ぎたり、遅れたりする者があつて、行き違ひになるから、ずいぶん人は出て来たが、一時に地方の有志を千人揃へる事すら、困難であつた。先着で滞京して居た者は、旅費が尽きて困窮を訴へるから、後藤伯に相談して見たが、当時の後藤伯は、猛犬を飼つて置いて、債鬼を撃退すると云ふ評判すらあつた程だから、どうすることも出来なかつた。
これより先、後藤伯は、新時代の政治家は、金が自由にならねば、本当の仕事は、出来ないと考へたものか、早く明治政府を退いて新橋附近に、蓬莱社という商社を設けて、盛んに貿易に従事し、同時に石炭山の経営をも始めた。しかし士族の商法で、皆失敗し、かへつて借金は山の如く、どうにもならなくなつて、商売の方は、断念し、再び政界に復帰した際である。されば金銭の融通は、なかなか出来ない。吾々は、何百の有志家を抱へて、全く途方に暮れてしまつた。
校訂者注
1:底本は、「工風(くふう)」。
2:底本には返り点が付されている。『太平記』巻四「備後三郎高徳事付呉越軍事」に見える詩句。
3:底本は、「聞(きこ)へし」。
4・5:底本は、「始(はじ)め」。
6:底本は、「乞ふた」。
7:底本は、「用ひ」。
8:底本は、「なに壮士だと、」。
コメント