戯言から帝都追放
全国各地から集まつて来た数百の有志家をば、何とか始末{*1}せねばならぬし、政府はいよいよ條約改正を断行しさうに見える。
切羽つまつて{*2}明治二十年の暮も押しつまつたある夜、芝高輪の後藤伯邸の奥座敷で、相談会を開いた。種々に善後策を協議したが、あせれば、あせる程、いゝ智恵が出ない。酒を飲みながら、無駄話をしてゐる間に、夜は次第に更け、酔ひも廻つて来た。そこで私は戯れに、
「諸君に名案がなければ、私には一案がある。東京を火の海にしたら、どうか。三、四十人も手を分け、各所に石油缶でも積んで置いて、火をつければ、風のひどく吹く夜なら、大火事になる。さうすると、各大臣は参内する。それを殺したければ、殺すもよいし、軍用金が欲しい者は、大蔵省の金庫を襲うて{*3}取るもよからう。」
と云つた。一座の面々皆哄笑して、
「それは面白からう。」
などと調子を合はせて、さらに大酌満飲して、かれこれ、十二時頃散会した。
それから二日目、十二月廿六日の朝、私は、東京府会常置委員会に出席するため、東京府庁に往くと、委員某が官報号外を持つて来て見せた。それを読むと、保安條例と云ふ変な條例が出来たのである。平居無事の今日、こんなものを拵へ、どうするつもりだらうと笑ひ乍ら語り合ひ、常置委員会を終はつて、平常の通り、朝野新聞社に行つた。途中丸の内一帯に、細い棒を建て、針金の線を張つてゐたが、軍用電線の架設とは、気が付かなかつた。その晩は、柳橋某旗亭の宴会に出て、快談痛飲、駿河台の宅へ帰つたのは、夜の十二時頃であつた。私は、車上に座眠をして居つたが、急に車が停まつて、同時に、
「待て。」
と云ふ声に、ビツクリ、眼が覚めて見ると、自宅の門前で、黒衣の人が、車を抑へて居た。酔眼にも、それが巡査と分つた。巡査は、私の姓名を問ひ、懐中から何か書き付けを出して、私に渡した。
折から十二月の月は、西に落ちて暗く、薄暗い門灯の光で、僅かに小川町警察署の六字を弁ずるのみであつた。車を降り玄関まで往つて、読んで見ると、即刻警察署へ出頭せよと書いてあつた。自分はそれまで、常に罪人となるやうな隠険詭激の手段は避けて居たから、別段心配はなかつたが、只その頃のこと故、私を困らせるために、何十日の間も、謂れなく牢へ打ち込むかもしれない。結局無罪放免になるにしても、その間この弱い身体では、どうしようと、心配しながら、警察署へ行つた。
深夜の署内は、騒然として居た。行くと、すぐ私は訊問所のやうなところへ通された。召喚理由を聞かうとすると、署長は机上の書き付けを取つて私に渡した。見ると、
「保安條例第四條により、来たる三十一日午後三時を期し、三年間皇城をさる三里以外の地へ退去を命ず。」
とある。今朝読んだ官報号外が、適用されたのだ。種々聞きたい事があつたが、問答無用と云ふので、退去状を懐にして帰つた。心配して居つた牢に入れられなかつたのは、何よりの喜びであつた。しかし、退去命令には、びつくりしたから、私はこの時学堂と云ふ雅号を愕堂と改めた。咢堂となつたのは、老来心力の衰へを悟つてから、その[心]{*4}を取つたのである。
それはとにかく、帰途図らずも心に浮かんだのは、
「これは、広い世界へ出て行けと云ふ天の命令である。」
と云ふ事であつた。東京に居らなくては、何をするにも不便だから、この機会に乗じて、久しい間希望して居つた西洋漫遊を実現しようと考へた。しかし、私は金がなかつた。子を見ること親に如かずと云ふが、私の父が伊勢にゐた頃、門野幾之進君の父君に、
「行雄は一生貧乏するでせう。」
と云つたさうだが、全くその通りで、何しろ犬養君にも、
「尾崎は、金を作らうとしても、先天的に出来る人間ではない。」
と太鼓判を押されてゐた私である。洋行費などの出来る筈はない。折角の名案も、はたと行き詰まつた。そこで、朝吹君に相談する外はないと思つたが、何分深夜の事ではあるし、その時はそのまゝ帰宅して、翌日早速朝吹君に相談した。
朝吹君にはそれまでも、私は金と云ふ問題に無頓着であり、又金を才覚する智恵も持たなかつたから、借金の整理とか、高利貸しの撃退とか、この種の関係で、なかなか負ふところが多かつた。もつともその頃は、朝吹君も不遇の時であつたから、充分私を助ける事が、出来ない場合も多く、そんな時は共に泣き、共に心配してくれたのだつた。
さて、私が仔細を話し、洋行の相談をすると、朝吹君は、逆境に在つたにも拘はらず、
「それがよからう。」
と答へてくれた。そこで自分はもう洋行するつもりで、早速準備にとりかゝり、上海に居る弟行隆にも、帰国するやうに手配した。
この保安條例が出ると、全部の警察官は、相率ゐて廿六日夜あまねく政客の寓に赴き、召喚状を示して警察署に連れ行き、條例に照らして、妻子眷属ある者は三日間、独身者は二十四時間の猶予を以て帝都退去を命じたが、その数無慮六百人に上つた。しかも有志家の蜂起反抗を恐れ、陸軍病院は医官を招集し、警部憲兵は各省及び大臣官邸、砲兵工廠、火薬庫等を警備して、帝都を戒厳状態の下に置き、有志家ひとたび皇城をさる三里以外に出れば、その管轄地の警吏に引き渡し、必ずその住居に伴なふなど、法の酷辣なる、また警の厳密なる、只々驚くばかりであつた。片岡健吉君などは、退去を命ぜられても、何が何やら分らなかつたから、憤然として退去理由を示せと云つて、命に応じなかつたので、遂にその同志と共に投獄された。
私は、なぜこんな非常事件が突発したかを怪しんだが、何ぞ図らん、後藤伯邸に於ける私の酔余の戯談が、この大騒動の本源ならんとは。
床下にあつた政府の密偵の報告によつて、政府が狼狽して、この暴挙に出でたのだと聞いては、唖然たらざるを得なかつた。馬鹿げた戯言は、吐くものでないと後悔した。
しかし條約改正は、保安條例の発布と共に、中止せられ、国家の体面を全くすることが出来た。
「保安條例」悲喜劇
保安條例が余りに突然であつたため、行ふ方でもずいぶん狼狽したものと見え、笑ふに堪へたる悲喜劇も少なくなかつた。ことに土佐の決死隊三百人の風声に驚いた政府は、高知県人とさへ云へば、見境もなく退去を命じた。後藤伯の親戚で十四歳の少年が、東京留学のため、保安條例発布の数日前、上京したが、高知県人たるの故を以て退去を命ぜられた。又薩摩節を売らずして土佐節を売つて居たため、退去を命ぜられた鰹節商もあつた。甚だしいのは、高知県人なら丁稚や三助までその厄を被つたと云ふ。中には、学生で突然退去を命ぜられ、旅費に困つてその工面に奔走してゐる間に、猶予期間が切れて、禁錮の刑に処せられた者もあつた。
さうかと思ふと、可笑しいのは、私と共に後藤伯の帷幄に参し、條約改正反対運動の主力となつてゐたところの大石、末広、吉田の諸君は、私と同じ運命に遭遇しなければならぬ筈であるのに、三人ともこれを免れた。吉田君は、何のために免れたのか知らないが、大石、末広の二君は、かねてより伊藤首相に知られてゐたので、伊藤伯が、退去者名簿を見て、
「これらは大丈夫だ。放火などする奴ではない。」
と云つて、その名を削除したのださうだ。私だけは、火付けをもなしかねまじき人間と見られて居たものと思はれる。
さて、思ひがけなく、東京退去を命ぜられた私は、とにかく三日の猶予を利用して、その間に友人知己に暇乞ひをしようと思ひ、廿七日午後には、朝野新聞社に往つて残務を処理し、
「小生儀来たる三十一日限り江戸払ひ仰せ付けられ候ふについては歳暮年頭拝趨の礼を欠く」
云々の広告文を新聞各社に掲載方を依頼した。「江戸払」の三字は、すこぶる好評を博した。
私が退去命令を受けてからは、絶えず巡査が二名附随して居たので、後藤伯のところへ暇乞ひに行つた時、伯に向かつて、
「私も今度は大臣並みに巡査が附いて居ます。これで馬車に乗れば、純然たる大臣だが、どうも人力車では幅がきかない。」
と云ふと、伯は笑つて、
「それは面白い。俺の馬車を貸してやるから、大臣格で市中を乗り廻したらよからう。」
といつて、馬車を貸してくれた。その上、私の貧乏を知つて居た伯は、
「金銭上の必要もあらば、遠慮なく告げられよ。」
と言はれたが、私も伯の貧乏を知つて居たから、一切その援助を求めなかつた。さうすると、伯は
「緩急相たすくるは、同志の義である。打ち明けて相談されないのは、かへつて不愉快に感ずる。」
とまで言はれた。私は伯が、先には、
「水火をも辞せず。」
といはれ、今度は右の言葉を発せられたのに対し、実に嬉しく思つた。
かくて帰りには、伯の馬車に乗つて意気揚々と疾駆した。すると、尾行の巡査が乗つてゐた人力車の車夫が、たちまち弱つてしまつた。よつて巡査を御者の側に乗せて、各所に友人を訪ねた。街頭では、通行人が、護衛附きと見て誰か偉い人であらうと思つたが、敬礼をした者もある。大隈邸では、私のすぐ後に訪ねて来た末広鉄腸君が、
「門前の馬車と巡査を見て、大臣が来てゐるとばかり思ひ込んで居つた。」
と大笑ひをした。いづれは自分も大臣になるつもりであつたが、この三日間の大臣遊びは、すこぶる愉快であつた。
三日の猶予期間は、瞬く間に過ぎて、三十一日となり、私はいよいよ東京を去らねばならなくなつた。そこで木挽町の宅に、朝吹君を訪うて暇乞ひをした。ちやうど昼頃であつたので、昼食を共にしたが、その時分の朝吹家は、質素であつたから、私には前途を祝する意味で、特にお頭附きの鯛を出したけれど、主人のお膳には、それがついてゐなかつた。
午後二時半には、家族に別れ、新橋から箱根に行つて、塔の沢の福住楼に宿泊した。門野君も年末休暇で来て居つたので、そこで十日ほど一緒に暮らした。
久しく多忙に慣らされて居つた私にとつて、箱根の新年はすこぶる退屈であつた。もちろん多年希望して居た外遊の計画、既に胸中に熟し、前途洋々{*5}、春海の如き胸懐ではあつたが、それでも多少の哀愁は免れなかつたものと見え、眠られざるまゝに、こんな詩を作つた。
空起巴山羇客情 閑窓夜半夢頻驚
尋常一様寒渓水 偏向愁人作雨情
事件勃発以来尾行してゐた巡査も、退屈さうであつたから、私達と一緒にカルタなどを取らせた。終には大層親しくなつて、私を愕堂先生と呼ぶやうになつた。これらの巡査から、種々打ち明け話を聞いたが、二十六日夜半、私に呼び出し状を渡した時には上官から、
「尾崎は抵抗するかもしれない。抵抗したらすぐ斬つてしまへ。」
と云ふ命令を受けて居つたので、サアベルの柄に手をかけて居たと云ふ事である。その時私が酔余いたづらをして、サアベルの下に斃れなかつたのは、幸福であつたと云はねばならぬ。それにしても、政府の狼狽振りが思ひやられる。


校訂者注
1:底本は、「仕末(しまつ)」。
2:底本は、「切迫(せつぱ)つまつて」。
3:底本は、「襲(おそ)ふて」。
4:底本は、[りっしんべん]。テキストがなく、[心]とした。
5:底本は、「前途洋々春、海の如き胸懐」。
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