弟を連れて外遊

 洋行の準備が整つて、明治二十一年一月十日私は横浜に移り、弁天通り西村新七方に投宿した。一日知友数名と市中を散策すると、路傍の人々は巡査が尾行してゐるものだから、我々の間に退去人ありと気が付いて、犯人を物色する様子であつたが、誰一人私を指す者はなく、皆友人の誰彼を指した。私には逐客の風貌がないのかと苦笑した。
 薩長一派は、保安條例によつて、藩閥打倒の大同団結阻止を企てたが、時勢の遂に抗すべからざるを知つて、早くも転身の計をめぐらし、大隈伯と妥協して、新内閣組織に着手して居つたやうだ。大隈伯ご夫婦は、一月廿六日横浜の富貴楼に来て、私のために送別会を開いてくれた。矢野、藤田、牟田口、犬養、朝吹等の諸君も、わざわざ東京から来会した。この時、大隈伯は、私を別室へ呼んで、
「近い中に内閣が変り、黒田が総理になり、自分も入閣する筈だ。まだしばらくは秘密だが、君は洋行するから知らして置く。」
と話された。私達が條約改正に反対して、遂に退去を命ぜられるに至つたのは、元来国家の体面を重んずるがためであつて、あながち伊藤内閣を打倒するためではなかつた。しかしその附随の結果として、現内閣が倒れて、政治的恩師たる大隈伯が、入閣するやうになれば、私は図らずも、猟犬の役目を勤めた事になるから、心中ひそかに嬉しく、かつ満足に思つた。
 この日朝吹君は、私の大切な洋行費を持つて来てくれた。無雑作に新聞紙に包んであつたが、包みが大きくて袂にも入らないから、私はそのまゝこれを座敷の隅に置いた。そして宴果てると陶然とした私は、一歩先に辞して、玄関まで来ると、富貴楼のおかみさんが、息を切らして追ひかけて来て、
「アナタ、これを忘れて、どうなさるのです。」
と云ひながら、私の背中を叩いたので、振り返つて見ると、例の新聞紙包みを鼻先に突き付けた。先に洋行費の調達方を頼んだ時、朝吹君が一諾してくれたため、安心し切つて居つた私は、この期に及んで、つい不覚をとつた。婆さんは、多分大隈夫人の小言を取り次いだのであつたらう。
 その翌日は、矢張り私同様、退去を命ぜられて横浜に来て居つた星君ら一味の自由党の人々から、伊藤仁太郎君を介して、私のために、送別会を開きたいがどうかと言つて来た。
 自由党は、以前は主義に於いて敵であつたが、私交関係は別である。私はご厚意誠にありがたい、どこへでも行かうと云つて、招かるゝまゝに、相生町懐古楼の離宴に出席した。会する者星亨、山田泰造、林包明、鈴木昌司の諸君ら二十余名、さすがに乱暴者揃ひの自由党員の中でも、退去を命ぜられた程の人々の寄合ひの事とて、一座はことごとく獰猛な顔をして居つた。その中に一人どてらを着て、床の間に背に、あぐらをかいて居る者があつた。
「野郎。」
とか、
「オイコラツ。」
とか、ずいぶん荒つぽい言葉使ひはするし、私はこれはマサカ有志者ではあるまい。博奕打ちの親方でもあらうかと思つてゐると、その人が私に向かつて、
「あゝ。」
と、お辞儀もろくろくしないで、
「君が尾崎君か、僕が星だ。」
と言つた。
「星亨」君の名は、私が慶応義塾に居る時分から聞いて居り、新聞紙上や演説会でも、君と戦つた事はあつたが、顔を見たのは、この時が初めてである。私の想像した星君は、英国仕込みの、当時は日本全国に只一人よりないバリスターで、名声隆々たる人であるから、紳士的態度風采の人であらう、学者的人物であらうと予期して居つた。私が見違へたのも無理はあるまい。別れしなに星君は、
「僕も後から行くよ。」
といつた。この日の朝、かねて帰朝を促しておいた弟行隆が、三年振りで上海から帰つて来た。かくて一月卅一日、私は行隆を伴つて横浜を発つた。
 江戸払ひも、横浜出帆も、月こそ違へ同じ末日、日本退去の感慨を載せて、乗船、北京号は米国に向かつた。私は船に弱い、それに今から見ると、船も遥かに小さいので、余計揺れる。最初の一週間は、ほとんど寝てばかり居つた。この航海は、何でも十九日間ばかりかゝつたと思ふが誠に退屈な船旅であつた。私は、無聊をやるため、携へてきた書物を日夜読んだが、それも二週間程で読み尽くして、それからはひまにまかせて、「退去日録」一篇を草した。
 かうして途中何事もなく、船は桑港に到着した。長途の航海に厭き厭きした私共は、一刻も早く上陸したいと、準備怠りなく待つて居ると、下等船客の支那人
中に、疱瘡か何か伝染病にかゝつたものが出来たため、船は検疫にかゝり、二三週間の停船を命ぜられた。陸地を眼前に眺めながら、上陸を許されない。その間の退屈と言ふものは、ほとんど形容することが出来なかつた。しかるに漸く検疫期間の半ばを過ぎた頃、又々支那人の間から、新しい患者が出た。そこで上等船客一同は、支那人と一緒に居ては、いつまでも上陸が出来ないと云ふので、会社に、
「是非下等船客と上等船客とを分離してもらひたい。」
と抗議を申し込んだ。
 会社側でも、もつともと考へたものか、早速三階作りの川蒸汽船――といつても百人や二百人は乗ることの出来る船――を仕立て、それへ上等船客だけを移してくれたが、それがために吾々は思ひがけない災難に遭遇した。

米国の第一印象

 川蒸汽船に移つて、まだ幾日も経たない中に、ある朝ものすごい暴風雨が襲つて来た。私が目覚めた頃は、船が危ないと云ふので、救命船が出て来るほどの騒ぎであつた。しかも風波はいよいよ荒れ狂つて、救命船が来ても、こつちの船に近づく事さへ出来ない。やがて船の錨の鎖が切れて、船はみるみる岸へ吹き着けられる。
 船客はどうなることかと不安に怯え、婦人や子供は泣くやら叫ぶやら、非常な騒動であつた。私は二階に上がつて模様を見て居つたので、船が海岸に突き当たると同時に、陸上に飛び降りた。陸に上がると、嬉しくつてたまらない。荷物の事などには頓着せず、暴風雨を冒して一目散に、かねて聞いてゐたパレース・ホテルへ飛び込んだ。途中巡査にも見咎められず、とうとう検疫を免れてしまつた。しかし船は、半ばは破損し、船客は幸ひにして皆救はれたが、荷物はことごとく流されてしまつた。
 私の荷物の中には、自分にとつて大切なものもあつたが、もう手に戻る事はなからうと諦めた。その中には、私が多年筆記して置いた「恩讐録」と題せる雁皮製の書冊もあつた。自分は、幼少の頃十八史略を読んで、誰であつたか、恩と讐とは細大となく必ずこれを報いたとあるのを見て、男児快心の事と思ひ、自分もこれに習はんと欲し、先輩故旧などより受けた恩と仇とを漏れなく書き留めて来たのであるが、これを流してしまつた。心肝に銘じた事は記憶に残つてゐるが、大抵な事は、書いただけで、忘れて居る。改めて書くにしても、中途半端なものになるし、残念な事をしたと思つた。しかし、何が幸ひになるか判らないもので、この時こんな考へが図らずも私の脳裡に浮かんだ。
「恩讐ふたつながら報ゆるのは、小人の事で、決して大人物のなすべき事ではない。いやしくも大人物たらんと欲するものは、もつと高尚な考へを持たねばならぬ。恩讐ふたつながら忘れるのもよいが、さらに一歩を進めて、恩はすべてこれを記憶し、仇はすべてこれを忘れるのが、大人君子の心懸けであらねばならぬ。」
と。そこで断然「恩讐録」を継続する事を廃止した。これはすこぶる私の修養に役立つたと思つて居る。
 それから三日ばかりして、私の大鞄が海岸に漂着した。日本人の荷物だと云ふので、私へ知らせて来たから、不思議にも鞄中の物は、取り戻すことが出来たが、三昼夜も潮漬けになつてゐたため、役に立たなくなつた物が多かつた。又「恩讐録」は、遂に帰つて来なかつた。
 サン・フランシスコに上陸して、まづ眼に付いたのは、新聞紙が、よく読まれてゐると云ふ事であつた。遇ふ人遇ふ人、みな新聞を読まない者はない。路傍に椅子三、四脚を置いて、行人の靴を磨く所にも、必ず二、三種の新聞が、備へつけてあつて、客は靴を磨かせながら、これを読んで居る。料理店へ行つても、机毎に、必ず新聞が置いてある。新聞そのものの程度は低いが、上下貴賤の差別なく、みんながこれを読んでゐるのには一驚を喫した。
 この新聞で思ひ出したが、私が上陸すると、各社の探訪員が、ホテルの旅客名簿を見て、続々訪ねて{*1}来た。ところが、この探訪員は、我が国の者に比較すれば、よほど立ち優つてゐるが、どれも、一を聞いて十を悟ると云ふよりは、一を聞いて十を書く方で、紙上に大きな見出しで掲載された私の談話記事を見ると、一言も話さなかつた事まで虚実取りまぜて、ある事ない事がすべて小説のやうに面白く書いてある。その上、甲の新聞が、異常奇傑の士なりと記載すれば、乙の新聞は、顔色俊秀、英気眉目の間に溢ると記載し、丙が、尾崎君は、東洋のガリバルヂだと書けば、丁は、日本のヴイクトル・ユーゴーなりと書く。お蔭で私は、たちまち類まれな美男子、類まれな豪傑に祭り上げられ、この勢ひで行くと英国に着く頃までには、天下一流の政治家兼美男子になつてしまふのではないかと、苦笑させられた。初めは「日本人だと侮つて、言はない事まで、載せるのだらう」と、聊かひがみ根性を起こしもしたが、よくよく吟味すると、ここでは面会記事が、いづれも皇張誇大に書かれる事が分つた。道理で私と同船で、横浜から来た英人某氏などは、新聞記者とは全然面会もしないのに、面会記事が載つてゐた。
 私は、日本を出る時、友人から、
「書物などはどこでも読める。三年間は、出来るだけ広く諸所を旅行して、見聞を広げるが善い。」
と云はれた。自分でももとよりそのつもりであつたから、米国へ着くと、方々旅行をして見たが、どうも旅行は金のいる割合には、得る所が案外少ないやうに感じた。サン・フランシスコには二ケ月ばかり居て、処々を見物したが、別に深く印象に残るやうな事はなかつた。強ひて言へば、婦人の権力が、聞きしにも勝つて強いことと、何事に付けても、報酬が大層高くて人を使ふのが、容易でないことくらゐのものであらう。これはどれも私には迷惑のたねであつた。特に遺憾に思つたのは、在留同胞の多数が、下男や下女の奉公をして居た一事である。私はかつて、教育のかなり進んだ日本に満足せず遥々渡米する程の同胞は、気力に富むはもちろんのこと、英学等も一通り修行し、日本に居る学生などに比べれば、定めし優れた人達が、多いことだらうと思つてゐたが、どうしてどうして来てゐる出稼ぎ兼修学人は、大抵日本に居る学生より学業劣等で、英学の初歩すら知らない者が多い。その上、サン・フランシスコは新開地で学者が少なく、大学の程度も甚だ低く、社会全体が無学なのだから、お話にならない。卑低ながらも、せめて大学へでも入る篤志家が多ければよいが、無慮二千の同胞中、大学に通ふ者は、僅か数名に過ぎず、小学校に通ふ者すら、三百人とはない。他の千六七百人は、徒らに食事にあり付くだけで満足し、料理人やふき掃除の下女仕事をして得々としてゐる。この勢ひで進んで行けば、これらの頼もしからざる同胞はいよいよ増加して、米国到る所にはびこり、日本人と云へば、下女下男奉公をする者と認定されはせぬかと、私はこれが我が国に及ぼすべき害毒を考へ慄然たらざるを得なかつた。

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校訂者注
 1:底本は、「続々尋ねて来た」。