さすがに大きい大陸の景観

 二ケ月の後、サン・フランシスコからニユー・ヨークへと向かつた。もつと早く出発したかつたが、前述の通り検疫中難船の患ひに遭ひ、所持品をほとんど流出してしまつたので、要償書を会社に出し、返事を待つてゐたところ、今日は返事する。明日は弁償すると、一日々々延ばされ、意外に長滞留した訳である。同行は相良大八郎氏及び弟の行隆、その他日本人五名で、ずいぶん賑やかな旅だつた。
 シノルオ、ネヴアダの高山を夢寐の間に過ぎ、モルモン教で名高いソルト・レーキ市に一泊した私達は、ロッキー山にかゝつた。ここをこえるには数箇の線路があるが、中でもデンバー及びリオ・グランド会社の鉄道線路が最も奇観壮景に富むと聞き、私達はこの線路をとつた。汽車は海抜一万尺以上の高所を上下する。その間に目撃した奇観壮景は、筆で描けるものではない。たとひ、描けたとしても、庭園のやうな小さな風景を見るに慣れた人達には、諒解出来ないだらう。渓流に沿つて、山腹を上下すること十数時間、人声がやかましいので出て見ると、煉瓦色の岩石が、左右に直立して、さながら城門のやうだ。さらに進むと左右前後の岩石が古城の如く屹立し、或は一城孤立し、或は数城連帯し、造化の巧を弄すること実に驚くばかりである。黄金以外には、目もくれないと云はれる米国人でも、この景色には感心すると見え、寒さを忍び、先を争つて、眺覧車へ移つた。
 ロッキー山をこえた後、私達は車中で一泊し、シカゴで下車した。様子によつては、一日滞在して、諸方を見物してもよいと思つてゐたが、汽車を降りると、製造場の盛んなため、黒煙天を蔽ひ、人馬の往来目を衝くばかり、余り不愉快なので、半日だけ滞在することにして、馬車を雇ひ、市中の主立つた{*1}所を巡覧し、すぐその足でナイアガラへと向かつた。
 汽車を降りて旅館に着くと、あたりは閑寂清麗、未だ瀑布を見ないうちから、仙境に這入つたやうな心地がした。匆々の間に食事をすませ、馬車に乗つて見物に出掛けた。ナイアガラは、誰も知る通り、二條の大瀑布があつて、一つは合衆国に属し、一つはカナダに属してゐるが、カナダの方に属してゐる幕府は馬蹄瀑と云つて、恰も馬の金靴のやうな形で、水が三面から一時に落下してゐる。その景色の壮大なことは、とても筆紙に尽くし得るものではない。百川を倒懸して、天より落とすと、形容してもまだ足りない。この壮大な眺めを西洋人はどういふ風に形容するものか、試みに名家の詩文を渉猟して見たが、「百万の兵もその流れを留むる能はず」とか、英雄の鴻業偉蹟もこれに比すれば、一穀粒に均し」とか云ふぐらゐで、別に感服するほどの警句も見当たらなかつた。
 大瀑布の近くには、五十銭づゝ入場料を取つて見物人を入れる名所旧跡が多く、一々見て巡ると、十円近くの金を取られる。しかし、大抵は似たり寄つたりで、一々見て巡るのも、無益だと云ふので、四、五箇所巡覧して引き返した。巡覧中、最も可笑しかつたのは、馬蹄瀑の背後を見よう{*2}と云ふので、全身を雨合羽で包み、一人の案内者を先にして、雪を踏み、寒さを忍んで、瀑布の下に降りた時だ。夏だと余程先まで行かれるのだが、何分初春のことで、積雪と氷塊のため道がふさがつてゐる。僅か四、五間行つて引き返したが、支度の仰々しい{*3}割に、面白くない事おびたゞしかつた。英仏海峡を横断した有名な遊泳家ウエツブも、瀑布の下流を泳がんとして、溺死したさうだが、その場所は、見るも怖ろしい急流で、岩に激する飛沫は、数十丈の高さに上り、広さは数十間に及んでゐる。その傍らの断崖に板を並べた桟道があつて、写真屋が出てゐたので、私達五人はウエツブ溺死の急流を後ろにして写真を撮つた。その時は仙境に居るやうな気がして、すこぶる爽快だつたので、写真も定めし仙風を帯びてゐることだらうと、大いに期待してゐたが、ニユー・ヨークに着いた後、送つて寄越したのを見ると、愛想の尽きるほど不出来だつたのにはがつかりした。

ナイアガラ

失望した米国議会

 私はすつかりナイアガラが気に入つてしまひ、せめて一週間ぐらゐは滞在したいと思つたが、同行者の都合もあるので、残念ながら一昼夜半あまりで、この壮絶清絶の地を去つた。
 ニユー・ヨークに着くと、欧洲の形勢は、日毎に面白くなる様子で、片時も早く渡欧したいと考へたが、さりとて、米国ならでは、得られぬ便利もある故、欧洲の形勢が、激変せぬ間は、しばらく辛抱して、米国に留まることゝし、まづ政治研究のため、ワシントンへ出掛けた。
 ワシントンは周知の通り、商工業を目的とする都市ではなく、中央政府を置くため、特に開いた都会で、中央の小丘の上に議事堂があり、それを中心に、街路が碁盤の目のやうに、四方に通じてゐる。道路の両側には、樹木が整然と植ゑられ、辻々には、大小の空き地があつて、愛国名士の銅石像が、安置されてゐる。閑静でしかも立派なことは、日夜雑沓して、煙だらけの大都会とは、比べ物にならぬと思つた。丁度私が行つた頃は、国会の開会期で、上下両院は、海関税廃減案を俎上に、大議論の真つ最中であつた。そこで、私はスチーブンス(この人はその後再び日本に来たり、朝鮮問題のために働いてゐたが、韓人に暗殺された)といふ、我が外務省に雇われて居た事のある人の世話で、毎日国会を傍聴し、又名だたる政治家や、大統領クリーヴランド氏にも、面会した。
 しかし、国会では、初めて見る西洋の議院に、大いに期待して居た私は、すこぶる失望した。日比谷{*4}に於けるが如き乱闘を見せられた訳ではないが、卓子に足を載せてソツクリ反つたり、議席で巻煙草をくゆらせたり、林檎をかぢつたり、又後席の議員が演説する時は、前席の議員は着席のまゝ、グルリと廻転椅子を廻し、正面に背を向けて聞く、といつた塩梅{*5}だ。議室の周囲には、丈五、六尺の衝立があり、その外側には、長椅子、寝椅子が据ゑ付けてあるが、そこへ、議員は二、三人連れ立つて行つては、喫煙したり、雑談したり、中には長々と寝椅子に身を横たへ、いびきさへ漏らす者もある。国事を議すべき大切な議場に於ける議員の行動としては、余り乱雑だと思つた。そこで、この話を、ある米国人にしたところが、その答へがふるつてゐた。曰く、
「全国各州から集まつて来るものゝ中には、田夫野人が多いから、不思議はあるまい。現にこの間もホテルで瓦斯の消し方を知らず、ランプでも消すやうに吹き消して寝に就き、危うく死にかけた下院議員があつた。」と。
 ある日、共和党の一名士が、民主党名士の数日前になした攻撃に対し、答弁するとの披露があつたので、午食もそこそこに済まして、議事堂に駆け付けた。行つて見ると、傍聴席は既に一杯で、戸外の廊下まで男女市をなすといつた有り様であつた。私は漸くの事で、傍聴席に押し{*6}入つたが、その時は、丁度披露のあつた共和党名士の演説中であつた。この人の演説は、前後約二時間にわたつた。
 平生は、上下院とも欠席者多く、特に共和党員が演説する時は、民主党員は場外に立ち去り、民主党員が演説する時は、共和党員は多く場外に立ち去るのが、慣例となつてゐたが、この日は、珍しく両党の上院議員は、大抵着席して居た。又下院議員も自分の方にも大議論のあるのを顧みず、過半数は上院に来て、傍聴して居た。従つて上院は非常な混雑であつたが、戸外の廊下に押し合ふ男女を除けば、寂然として音なく、皆々黙々として弁士の演説を聴いてゐた。しかし弁士の放つ嘲弄讒謗は、巧妙を極めたもので、傍聴人も思はず拍手喝采して、議長の叱責を被るほどであつた。
 やがて、二時間にわたる長演説も終はり、喝采裡に共和党弁士が着席すると、反駁された民主党の名士は、憤然として起ち上がり、これに対して大いに讒謗罵詈の言葉を放つた。敵の憤怒するを見て、冷然とこれを嘲弄するは、弁論家得意の技倆だ。前に演説した共和党議員は、すかさず付け入り、着々事実を挙げて、これをなじる。民主党の弁士は、ますます怒つて、果ては議員にあるまじき言葉を吐き、嘘つき、悪虐人、無法者と連呼するに至つた。こんなにヤツキとなつて、論難攻撃したのは、南北戦争以来のことださうで、これが仏国なら、決闘になつたであらうと思はれた。さすが米国人だけに、決闘にまでならなかつたが、しかし随分不体裁なことであつた。私が旅館に帰つたら、同宿の一婦人が、
「あなたは今日上院に行きましたか。」
と聞く。
「激論を聞いて来ました。」
と答へたら、
「私も聞きましたが、異国の方にあんな不体裁な有り様を見せて、本当に恥づかしうございます。」
と語つた。
 国会で失望した私は、大統領との面会でも、ビツクリした。いやしくも、一国の大統領の面会と云へば、相当な儀式や、体裁などもあることだらうと、思つて行つたところが、部屋はすべて開け放し、そこへ労働者、その他田舎者の都見物といふやうな連中が、平気で出入りして居る。米国といふ国は、ずいぶん変なところだと思つた。諸官衙も一通り歴覧したが、特に目立つたのは、自由の大義が行き渡つてゐること、日本に比し官吏の人員が少なく、しかも俸給の安いこと、各省に女子の事務員が多いこと等で、これには私も少なからず感心した。

英国行

 四月の末には、ワシントンは俄かに暑くなつた。ニユー・ヨークに引き返したが、やはり暑くて毎夜眠れない。私は、ことに暑熱に弱いため、とても耐へられなかつた。そこで、早く欧洲へ行かうと思ひ、弟をニユー・ヨークに置いて、単身大西洋を渡つた。
 逐客の身となつても、なほこの行に、弟を伴ふことを、忘れなかつたのは、弟を自分のよい秘書に仕立てたいといふ考へを持つてゐたためである。私の頭には、その頃――今でもさうであるが{*7}――経国済民の志望より外に何物もなかつたので、弟をも私付属の政治家に育てようと考へたのである。ところが、弟は文学が好きで、米国に来ると、私の考へには頓着なく、文学方面に向かつてしまつた。或は、兄貴はとても自分を秘書に使ふほどの大政治家にはなれまいと、見切りをつけたのかもしれない。そんな訳で、私の渡欧後もひとり米国に残つて、文学研究に精進し、やがては劇団に身を投じて、舞台に立つた事もある。後には、米国屈指の名優ジレツト氏に付従し、一生米国で暮らす事になり、今日でもなほ米国に居る。畢竟私が弟を使ふほどの身分になれなかつたためであらう。
 熱釜に均しいニユー・ヨークを逃れ出て、涼爽万里の船に乗つた私は、愉快でたまらなかつた。平生船嫌ひの私ではあるが、この時ばかりは少しも船よひせず、日々三度の食事にも、必ず人に先んじて食堂に出掛けた。航海中は、毎日オーヴアー・コートを必要とする程、寒かつた。八日目に初めて{*8}、陸影を水天渺茫の間に認めた時、余り嬉しかつたので、一絶を賦した。
  万重鯨涛打夢寒 舟行八日奈凄酸
  朝来喜見蒼空外 一抹青螺是愛蘭
 船が英国に着くと、私はたゞ訳もなく嬉しかつた。太平洋に比べると、遥かに短い航海であるから、陸が恋しくなつたためではない。米国の人と物とに、満足する事の出来なかつた私は、かつてはピツトが住み、今はグラツドストーンが住んでゐる国に来たのだと思ふと、何とは知らず総身が震へるほど、嬉しかつた。
 丁度私達の船が、リヴアプールに着いた七月六日は、日本贔屓で評判の高い同地の豪商ボース氏が、
日本の名誉領事に任ぜられた日であつたから、同氏は私達の到着を非常に喜び、昼は有名なドックや、倉庫を案内してくれ、夜は日本人八、九名を招待して、祝宴を開いた。リヴアプールには、ボース氏の商店に、日本人が一人居るだけとばかり聞いてゐたから、到着{*9}早々こんなに大勢の日本人に逢はうとは、夢にも思はなかつた。
 ボース氏は三十年前から日本の形勢に注目し、特に我が美術品を愛好してゐた人で、かつて日本の美術品に関する書を著して、我が宮内省に献上し、 陛下より菊花章を彫刻した一双の花瓶を賜つた事がある。蒐集した珍品古物の数は、びつくりするばかり多かつた。美術のことなどには、わけて不案内な私の目にさへ、稀有の珍品と思はれる物が、少なくなかつた。日本に一度も来たことのないボース氏が、どうしてこんなに沢山の名器古物を、手に入れる事が出来たのだらうかと尋ねて見たところ、徳川幕府瓦解の際、安く沢山買ひ入れたとのことであつた。
 その後各地を巡遊して一驚した事だが、欧洲一帯に、日本の美術品が愛好され、取り入れられてゐる事は非常なもので、日本美術の勢力の強大なることは、実に意想外であつた。
 さて、翌七日も氏の案内で、各所を見物し、その日の夕刻の汽車でロンドンへ向かつた。
 ロンドンに着いた私は、北部の静閑な所に、居を卜した。ニユー・ヨークでは日々百度内外の炎熱に苦しめられたが、ここでは、外出の際には、冬服にオーヴアーを着用する程で、全く隔年の感があつた。もつともこの年は、米国は数十年来の暑気で、諸新聞は毎日炎熱の苦情を掲げてゐたが、英国は、これに引きかへ、数十年来の冷気であつた。
 英国に来て、まづ第一に感じたのは、米国との相違である。米国には、天然の勝景はずいぶん多いが、国民は実に無風流殺風景だ。自ら無風流と心得てゐた私さへ、日本に生まれたありがたさに、知らず知らず風流心を養成したものと見え、ひとたび俗気紛々たる米人中に交はると、不愉快を感ずることは、かへつて他人より強いやうにさへ思へた。清潔で、市区井然たるワシントンにしてからが、家々の窓や庭園は皆俗つぽく、ましてニユー・ヨークでは、万事が四角四面で、美術上の修飾を加へたものは、極めて少ない。しかし、これらに対する不愉快は、リヴアプールに着いて、ひと目英国を見てから、大いにその量を減ずる事が出来た。米国の都会では、住宅には多少の庭園がついてゐるが、草木の植ゑ方など実に不体裁であつた。しかし、英国の庭園は、配置が、いかにもよく、草木は鬱蒼として、三四階の窓には、色々の草花を植ゑ並べた家が多い。大邸宅には、風雅な名称を選んで、門に書いてあるが、これはいかにも優雅で、しかも記憶に便利なやり方だと思つた。日本にも対鴎荘とか撫松楼とかいふ名称を付けたのもあるが、これはたゞ室内の額に書き、詩文の会などに使ふだけで、英国のやうに、風雅と実用とを兼ねたものではない。
 次に器械を用ゐる{*10}大小多寡を比較すると、日常の用務を弁ずるための器械は、米国が遥かに英国より多いと思つた。一例を挙げると、当時米国では、大抵の家は四五階まで水道が装置してあつて、飲洗の用に供せられてゐたが、英国の都会では、この設備がなく、下女に朝晩各部屋の水瓶を充たさしめてゐた。又、米国の旅館はみなエレヴエーター、電灯又は瓦斯灯を設備してゐたが、英国では大旅館ですら、その設備のないものがかなりあつた。市中を往来するにも米国は、多く鉄道を使用するが、英国は、馬車が多い。このやうに、米国は器械を多く使用するが、これは人々が、皆自治独立の気象を持ち、他人に使用されることを恥ぢ、かつ物価が高く、従つて生計の度が高いので、日常の用務を弁ずるにも、出来るだけ、人力を省く工夫を凝らすものと、考へられた。
 その外、特に目立つたのは、英国が米国に比し、貧民の多いこと、米国の都会が、区画整然としてゐるに反し、英国のそれは参差錯雑せること、その建造物がすべて重厚堅固なこと等であつた。これらの事実は、両国固有の国民性の相違から来たのであらう。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本は、「重立つた」。
 2:底本は、「見やう」。
 3:底本は、「業々しい」。
 4:当時の東京府庁舎は現内幸町一丁目の旧柳沢屋敷であった。Wikipedia「内幸町」には「北隣の有楽町と合わせて日比谷通り一帯は『日比谷』とも呼ばれる」とあり、この「日比谷」は東京府庁を意味すると考えられる。当時府会が開催されていた場所は『東京府史』に明記されていないが、本章「戯言から帝都追放」に「私は、東京府会常置委員会に出席するため、東京府庁に往くと」とあり、今日と同じく東京府庁内にあったと考えられる。
 5:底本は、「按梅(あんばい)」。
 6:底本は、「推し」。
 7:底本は、「今でもそうであるが」。
 8:底本は、「始(はじ)めて」。
 9:底本は、「到著」。
 10:底本は、「用(もち)ひる」。