滞英中に憲法発布
米国にての僅かばかりの経験で、旅行は金のいる割合には、得るところの少ないことを知つた私は、英国では、余り見物旅行には、出掛けなかつた。折から末広重恭君、藤田茂吉君、荘田平五郎君、星亨君らも来英したので、私はこれらの友人と、往来したり、下宿に閉ぢこもつて、読書したり、大問題のある時は、議院の傍聴に行つたりして、平凡な日を送つた。
星君が来た時、私は横浜での送別会の礼もあるから、先に訪問しようと思つてゐると、星君は、着く匆々、私の下宿へやつて来た。どうしたのかと問ふとと、星君は、
「君が書物好きだから、新版物は、君に聞くのがいいと思つて、訪ねた。」
と答へた。風采と云ひ、言葉と云ひ、英国に来た星君は、バリスターにふさはしい紳士であつた。どてらを着た博徒の親分同様な人とは、マルデ見違へるほどであつた。
有名なロンドンの霧には、しばしば出遇つた。仏蘭西人の悪口に、
「霧深い倫敦では、灯下で手を延ばしても、指が見えない。」
と云ふのがある。まさかと、思つて居たが、大晦日の煙霧に遇つて、初めて{*1}この悪口が、まんざら嘘でないことを知つた。丁度この日、私は大晦日の芝居見物も、帰朝後の土産話にならうかと考へ、二三の友人をさそつて、名優アーヴイングの「マクベス」を見に、ライシアム劇場へ行つた。午後四時頃劇場へ着くと、切符売り場には、大勢の人が詰め掛けて居て、容易に買へない。一時間余りして、漸く自分の順番が来たので、座席があるかと尋ねると、当夜はもちろん、来月四日の分まで、全部売り切れだと云ふ。やむを得ず、その後の切符を買つて置いて、その夜は、他の劇場に行つたが、この日は、夕刻から霧が立ちこめ、街灯はあれどもなきが如しで、往来の人馬さへ、見分けが付かず、これに突き当たつて死傷した人は、少なくなかつたと、翌朝の新聞で見た。中頃になつて少し晴れたやうであつたが、夜十一時頃から、再び濃厚になり、私達が雇つた馬車は、途中で進行を止め、御者は車から降りて、牛のやうにソロソロ車を引いた。辻々には巡査が立つて、道筋を教へてゐる。人道の左側から右側の瓦斯灯が見えない。私は全く驚いた。
かうして、明治二十一年を無事に終へた私は、新年を英国で迎へ、一月八日には一、二の友人と共に、西南地方へ旅行に出掛けた。パース、トークエー、ブリマウス、ベンザンス、フアルマウス等の名所を遊歴して、ロンドンに戻つたのが一月廿三日。その間に費やした日数は、僅か十五日に過ぎなかつたが、遊歴した里程は、七、八百英里に及んだ。ある時は、人声のしない片田舎の一軒家{*2}に泊まり、ある時は、これより先には一歩も陸地なしと云はれる、英国の最西岸に登つて、万丈の怒涛を下瞰し、又、ある時は、古城の廃墟に、懐旧の涙をそゝぎ、さては、大都会の巍々たる旅館に帰宿して、綺羅星の如く着飾つた紳士淑女とも、会食した。
かうして日を送るうちに、やがて二月十一日には、故国で帝国憲法が発布された。明治六年の民選議院設立建白よりこゝに十六年、十四年の国会開設の大詔より算へて八年目、吾々が悪戦苦闘して来た憲法政治は、今こそ獲得されたかと思ふと、逐客として異郷にある身の感激は、ひとしほ深かつた。
この日、倫敦の我が公使館では、在留邦人を招いて、盛大な祝宴を開いた。前日の十日は、午後少し過ぎる頃から飛雪紛々、近年比類のない大雪となつて、交通ほとんど杜絶の状態であつた。しかるに翌十一日は、稀に見る好天気で、麗陽積雪を照らして千里一白、神明もまた天地を清めて、我らと祝賀を共にするといつた感があつた。しかし、雪のため、車馬の往来はかなり困難だつたので、遠く数十里の外に在留する同胞の来会は、どうであらうかと心配したが、生まれて初めて{*3}この盛時に際会した同胞は、道路の困難も何のその、夕九時頃になると、雪を冒して来会せる者五十六名、これに公使館員を加へると六十余名の多きに達した。
さて、来会者が列を正して、食卓につくと、岡部代理公使は立つて祝辞を述べ、 陛下のご盛徳を称揚し奉り、数時間前に、外務大臣から到達した電報を、朗読した。
「今朝 天皇陛下は人民の大熱心中に於いて身親ら帝国憲法を宣布し給へり。」
満堂の会衆は、皆拍手喝采し、陛下の万歳を叫ばぬ者はなかつた。
やがて階上の広間で、余興が始まつた。或は能狂言をやる者、或は西洋戯劇を演ずる者、或は落語を一席やる者もある。その芸はいよいよ出でていよいよ妙、在留邦人中に多能、多芸、多才の士が多いのにはびつくりした。平生は余り戯技を喜ばない私でさへ、この夜は余りの嬉しさに、覚えず興にのつて、時を過ごし、馬車を駆つて宿に帰つたのは、翌朝の四時頃であつた。
パーネルと虞翁
私が在英中、政治問題で最も大きかつたのは、パーネル調査事件であつた。千八百八十七年の四月、タイムス新聞が、愛蘭党の首領パーネルの手紙を証拠として、同氏が、愛蘭尚書ケブヱンヂツシユ卿の謀殺事件に関係ありと、暴露攻撃した。これに対してパーネルは、議院に於いて書面の偽物なる旨を言明し、かつ調査委員会を設けて審問せよと主張した。結局、翌年七月になつて、調査委員会が設置され、取り調べを開始すると、愛蘭人の不逞な言行が、続々挙がつた。保守党政府は、タイムスの後ろ盾となり、タイムスの代言人たる検事長は、開廷の日毎々々に、パーネルに不利益な証拠を挙げ、遂にパーネルの手紙を得た手続きを述べ、その証人を出すといふことになつた。
最初タイムスは、パーネルに名誉回復の訴えを起こすべしと強要したが、パーネルは、これに応じなかつたのみか、調査委員会設置の提議に一時政府が反対すると、それを善いことに、黙止するやうな傾向があつた。それで、私もパーネルに、或は、後ろ暗いところがあるのではないかと疑つた。もし、パーネルが敗れゝば、愛蘭党は壊滅し、グラツドストーン一党は、極めて不利な立場に置かれるのだ。ところが、何ぞ図らん、タイムスが頼みにして居た証人ピゴツトは、パーネルの代言人の精鋭な質問にたへられず、二日間出廷しただけで、三日目にはいづれへか、逃走してしまひ、形勢はたちまち逆転して、ピゴットに欺かれたタイムス社は、遂にパーネルに謝罪するに至つた。
このパーネル事件の裁判には、私も非常に興味を覚え、二度ほど、行つて傍聴した。一度目は、普通の傍聴席に入つたが、二度目には、特に書記官に頼んで、特別席に入れてもらつた。手をのばせば、検事長ウエブスターに届くほどの所で、法廷の模様や、名士の態度風采をつぶさに見ることが出来た。
この日は、グラツドストーン夫人も来廷され、玉のやうな顔に微笑をたゝへて、傾聴して居た。パーネルは、まづ中肉中背とも云ふべき体格で、その顔色は青ざめ、頭髪はほとんど脱落し、あたかも大英国を相手に、身を以て対抗した過去十年間の辛苦を、物語るかのやうに見えた。私は、その蒼顔禿頭を見て、気の毒になつた。しかし堅く口を結んで直立し、検事長を始め英国法律家中の傑物数名が、畢生の努力を集めて、蒐集協議した難問を、雨霰の如く注ぎかけられても、泰然として毫も臆するところなく、居並ぶタイムスの代言人をにらめ付けながら、剛毅精確、簡潔な言葉を以て一々答弁したのには、傍観者である私でさへ、痛快を覚えた。パーネルは常々多弁を好まず、必ず説明し、主張せねばならない場合の外は、口を開かぬ人である。検事長が、某愛蘭党員の激烈な演説を挙げ、
「定めし読んだことであらうが、これを読んで、その暴言を咎めなかつたか。」
と問ふと、パーネルは、
「いや、読まぬ。私は、自分の演説筆記は読むが、他人の演説の愛読者ではない。」
と答へた。又検事長が、有名な某議員の演説を挙げ、
「当時議院でこれを聞いたか。」と、問ふと、{*4}
「いな。」と、答へ、微笑を含んで、
「かの人の演説は、あなたの演説より面白くはない。」
と付言した。この時満廷の傍聴者は、一時にドツと笑ひ、検事長の顔には、サツと憤怒の色がさした。私は、当時の英国の豪傑はグラツドストーン、パーネルの右に出るものはあるまいと思つた。
グラツドストーンの演説は、しばしば聞く機会を得たが、特に感心したのは、その前年の秋、バーミンガムでなした演説であつた。この時は、私も、わざわざ倫敦から、出掛けて行つた。当時バーミンガムは、チエムバーレーンを中心とする連合党の本拠で、改進党の老将グ氏の乗り込みは、非常に注目された。私が到着したのは、丁度グ氏夫妻の到着したのと同時刻で、市街は非常な混雑を呈してゐた。停車場を出たが、身動きがならない。少しマゴマゴすると、たちまち人海の中に巻き込まれてしまふので、一時料理店に飛び込み、群衆の減ずるのを待つて、やつと旅館に辿りついた。
荷物を置いて、演説のあると云ふ市庁へ行つたが、市庁の周囲や、それに通ずる大通りには、木柵を設け、警官が必死に群衆の乱入を防いでゐた。グラツドストーンは、五、六千人の聴衆を相手に、二時間にわたる演説をなし、夫婦同車して、場外に出て行つたが、烈寒を冒して待ち設けた数万の群衆は、帽子やハンカチを振つて、天地も崩れるやうな喝采を送つた。三日間に氏が臨場した集会は、毎日三、四回以上、その間に各地の代表に面会して、三、四十分の演説をしてゐるから、年少気鋭の士でも多少は疲労する筈であるが、頭に八十の霜を戴いた老将は、毫も疲労の色を表さなかつた{*5}。特にビングレー・ホールでなした最後の晩の演説の如きは、聴衆二万に近く、いかに氏が弁舌に長じてゐても、聴衆の半数に聞こえるやうな声で、長演説は出来まいと思つた。ところが、いざ演説となると満場は静寂となり、調子を張り上げようと苦心してゐる様子もないのに、氏の声は満場に透徹して、手に取るやうに聞こえた。氏は壇上に直立し、円滑なしかも重々しい調子で喋つたが、その爽快流暢な音声には、すつかり魅了されてしまつた。
思ひ出の欧洲巡遊
三月中旬になると、東京の友人から頼りがあつて、二月十一日憲法発布と共に、大赦令が下つた旨を知らせて来た。明治十五年以来憲政獲得運動のため獄に繋がれて居つた者は、ことごとく晴天白日の身となり、私も逐客を赦されて自由の身となつたのである。
明治二十三年には総選挙もあるから、すぐ帰国しようかとも考へたが、なほまとめかねた用事もあり、見聞きしておきたい事柄も、少なくないので、五月上旬まで出発を延ばし、その間に維納、コンスタンチノープル、希臘、伊太利を巡覧して仏蘭西に帰り、五月十九日の仏船に乗つて帰国することにした。それで、クツク社に行つて、漫遊切符を買ひ、四月三日には倫敦を出発するつもりで、旅装を整へてゐると、出発間際になつて、ふとした事から、二三の英人と懇意になり、その人達の紹介で、色々の倶楽部や集会に出入りするやうになつた。こうなつてみると、言葉も解らぬ土地を徘徊するより面白いし、利益にもなるから、右の英人の尽力で切符を他人に譲り渡し、しばらく倫敦に留まることにした。そこで、従来の蟄居主義を改め、毎日毎夜外出して、見聞を広め、地方にも数回旅行して、多少利益と思はれるやうな材料を、蒐集した。
他国で、毎日二、三ケ所の約束を、済ますのは、自国で、四、五ケ所の約束に応ずるより、心身の疲労を感じる。まして欧米人は、疲労の感じ方が少なく、一事が終はれば、さらに次に移り、一ケ所を済ますと、すぐ他所へ行くといつた風で、少しも休息することがない。ある日新聞記者協会の宴会に出席したが、この時は、出席者はいづれも翌日繁忙な仕事をせねばならぬ身でありながら、閉会後も、倶楽部に集まつて奏楽、唱歌、談話、飲食に一夜を明かし、東の空がしらじらする頃になつて、漸く散会した。かねてから徹夜嫌ひの私も、この夜は愉快だつたので、最後まで残り、全く夜が明け切つてから帰宿した。
かうして、私は交際と遊覧に多忙な日を送つたが、さらに七月にはリヴアプール、マンチエスター、カーライルを遊歴し、さらにスコツトランドに渡つて、グラスゴー、エヂンバラ、ニユーカースル等を巡遊し、一旦倫敦に立ち戻つたが、再び旅装を整へて、大陸見物に出掛けた。
英国北部を巡遊した時は、有名な湖水地方にも立ち寄つた。この地方は、英国詩人の夢寐にだも忘れることの出来ない所で、有名な詩人ウオーズウオースの如きは、アルスオーター湖畔に卜居し、日夜その風景を讃美して居たと聞いた。さだめし天下無双の名勝であらうと思つてゐたが、実際行つて見て、その平凡なのに失望した。これぐらゐの所なら日本の片田舎にざらにあると思つた。英国の風景に失望した私は、それからは蘇格蘭へ行つても、ただ造船所、製鉄所、その他の諸工場を見物し、景勝の地へは出掛けなかつた。
欧洲大陸へ旅行した時は、二度巴里に遊び、コローン、ハムバルグ、伯林、フランクフルト等を巡覧し、失望のたねとは思つたが、ライン河を下つて、河畔に一泊した。ラインの風景は、別に驚くほどのことはなかつたが、ビンゲンからボンに至るまでは、両岸に岩山が起伏し、掌大の古城が、山頭山腹に散点して、非常に美しかつた。流れが緩慢なので、日本の河のやうに直流せず、左右に転折して、あと戻りする所もあつた。
ラインを下つた時は、晴天で、空には一点の雲もなかつた。私は元来雨癖とも称すべき一種の奇癖があつて、茶を飲む時も、静坐して読書する時も、文章を書く時も、軒打つ雨の音を喜ぶ癖がある。まして佳景に遇ふ時は、いつも雨中に見たいといふ欲望に駆られる。それで、その時も「煙雨模糊の間に眺めたら、どんなにいゝだらう」と思つた。すると、不思議なことに、三時間ほどすると、一天俄かにかき曇つて、物凄い雷雨になつた。甲板に群がつてゐた人々、特に貴夫人令嬢達は、非常に狼狽してゐたが、お蔭で私は大いに眺めを楽しむことが出来た。
洪流千里鑿岩巒 幾所古城臨碧瀾
急雨両回洗舷角 雨奇好晴一時看
欧洲大陸の見物を終へて倫敦に帰り、ソロソロ帰国準備を始めてゐると、突然意外の悲報が到着した。
それは、自分がかねて知遇を受け、尊敬を払つてゐた大隈さんが、十月十八日爆裂弾のために、足を怪我して切断するのやむなきに至つたと云ふ電報であつた。條約改正問題のために、玄洋社の来島恒喜にやられたのであるが、当時は電報が簡単であつたから、どんな様子か一向わからなかつた。しかし、これは私の政治生活に非常な関係があるので、大隈さんのいのちが心配で、ぢつとして居られなかつた。そこで、足の怪我を色々に想像して、名の聞こえたある医師の意見を尋ねた。その医師は、
「怪我の大小に因つて、治癒の見込みは、もちろん違ふが、年齢によつてもまた大いに違ふ。ことに本人の位地によつて非常に違ふ。戦争の場合の実例などを見ると、兵卒なら助かる負傷でも、左官、将官と、責任の位地が上がるに随つて、回復が困難になる。況んや政治家、特に内閣大臣といふやうな位地にある人が、一足を切断せねばならないほどの大怪我をしては、軍人に比すれば、医治がますます困難になる。おそらくは、十が十まで助からないだらう。」
といふ意見であつた。
それで私は、もはや、大隈さんにはお目にかゝる事は出来まい。困つたものだと失望しながら、すぐに旅装を整へ、一日も早く日本に着きたいと思ひながら、匆々帰国の途に就いた。
帰途はインド洋を廻つたが、その頃は亜米利加を廻つても印度洋を廻つても、大した違ひはなかつた。途中は、唯々大隈さんが、生きて居てくれゝばよいがと、そればかり念じながら、四十何日掛かつて、二十二年も暮、押しつまつて帰京すると、丁度大隈さんが、外務大臣官邸を引き払ふ所へ駆け付ける事が出来た。大隈さんは、
「もう大丈夫ぢや。」
といつて居る。私は実に嬉しかつた。どうしてあれ程の大怪我をしながら、助かつたのかと思つて、色々聴いて見ると、麻酔剤をかけて脚を切つた後、大隈さんは意識を恢復し、脚が切断された事を知ると同時に、大心配で詰め切つてゐた医者達に向かつて、何よりも先に、
「それぢや、これまで脚に行つた血が、皆他の部分に行くから、全身の健康は、以前より善くなるね。」
と言つたさうだ。大隈さんは、いかなる場合に於いても、悲観や失望はしない性質の人であつたが、この時も楽観主義のために一命を取り留められたのであらう。
私が帰朝すると、イギリスに於いて立憲政治の運用を調べて来たと云ふので、全国各地の有力者、県会議長とか、何とか云ふやうな人々が、続々訪ねて来て、選挙の仕方などを質問した。当時一介の青年で、大した信用も何もない身分であるにも拘らず、この始末である。いかに国民が真摯に憲政の実施を待ち焦がれてゐたか分るであらう。
私は洋行中も、朝野新聞記者として、色々な通信を送つてゐたが、帰朝後も引き続き筆を執つた。帰朝後は、売れ高もかなり増したが、財政は中々困難で、一年足らずの内に、遂にこれを人手に渡さなければならない事になつた。当時朝野新聞は、「絵入朝野」と称する小新聞をも持つて居つたから、一度に二つの新聞を人手に渡したわけである。
「朝野」落城後、私は犬養君らと、「民報」といふ日刊新聞を創立(二十四年一月)したが、これも財政困難で、たちまち没落した。
その頃私と犬養君とは、「新聞潰しの名人」と云はれた。
校訂者注
1・3:底本は、「始めて」。
2:底本は、「一軒屋」。
4:底本は、「問ふと。」。
5:底本は、「現(あら)はさなかつた」。
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