劈頭第一の成功
大隈伯の遭難は、改進党にとつて大打撃であつた。伯は党籍こそ持たなかつたが、改進党首領として、党を指導してくれた。随つて、もし遭難以前に総選挙が行はれたら、改進党はかなりの多数を得たであらう。しかるに、吾々が先に伊藤内閣を倒したと同じ條約改正問題のために、改進党は全国的反対を受け、大隈伯は遭難した。
吾々はこの窮境に立つて、明治二十三年七月の衆議院議員第一回総選挙を迎へねばならなかつた。そんな訳で、公然改進党といふ看板を掲げて、当選した者は、僅々十三、四人よりなく、その他は皆改進党の看板を外して、候補者になつた。
この選挙で、私は三重県から打つて出た。三重県は明治六年、父が度会県の役人となつて宇治山田に行き、私もそこの学校に入り、その後父は、山田郊外に退隠してゐたため、三重県が私の第二の故郷になつたのである。私にとつては、五十年の議会生活が始まる記念すべき選挙ではあつたが、印象に残る程のこともなかつた。この時の選挙には、別に競争者といふ程の人もなく、あつても一区二人の選挙区であつたので、競争者は北川矩一君の方に向かひ、私は有効投票千九百十九票の内、千七百七十二票を占めて易々当選した。それでも嬉しいには違ひなかつたから、帰京するや、真つ先に、福沢先生をお訪ねして報告した。いつもこごとばかり云はれる先生も、今度は少しくらゐほめてくれるだらうと思つてゐると、先生はおめでたいとも何とも云はれず、傍らの筆を執つて一詩を書いて示された。
道楽発端称有志 馬鹿骨頂為議員
売尽祖先伝来田 贏得一年八百円
当時議員の歳費は八百円であつた。
この選挙で、私は、これまで世間に知られてゐない無名の豪傑が、いくばくか選出せられ、やがては議会で、これらの人々に会ふことが出来るであらうと、ひそかに楽しみにしてゐたが、選挙の結果を見ると、無名の人は、やはり大抵三流以下の人であつて、これまで名も聞こえてゐない豪傑は、ほとんど一人も発見出来なかつたのにはいさゝか失望した。その中にあつて、只比較的無名の傑物と見るべき人は、武富時敏君一人だけであつた。武富君は、議院に出て来てから、俄かに頭角をあらはし、世間から余程、重んぜられるやうになつた。
選挙後、我々は、同志議員を駆り集めて、議員倶楽部といふものを組織したが、その員数は、僅か三十名内外に過ぎなかつたと思ふ。議会開会までには、政党の離合作用が行はれて、大同倶楽部、愛国公党、自由党、九州進歩党は、合同して弥生倶楽部となつたが、我々はこれに参加しなかつた。保守及び自治の両党は、団結して大成会となり、これに無所属中の政府党を加へておよそ八十名、それが政府党の主力であつた。
かうして第一議会は、明治二十三年十二月二十五日に召集された。議員は、多年憲政獲得に献身的努力を続けて来た人達で、いづれも国士、志士を以て自ら任じてゐたのだから、人品はかなり立派であつた。しかし、何分初めての議会であつたから、議事の進行などもまだ幼稚で、ずいぶん滑稽なことも少なくなかつた。まづ、議長選挙では、選挙手続きを呑み込めないでごたごたして居るところへ、仮議長の曽祢荒助君(初代の書記官長)が、
「十五分も休憩したら、諸君も冷めるだらう。」
と失言して、議場で謝罪させられる等の喜劇を演じた。何でも議長選挙だけに数時間を費やしたと思ふ。
この議会に於ける各派勢力は、反政府党が弥生倶楽部、議員倶楽部の合計百七十一人に対し、与党側は大成会、国民党、無所属を合して百二十九人であつたから、吾々民党はすこぶる優勢であつた。その上に、我々の仲間には、阿部興人君といふ財政通があつて、予算節減案を作つてくれた。この人は組織当初よりの改進党員であつたが、財政問題研究のため、中ごろ脱党して、大蔵省の役人となつたほどの熱心家である。又井上外相の條約改正反対運動以来、私の配下となつてゐた秋田の引田長輔君は、私の洋行中に、広く行政各部にわたつて、官制改革案を作つて置いてくれた。
阿部代議士の予算査定案中、行政費節減に関するものは、主に引田君の官制改革私案に準拠したのである。予算委員会でも、本会議でも、阿部君と引田君の意見に拠つて主張した吾々{*1}の提議が、多数の賛成を得て、朝野決戦の主題となつた。僅か三十名内外に過ぎない改進派の意見によつて、第一回議会は支配されたのだ。この事は余り表面に表れなかつた{*2}から、世間は只改進派の働きぶりに感心しただけであつたが、私は内心ひそかに得意であり、私の議会生活は、劈頭に於いて成功した方であつた。
八千万円の総歳出中から、およそ八百万円を削減した予算修正案を、吾々は査定案と名づけ、これをひつさげて、政府と対戦した。この議会戦は、すこぶる激烈であつて、査定案の評判がよかつたため、向島には「さてい庵」と称する汁粉屋が出来た。民党側の議員や有志者中には、わざわざ向島に遊んで、うまくもない「さてい庵」の汁粉を食べる人もあつた。私などもその一人である。
さて、その頃の予算額は、今から思へば、嘘のやうな八千万円の小額であつたが、それを一割以上も削減し、吾々少数の同志の努力で予算委員会を通過せしめ、さらに本会議でも、野党連合軍の賛成を得て勝利確実となつた。
そこで山県首相は、
「議会が国政を妨げるとはけしからん。」
と、カンカンに憤慨し、一時は解散も辞せぬと言つたが、とにかく、第一期の議会であるから、解散せずに済ましたいといふ希望の方が、強かつたのであらう。非常手段を施して、自由党から二十七人程の議員を切り崩し、漸く六百五十万円ばかりの削減で、妥協苟合に終はつた。
これが政党堕落の濫觴をなして、中江兆民君などは、早くも議会に愛想をつかし、アルコール中毒を口実に議員を辞してしまつた。
第一議会が終はると、山県首相は、潮時を測つて{*3}辞職し、松方内閣が出来、続いて第二議会が開かれた。
第二議会では、鉄道国有、濃尾大地震に関する緊急支出、その他種々の問題があつて、朝野両軍の衝突点は、第一議会よりも多く、かつ激烈であつた。私が、「薩摩の海軍」と叫んで、建艦費に反対したのは、この時であり、樺山海相が有名な藩閥擁護演説をやつたのもこの時であつた。
吾々は予算に大削減を加へ、私鉄買収案や震災費の事後承諾案などを否決して、再び民党が凱歌を挙げることになつた。
こゝに於いて松方首相は、十二月二十五日最初の議会解散を断行し、乱暴極まる選挙干渉をなした。
その頃の暴行沙汰
国会に於ける野党の活躍は、多年の言論圧迫から、解放されただけに、真に目覚ましいものがあつた。しかし、その一面には、与党から睨まれ、又野党の間でも、軋轢が絶えなかつたから、その頃の政治社会では、乱暴することが流行した。
議院内の暴行沙汰は、珍しくなく、繃帯姿で登院する議員は、かなり多かつた。死んだ犬養君は、いつだか頭部に傷を受け、島田三郎君の如きは、二三度襲撃されて負傷した。又高田早苗君は背後から斬り付けられて、重傷を受けた。私だけは、幸ひにして一回の襲撃をも受けずして免れた。この事は、自ら不思議に思ふ程である。もつとも私も途中で、襲撃でもしさうな壮士に出会した事は、度々あつた。イザ襲撃されたら、身軽に逃げるが勝ちと考へてゐたので、私は何らの武器も携へず、護衛をも連れなかつた。しかし、下手に逃げると危険だから、逃げる前には、こつちからわざと敵に近づいて行つた。さうすると、先方では何か薄気味悪く感ずるものと見え、手出しをしなかつた。
いつであつたか、島田三郎君が、議院の面会室に於いて、鉄の棒で打たれた事がある。その犯人には、島田君より前に、私も会つたのだが、相手が何か袴の中に隠して持つてゐるやうに見受けたから、私は卓を隔てて対談し、これを近づけなかつたため、難を逃れた。その後で会つた島田君が打たれたのは、犯人の素振りに注意しなかつたためであらう。島田君は、私よりも豪胆の人であつたやうに思はれる。
暴行について思ひ起こすのは、井上毅君である。この人は、後に子爵となり、文部大臣になつた人である。明治十八年の頃、私が伯林会議の状況を報知新聞に掲げたのを見て、井上君は、会見を求めて来た。これが同君と相識るに至つた最初であるが、当時井上君は、最初の伊藤内閣に、その書記官長を勤めて居つた。行政整理の結果、政府は大いに冗員を淘汰したが、その発頭人が、井上君であると云ふので、刺客がその身辺に附きまとひ、井上君の家を焼き払ふなどの噂が盛んであつた。当時この事について、井上君は、
「自分は、武芸の嗜みがないから、刀などは自分の用をなさないが、それにも拘らず、刀を枕頭に置かなければ、安眠が出来ぬ。自分ながら慚愧の至りに堪へない。横井小楠翁は、独り文筆に達して居たばかりでなく、武芸の達人であつたが、京都の宿屋で、数人の刺客が乱入して来た時、翁は大小には手を掛けず、傍らにあつた手拭ひを取つて、頬かむりをなし、「旦那御免」と刺客に挨拶しながら、すれ違ひに、階段を下りて逃れ去つた。翁の度胸と機智には、驚かざるを得ない。自分には、その真似も出来ない。」
云々と語られた。
当時議員らが多く襲撃された中には、やむを得ぬ場合もあつたらうが、中には注意が足りなかつたり、度胸がないために、飛んだ災ひにかゝつたものもあつたらしい。
文章の仲介で、会見を申し込まれた事が、モウ一つある。私が英国滞在中、親しく同国君民の関係を見て、深く感じ、「帝室論」と云ふ一編を書いて、朝野新聞紙上に掲載した。鳥尾得庵居士が、これを読んで、是非面会したいと、私の英国滞在中に、人を介して申し込んで来た。鳥尾子は、自分方へ来てもらうのは、失礼だし、さりとて自分から訪問するのも、鄭重すぎるから、何所ぞ中立地帯で会ひたいと云ふことであつたが、私は帰朝後間もなく、小石川かどこかの鳥尾子邸を訪問した。
しかるに、第一に家の造り方を見て、私の想像して居た人物と異なることに失望し、第二に親しくその人に接して見ると、多少禅味を帯びた人だらうとの予期に反し、何だかそれと正反対の人らしい感を受け、しばらく談話を交へた後、匆々に辞去した。これは、私の帝室論が紹介者となつたのであるけれど、さきに伯林会議の事を書いて井上毅君に遇つた時、興味を感じたのに照らして、いさゝか失望せざるを得なかつた。
品川内相の大干渉
明治廿四年の暮れに、最初の議会解散が断行されて、総選挙は翌年二月十五日に行はれたが、時の内相品川弥二郎君は、王政維新の際「トコトンヤレ」節を作つて、朝敵征伐に向かつた時と同じ意気込みを以て、第二回目の朝敵征伐のつもりで、これに臨んだ。現に内相は、
「議会の解散は、陛下の譴責であるから、旧議員の再選は、陛下の思し召しに背く。」
と、ひそかに、旨を地方長官に下すに至つた。
私が選挙区に帰ると、「尾崎は解散を受けたのだから、取りも直さず、勅勘を蒙つたのだ。」
と云ふ訳で、勅勘議員のあだ名をつけられた。しかもその頃私は、三重県を風靡してゐたところの地価修正派から、反対論者と誤解せられ、非常に不評判であつたから、この選挙は、私にとつては、容易ならざる苦戦であつた。
誤解といふのは、その前から三重県はじめ全国各地に、課税標準たる法定地価の格外に高い処があり、その修正が地方問題となつてゐた。私は全国的問題としては、むしろ地租軽減が必要であると信じ、修正と軽減の併行論を唱へた。すると、修正派が、「両方を併行しよう{*4}とすれば、金が不足するから、結局地価修正は、出来なくなる。尾崎の議論は、三重県の利益を減殺する」と触れ廻り、かつ全国の地価修正派団体から、委員を派出して、私を落選させようとした。
かくて政府の干渉が猛烈な上に、地価修正派の大反対があるため、第一回の選挙に、私に賛成した町村長の如きは、ほとんど全部私に反対することになり、その他の同志者いづれも逡巡して、一人も進んで選挙を争へと云ふ人はなかつた。私の参謀長すら、
「どうも勝算がない。一回だけ休んでくれ。」
と申し出た。これでは仕方がないとは思つたが、ひくにひかれぬ境遇ゆゑ、私は旧同志者会合の席上で、
「よし、それなら諸君のご援助は求めない。独力でやる。」
と言ひ放つた。すると妙なもので、では負けるまでも、お供しようと云ふ人が出て来た。しかし、それは極少数で、選挙区を巡つて見ると、もちろん評判のよからう筈はない。紀州などでは、あんな謀叛人を入れることは相ならぬと云つて、宿屋も泊めてくれねば、演説会場も貸してくれなかつた。漸く演説会を開くと、政府側の暴客が、抜刀で会場に踊り込み、警官はかねて申し合はせてあるものと見え、取り締まり不可能と称して、解散を命じた。一日志摩に演説に行つたところが、暴徒が峠で私を要撃するといふ知らせがあつた。どうなる事かと度胸をきめて、往つて見ると、なるほど大きな昇り竜や降り竜の附いた陣羽織のやうな物を着た人々が、槍薙刀などを持つて、少しばかり待ち構へて居ただけで、別に何もしなかつた。帰りには、大挙して来て、必ずヤツ付けるといふ風説を立てたから、反対にこつちから、脅かしてやらうと思つて、猪狩りの猟師を駆り集め、鉄砲を持たせて、進んで行くと、先方はおどろいて、何所かへ逃げてしまつた。
かくて政府側は乱暴人や、剣客を使ひ、兇器を携帯させて、到る所私共を脅かしたが、元来伊勢は、人気の穏やかな処だから、殴る事はあつても、人を斬るなどゝいふ事はなかつた。斬つたのは、人の代りに犬や豚の首だけであつた。私の参謀長は、宿屋の主人であつたが、流血淋漓たる豚の首を青竹に突き刺して、店の入り口へ立てられたのには、営業妨碍となつて、すこぶる迷惑したやうだ。私は前に述べたやうに、大層不評判であつたのが幸ひして、内務省の秘密報告にも、「負け」といふ事になつて居り、政府側も安心して、非常手段を執らなかつたため、どうかかうか{*5}当選することを得た。
この時の干渉は、極力民党候補者の運動を妨碍し、言論弾圧、賄賂公行、吏党の運動者は、官憲の庇護の下に凡ゆる非行を逞しうし{*6}、甚だしきは放火、殺傷を敢へてし憚るところなく、ために全国では死者二十五名、負傷者三百八十八人を出すに至つた。これは政府の発表であるから、実際はそれよりひどかつたであらう。
これほどまでして政府は与党を助けたが、吏党は極めて不人気であつた。その頃、ちやうど明治二十三年帝国議会の開設以来、二十六、七年頃までは、政府党と言はれることが、最大の恥辱と見られ、田舎の小学校などで、親が政府党であると、その子供が学校へ出て来ても、同輩から嘲笑指弾されるから、親に向かつて、何卒吏党たることをやめてくれと、哀訴嘆願する程の有り様であつた。
私は悪戦苦闘の末、漸く凱歌を挙げて帰京し、大隈伯を訪ふと、
「君の選挙区は一体どれくらゐの広さかね。」
ときかれた。私は真面目に、
「伊勢、志摩、紀伊の三ケ国にまたがり、端から端までは、およそ五十里もありませう。」
と、その広さを説明すると、伯は、
「フム、その地域を全部買つてしまはうではないか。さうしたら、政府も選挙干渉などは出来まい。」
と言はれた。その頃大隈伯は越後の石油事業に関係して居り、遠からず大金持ちになる見込みであつたのださうだが、それにしても三ケ国五郡にまたがる選挙区全地域の買収は、少し大形すぎる。大隈伯は少年の頃、神戸を通過した時、開港場としてその前途有望なるを知り、一帯数方里の買収を計画した事があるさうだが、伯は性来大きな事が好きであつたものと見える。
校訂者注
1:底本は、「吾吾」。
2:底本は、「表面に現はれなかつた」。
3:底本は、「図つて」。
4:底本は、「併行しやう」。
5:底本は、「どうかこうか」。
6:底本は、「逞(たくまし)ふし」。
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