議会で八つ当たり

 前に述べた乱暴極まる選挙大干渉には、伊藤公などもこれを非難し、呆れてしまつて、品川内相も居たゝまれず、遂に辞職した。続いて開かれた議会では、もちろん吾々は、選挙干渉の非違を挙げて、政府を猛撃した。満身創痍の松方内閣は、議会閉会後二ケ月ばかり持ちこたへたが、明治廿五年八月に瓦解し、第二次伊藤内閣が、その後を襲つた。
 その頃は、官尊民卑の思想が、中々盛んであつて、県知事でさへ、やゝもすれば、封建時代の大名のやうな権勢を振るひ{*1}、地方によつては、土下座をして、その通行を迎へたくらゐであるから、大臣に至つては、人間以上の人でゞも{*2}あるかの如く見なされてゐた。議員でさへ、議場に於いて、大臣と対等の太刀打ちをする者は稀であつた。こんな事では、折角国会が開かれても、議員の職責を十分に尽くす事が出来ないから、私は何とかして、大臣等といへども、格別えらいものではない、決して吾々と変つたものではない、といふことを、一般に知らせなければならぬと思つた。
 ところが、第四議会に於いて、衆議院が大削減を加へた明治二十六年度歳出総予算中に、政府の同意を求めればならぬものがあつて、政府側は、二十六年一月十六日に、井上臨時首相代理(伊藤首相は前年十一月馬車から落ちて負傷した)以下各大臣ことごとく登院したから、私は、好機到れりと思ひ、各大臣を残らず相手とするところの質問戦を試みた。目指す相手は、渡辺蔵相であつたが、私には右のやうな考へがあつたから、その用語をも、わざとゾンザイにし、出来るだけ各大臣を軽蔑するやうな言語と態度とを用ゐた{*3}。
 渡辺国武君は当時、頭角をぬきんで、しかも自ら無辺侠禅と号して、縦横に禅語を使ひ廻し、議員が例証を挙げて詰め寄れば、「彼も一時、これも一時」などとごまかしたり、「神機一転」と澄ましこんだりして、中々面白い問答応対をする人であつたから、私も敵にとつて不足はなかつた。盛んに切りかけると、さすがに見事な防ぎ方であつたが、無理やりに窮追して、遂に、
「一銭一厘の微といへども、削減すべからずと云ふか。」
と問へる私の言を認めさせ、組み伏せてしまつた。
 しかし、後藤農相となると、かつて私とは、ほとんど親分子分の関係があり、保安條例の時の如きは、自分の馬車を私に使はせたほどであるから、その答弁もずいぶん横着であつた。しかし私は、片端から、各大臣の答弁に苦しむやうな質問を連発し、最後に、
「この先生たちでは、どうせ駄目だから。」云々といふ雑言を吐いて演壇を降つた。
 この議会はどうやら無事であつたが、第五議会には、官紀振粛、千島艦事件、條約問題等について、野党の攻撃猛烈を極めたため、遂に再び解散となり、明治廿七年三月一日、第三回の総選挙が行はれた。
 私も、今日まで十九回の選挙を経験したが、苦しいと思つたのは、前回の大干渉の時とこの時くらゐのもので、その他は平々他奇なし、と云つてもよい。この時、解散を受けて選挙区へ帰ると、意外にも門野幾之進君が、私と選挙を争ふといふ注進があつたので、私はビツクリした。
 門野君は、私のやうな他郷の風来坊ではなく、選挙区なる鳥羽町の出生者で、しかも名家の御曹子であるのみならず、私の慶応義塾在学時代の教師で、子供心にえらい人だ、自分の手本にしようと思ひこんだ程の人物であるから、私は大いに困つた。門野君の運動者も、この弱点に付け込んで、「門野は、尾崎の教師だ、先生だ。」といふことを盛んに触れ廻つた。それが私にとつては中々の痛手だつた。
 形勢が甚だ面白くない。仕方がないから、私はこんな演説をした。
「左甚五郎の師匠は誰だ。えらい人は皆師匠や教師よりえらくなる筈のものだ。いつまでも教師に劣るやうな人間が、何の役に立つか。」
と、随分でたらめな話し方であるが、かうして居る間に、
「いかにももつともだ。」と云ふ者が、段々出来て来た。すると、先方の運動者から、妥協を申し込んで来た。元来私の選挙区は、一区二人の所で、私は森本確也といふ人を連れ、門野君は自由党の雄弁家奥野市次郎君を携へてゐたので、双方から一名宛当選させる事にすれば門野君も私も共に当選して円満に収まる{*4}わけだから、私の同志中にも、これを希望するものがあつた。そこで、私は又演説した。
「薬なら薬、毒なら毒、いづれか一方に決めたら善からう。薬を一盃、毒も一盃では、余り無意義になりすぎる。森本君に投票する事が厭な人は、私にも投票してくれるな。」
と、この趣意を以て全選挙区を説き廻つて、自由党と奮戦した。その結果は、我々の方が意外に好成績を収め、私と森本君とは、ほとんど同点数で当選した。私はその時、嬉しまぎれに、
  遺憾中原無好敵 牛刀又是割雛雞
と云つたやうな詩を賦したが、相手はどうして雛雞どころか、かねてより畏敬して居た同窓の先輩だから、胸中ひそかに不安をいだいてゐたのである。漢詩は、法螺を吹くには、至極都合のいいものだ。
 かうして当選したのも束の間、臨時議会は、在野党から提出した内閣弾劾上奏案を通過したため、六月二日解散となり、九月一日第四回総選挙が行はれ、再び門野君と選挙場裡に相争ふことゝなつた。しかし、今度は前回の経験もあるので、それ程苦にもせずに勝利を得た。
 この年八月一日、日清戦争の宣戦詔勅が降つたので、挙国一致、伊藤内閣は、なほしばらくその任に留まることゝなつた。

議会史に残る演説

 話は少し遡るが、松方内閣が倒れ、伊藤内閣が成立すると、今度は、その対外政策が軟弱であると云ふ非難が大いに起こつて、それまで政敵であつたところの国民協会までが、我々と協同運動をなす事になり、犬養君の率ゐて居た中国進歩党や、改進党や、革新党などの六派が連合して、対外硬論を唱へ、條約励行を主張して、伊藤内閣に肉薄した。その結果、国論が大いに沸騰して、遂に朝鮮事件となり、私が明治十八年以来主張したところの日清戦争となつた。私にとつては、これほど愉快な事はなかつた。
 こゝに於いて、対外硬の運動は、一段落を告げ、挙国一致して、伊藤内閣をたすける事になり、 天皇陛下は、大本営を広島に移して、親しく軍国の大計を指揮し給はれた。
 今日の人々の中には、「日露戦争の時ですら、 陛下は、東京に在らせられたのに、日清の役に際しては、何故に広島までご出張遊ばされたのであらうか。」と疑ふものもあらう。まことにもつともな疑惑であるが、当時の我が国人は、千四五百年間も、支那を先進大国と仰ぎ、その文化を尊崇し来たつた結果として、朝野の別なく、格外に支那を畏怖してゐたのに反し、支那人の方では、日本を後進の一小国として、軽蔑してゐたのである。故に日清戦争は、我が国人にとつては、真にこれ乾坤一擲の大事件、国家死活の大問題であつた。
 しかるに開戦して見ると、私が十年以前よりしばしば論述して置いた通り、連戦連捷、ほとんど朽ち木をくじくが如き形勢であつた。しかし私の友人中にすら、どうしてかの大国に勝てたのだらう。孔孟の如き聖人の教へを受けて生長し来たつた支那人は、どうしてかくの如く{*5}意気地なしになつたのだらうなどゝ云つて、勝ちながら、自らびつくりしてゐたものが多かつた。 陛下が、大纛を広島まで進めさせ給ひしは、当時に於ける我が国人の思想感情を斟酌し給へる結果と見てよからう。
 我が陸海軍は、予期以上の成功を得て、たちまち清国の屈伏となり、平和談判を開くに至つたが、平和條約の調印が僅かに済むや、たちまち独露仏三国の干渉が来たつて、政府はやむを得ず遼東を還付するに至り、我々は、こゝに再び対外硬の運動を起こすに至つた。
 明治二十九年一月九日、衆議院に於いて、三国干渉に関する上奏案が上程されると、私も対外硬派の先陣を承つて登壇し、三国干渉と閔妃事件をひつさげて演説した。
 この演説が、議会史に残る大雄弁だと、世間から云はれたのには、私はびつくりした。前にも述べた通り、私は子供の時から、しやべることが下手な上に、無言の生活などをしたため、益々下手になり、演説してもいつも評判が悪かつた。そこでツマラヌ反抗心を起こし、趣意さへ通れば、下手でもよいと一人決めをして、別に上手にならうとも考へなかつた。しかるに、議会が開けて意見を述べる必要上、やむを得ず、しやべつて見ると、案外評判がよかつた。そしていつの間にか、犬養君や島田君の如き日本一流の演説者の中に数へられるやうになつた。しかし、議会外の演説では、この両君などゝは、比べものにならないほど、評判が悪かつた。私は、雄弁家にならうと思ひはしなかつたが、演説をするからには、聞く人を是非同意させよう、敵手をば、どうしてもねぢ伏せようといふ気が強かつたため、世間でも、遂に私の演説を認めるやうになつたのだらう。外国では、議会内の雄弁家と議会外の雄弁家とは、全然相違する事もあるものとされてゐるが、日本でもそのやうだ。私がその一例だ。
 余談にわたつたが、さて対外硬運動が、再び盛んになると、小党分立では、活動に不便だ。合同しようと云ふ事になり、明治二十九年三月一日、さきの六派中、国民協会を除き、その他の各派は合同して、進歩党を組織した。
 自由党はこれに対抗する必要上、伊藤伯と提携し、こゝに初めて、「肝胆相照」と言ふ言葉が政界の流行語となつた。伊藤内閣と自由党とが、提携する以前の事であつたが、我々六派の勢ひが強く、事ごとに政府と衝突して、ほとんど行き詰まりの姿となつた時、一度双方打ち解けて話をしたら何とか解決の道が開けるだらうといふことで、政府側から伊藤伯、陸奥子、渡辺国武子などが出て、折衝する事になつた。六派側からは河島醇君、犬養君、それに私、その他の人々が代表者となつて、談判を開いた。しかし、容易に折り合はない。折衝数回を重ねた後、一夜、院内の一室で、冬の寒い晩であつたから、皆がストーブの前に立つて、暖まりながら、雑談にふけつてゐた。その時、伊藤首相が、憲法取り調べのため、欧洲に派遣された当時の思ひ出話を始めると、河島醇君は、俄かにおとなしくなつて、この調子では、肝心の談判が出来なくなりはせぬかと思はれる程に去勢{*6}されてしまつた。河島君は、伊藤伯の随員として、憲法取り調べのため、欧洲に行つた関係から、急に昔の長官と随員といふ記憶が起こつて、ツイ人情にほだされたのだらう。私は、これを興味深く感じた。
 それから又、ある日談判が行き悩んだ末の雑談中に、伊藤首相が、
「こんなに世の中が面倒では仕方がない。一ツソのこと、刺客が自分を殺してくれると、ありがたいが。」
と語る刹那に、突然、一人の荒武者議員が、室内に飛び込んで来た。伊藤伯は、びつくりしたやうな顔付きで、四辺を見廻した。タツタ今、「誰か自分を殺してくれゝばよいが{*7}。」と云つたばかりの伊藤伯のこの態度を見て、私はすこぶる面白く思つた。
 それから数回談判を重ねた末、遂に各省に分かれて、各別に交渉することゝなつたが、私はその時陸奥外務大臣と折衝した。陸奥子は口を開いて、
「君と折衝するには、余りに問題が小さすぎる。こんな予算案くらゐで折衝するのは、馬鹿らしいぢやないか。」
などと云ひ、その話しぶりは、甚だ鋭かつた。私は子との談判につき、あたかも薄いきぬをまとつていばらの中を歩行するが如き感じをした。かくて種々面倒を経て、ほゞ折り合ひが付き、遂に局面一変して、政府との妥協が成立したのであるが、その当時、「局面一変」といふ言葉が、大いに流行し、婦女子までもこれを口にするやうになつた。この言葉を拵へたのは、当時世間では、木堂か愕堂だらうなどと云つたが、さうではない。多分伊藤伯であつたらう。
 かうして居る間に、伊藤内閣が、いよいよ不人気となると、与論は、進歩党の大隈と薩派の松方とを接近せしむるを以て、救時の良策と考へるやうになつた。主としてこの考案を鼓吹したのは、徳富君の国民新聞であつた。私なども、松方伯の信用と大隈伯の、才略と合はせたなら、立派な内閣が出来るだらうと考へて、その実現に努力した。ところで、この松隈内閣の組織の仕方は一風変つたものであつた。

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校訂者注
 1:底本は、「権勢を奮(ふる)ひ」。
 2:底本は、「人でゝも」。
 3:底本は、「用ひた」。
 4:底本は、「円満(ゑんまん)に治まる」。
 5:底本は、「如斯(かくのごとく)」。
 6:底本は、「虚勢(きよせい)」。
 7:底本は、「よいが、」。