松隈内閣の斡旋

 第二次伊藤内閣が辞職すると、大命は松方伯に降つた。普通なら、伯は閣僚全部の顔ぶれを揃へて、御裁可を奏請すべき筈であらうが、多年大隈伯の下僚として働いた関係上、まづ自分が総理大臣を拝命した後、大隈伯に謀るを以て、便宜と考へたものと見え、総理初め内務、大蔵その他の閣員を決定した後、大隈伯に相談した。当時大隈伯は、民間の一政治家で、まだ平大臣にもなつてゐなかつたが、松方首相以下を前にして、内治外交全般にわたつて、将来の方針を、滔々と述べ立てたさうだ。これには、皆びつくりして、誰であつたか、
「総理大臣がこつちに居られますぞ。」
と不平を爆発させると、樺山大将が、大音声で、
「政界の大先輩たる大隈伯のご意見に対して、とやかく言ふことは心得違ひである。」
と号令もどきに叫んださうだ。
 こんなわけで、万事が意の如く運ばないものだから、大隈伯はその夜遅く帰邸すると、吾々を集めて、
「どうも意見が合はない。内閣は造らぬ。自分は入らぬ。」
と言はれた。ところが私共は、この際是非とも松隈内閣を造らなければ、松方派の人々に対しても、又その他の人々に対しても、義理が済まないほど深入りをして居つた。ことに松方伯は、大隈伯の入閣を信じて、総理大臣をお受けした事だから、吾々は、大隈伯に是非とも入閣して戴きたいと迫つた。特に短慮な私は、只一途に松方派に対して、義理が済まないとのみ思ひ込み、
「伯にしていよいよ入閣を肯んぜざるに於いては、私は伯と政治関係を断ち、一人孤立しても、松方内閣を援助すべし。」と断言して、大隈伯の枕頭を去つた。
 伯は、組閣会議の席上激烈なる歯痛を起こし、帰邸後直ちに臥床されてゐたのである。私が悲痛の決心を抱いて、別室に去ると、かねて私と余り良好の関係のない伯爵夫人が、私に面会したいと云ふ事であつた。不思議に考へながら、面会すると、夫人は、
「歯痛が軽くなり次第、私が大隈を説きますから、余り短気を起こさないで、しばらくお待ち下さい。」と云はれた。夫人の勧説が、奏効したのか、但しは他の原因あつての事かは知らないが、とにかく伯は、遂に入閣を諾し、外務大臣兼農商務大臣となつた。
 かくて明治二十九年九月、松隈内閣が成立すると、吾々は、英吉利に倣つて、政務次官の設置を主張したのであつたが、政府はこれを好まず、翌年八月に至つて、渋々ながら各省一名づつの勅任参事官を設置した。私は外務省の参事官となつた。議会が開ければ、政府委員にするつもりではあつたらうが、別に仕事を与へなかつた。
 そこで私は、この機会に外交文書を片端から閲覧して、外交上の知識を得ることに努めたが、最も面白く感じたのは、陸奥子と青木子の往復文書であつた。明治二十一年井上伯が外務大臣の頃、青木子は外務次官で、陸奥子はその下に弁理公使をして居つたが、その後陸奥子は外務大臣となり、青木子は駐独公使となつた。位置は転倒しても、青木子は以前に陸奥子を指揮した時代の気分が改まらないから、やゝもすれば、伯林から、外務大臣に向かつて、訓令を下すやうな電報を送る事がたびたびあつた。陸奥子はそれを気にして、その都度、
「訓令は以後御免を蒙る。」などと返電してゐる。なかんづく面白いのは、日清戦争の末期にあたり、三国干渉の来さうな雲行きを心配して、陸奥子は、しきりに列国に駐在する公使に電報を発して、情報を求めた。これに対し青木子は、
「拙者にして、いやしくもこの国に在る以上は、独逸が日本に反対するやうなことは、断じてやらせない。ご安心あれ。」と云ふ意味を返電して居る。ところが、この電報到着後間もなく、独逸が三国干渉の発頭人となつて、活躍した。この時陸奥子は直ちに青木子に、
「独逸が日本に反対することなしとの前電の意味は何か。」と、からかひの電報を送つてゐる。
 又明治初年以来、支那との外交談判の文書も、手の届く限り閲覧したが、言葉の上では、常に勝ち目がなかつたやうだ。たゞ、「やむなくんば干戈に訴へよう。」といふ我が最後の決心のため、どうかかうか支那を引き込ましてゐる。
 かの有名な副島伯の北京談判には、世に知られない一つの逸話がある。台湾征伐その他に参加して、一時大いに働いた李仙得{*1}将軍といふ人があつた。この人は、明治政府に雇はれて種々{*2}の働きをしたが、副島伯が北京に赴いた時も、顧問として同行した。しかるに将軍が米国の領事として、厦門に居た頃、ある支那の役人が、外国居留地の井戸に毒を撒きに来た。多分排外思想の結果、支那全土に在住する外国人を毒殺するつもりであつたらう。この毒薬投入の犯人を捕らへたのが、当時の米国領事李仙得将軍である。ところがこの犯人を見ると、一寸気の利いた男なので、深くその罪を糾弾せず、恩を着せて放還した。さてこの将軍が、副島伯に従つて北京に行くと、支那外務省の大官中に、右の毒撒き先生を発見した。李仙得将軍は、早速これをとらへて、日本のために相当の便宜を図らなければ、旧悪を暴露するぞ、と云ふやうな意味を諷したらしい。この支那大官の裏面工作が、大いに奏効して、副島伯の北京談判は成功したのだといふ事だ。こんなことは、もとより外務省の文書にはなかつたが、その将軍の直話だからついでに書いて置く。この人は、フランス生まれの米国人で、一種の策士であつた。すこぶる日本びいきの人で、種々日本政府に献策したが、副島、大隈両伯の辞職後は、ほとんど用ゐ{*3}られなかつたので、一時は愛想をつかして、米国に引き揚げたが、再び来朝し、小石川指ケ谷町に卜居してゐた。私と共に條約改正に反対したのは、その頃である。この運動は成功したが、私が、保安條例に因つて東京を逐はれたことは、既に述べた通りである。その後間もなく逐客となつて、紐育に遊ぶと、将軍の令息は私を迎へ、種々世話をしてくれた。この人は銀行員であつた。将軍は、その後朝鮮政府に聘せられ、京城に移つたが、遂にその地で客死した。この頃有名な歌手関屋敏子嬢は、李将軍の孫である。

樺山、松方を見限る

 私が外務参事官をして居つた頃の、明治三十年の外務省は、狭隘なためでもあつたらうが、私ははしご段脇の行灯部屋のやうな所に入れられた。しかるに私の室へは、大臣の大隈伯も、次官の小村氏も、時々来訪するから、外務省の下僚は、驚異の眼を見張つた。
 私が外務省時代に最も全省を驚かしたのは、栃鎮の怒罵であつたらう。栃木鎮台といふあだ名を得た田中正造君は、大声を発して人を罵つたり、或は腕力をふるつて友人をなぐつたりすることが、得意であつた。
 ある日、鉱毒問題をひつさげて、私に相談に来たが、私は田中君の言ふことにことごとくは、賛成出来なかつた。すると栃鎮先生、例の性癖を出して私を攻撃し、全省に轟き渡るやうな大声を発して私を罵つた。田中君と私とは、比較的仲のよい方ではあつたが、時々衝突した。島田三郎君とは昵懇の間柄で、時々島田君の家に泊まつては、しらみを土産に残して行つた。細君や下女がその苦情を云ふと、「しらみは志士の勲章だ」と怒号して、その心得違ひを叱り飛ばしたと云ふ痛快な男である。
 この田中君が、ある時何かの間違ひで怒り出し、その日の宴会へ、「今日は必ず尾崎を殴る。」と声言して臨んで来た。私は、殴られたら、彼が終身忘れることの出来ない痕跡を与へて置かうと考へた。それは、彼にとつては、しらみ以上の勲章になるだらうと思つたからである。その方法として、彼が殴りかけたら、親指を彼の眼窩に突つ込んで、一生視力を失ふほどの怪我をさせてやらうと思つたのである。若い時にはつまらないことを考へるものだ。私がこの決心を抱いて待ち構へてゐると、果たせるかな、彼は酒気を帯び、すこぶる不穏の顔色を以て、私の前に来て坐つた。しばしば殴りさうな姿勢を示したが、容易に打つて掛からなかつた。彼も中々の慧眼者で、私が何か容易ならぬ決心をしてゐることを看破したのであらう。その時私の隣席に坐つてゐた守谷此助君が、田中君にひと言話し掛けると、
「この野郎ツ。」と言ひざま、守屋君を殴つた。守屋君は、何の事か一切分らず驚いてゐたが、気の毒に、私の代理に殴られてくれたのだ。
 松隈内閣の内務大臣は、樺山伯であつた。伯は商船に座乗して、支那艦隊を撃破してから、東洋のネルソンと呼ばれ、又西郷大久保両氏没後の薩派の第一人者と云はれ、特に然諾を重んずるといふ評判がすこぶる高かつたから、私共は、この人を最も信頼し、政府側の代表者としてもらつて、種々折衝した。進歩党側の代表者は、大東義徹、犬養毅の両君と、私であつた。ところがしばしば交渉して見ると、樺山伯との約束が行はれないことが度々あつた。その頃問題となつてゐたものゝ中に、久しい間、吾々を苦しめて来た集会政社法や、新聞紙條例などを改正して、言論の自由を拡張しようといふ事があつた。これについては、樺山内相も、吾々の主張をよく諒解してくれたから、大丈夫と思つてゐると、ある時、「二十六世紀事件」から、日本新聞の発行停止説が伝へられた。何でも明治二十九年の十一月頃であつたと思ふ。
 いはゆる「二十六世紀事件」とは、松隈内閣の書記官長高橋健三君が、大阪に居た時、主宰した雑誌「二十六世紀」が、「宮内大臣論」をのせ、土方宮相が伊藤侯と結託して、多年の間不正を働いた由を掲げ、その罪を糾弾したのであるが、日本新聞もこれを転載して、土方、伊藤両氏を攻撃した事件である。
 私はその時、地方遊説に出掛けるところであつたが、捨てゝおけないので、樺山内相に面会して、その真否を確かめると、伯は、
「断じて発行停止などはしない。諸君と約束した以上、樺山の首のある限り、そんなことはせぬ。」
とて、自分の首筋を手で叩きながら明言した。私は、安心して地方へ出掛け、ある所で、
「言論集会の自由は、今日充分保障されてある」と、得意になつて、松方内閣礼讃の演説をしてゐると、その真つ最中に、東京から、「日本新聞発行停止」といふ電報が来た。「二十六世紀」ももちろん発行停止となつた。私は、その時全く茫然としたが、樺山伯には、吾々との交渉中、往々そんなことがあつた。
 かくて我々は皆、樺山伯には愛想をつかしたが、特に私は、年が若くて血気にはやつてゐた頃なので、「かくの如き人物は政界から葬れ」と云つて、大いに攻撃した。
 そのためでもあるまいが、一時は、「大久保甲東の再生」とまで、世間から褒められた樺山伯の人気は、漸次衰へて、遂にはその盛名を失墜するに至つた。それはとにかく、松方内閣の失態は、次第に増加し、我々同志に代つて、内閣を監視するつもりで就職したところの書記官長高橋健三君も、法制局長官神鞭知常君も、
「到底監視の役目を尽くす事は出来ない。いかに確実に公務上の約束をして置いても、一夜の内に変転してしまふ{*4}。この上は、夜中首相と同衾して、監視する人を得ざる限りは、約束を守らせる事は出来ない。」
と明言して、辞意を漏らすに至つた。先入が主となる性格ならば、吾々両人の力で何とか出来ようが、後入主となる性格だから、夜中の番人が必要だと云ふのである。松方後入斎といふあだ名は、この時に付けられたのだ。事こゝに至つては、大隈伯の意見に反対して、強ひて伯の入閣を促し、かつ最も熱心に薩派との提携を主張した私も、その過ちを悔いざるを得なかつた。

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校訂者注
 1:底本は、「李仙得(ル・ジアンドル)」。
 2:底本は、「種種(しゆじゆ)」。
 3:底本は、「用ひられなかつたので」。
 4:底本は、「変転(へんてん)して了う」。