進歩、自由両党合同

 吾々が松隈内閣を支持したのは、進歩党と薩派との提携によつて、吾々の主義主張を実現させるためであつたが、相手の方では、明治二十四年の第一次松方内閣の時、多少政党員を操縦した経験があるから、主義主張以外に政党員を物質的便益で手なづけようといふ腹があつたものと見え、暗にそれを匂はせたさうだ。もちろん吾々同志中には、これに応ずるものがなかつた。その上、松方伯や樺山伯が、到底頼むに足らぬ事が判かつたから、かたがた以て私は、松隈内閣に失望し、結局この内閣は倒さなければならぬと決意した。
 その頃、私は外務省の参事官であつたが、常に進歩党本部へ出入りして、党務をも担当してゐたから、もちろん内閣打倒の決議にも参加した。これが政府部内で問題となり、早く辞表を出さないと懲戒免職にされると忠告してくれた人もあつた。私は辞職も、免職も結果は同一であると云つたら、その人は懲戒免職になると、他日再び任官する時に、差し支へが起こる由を教へてくれたが、私は差し支えが起こつてもよいと云つて、慌てゝ辞表を出さなかつたため、遂に懲戒免職にされた。
 これより先、主義政策の行はれない内閣は、是非倒さねばならぬと考へ、大隈伯に、
「とても駄目だから辞表を出して下さい。」
と請求すると、大隈伯は、
「どうだ、判つたか。初めから見込みがないと云ふのに、君達は是非やれと云つて僕に迫つたが如何だ。今日の状態は。」と云つて笑はれた。
 この内閣のために尽力した仲間の中にも、見切りを付けた者と、又付けない者との両派があつた。私の推薦によつて官職に就いた進歩党の連中は、大抵私と共に辞職したが、独り宗像知事は踏み留まつた。彼は、
「一旦提携した以上、壇の浦まで一緒に行く。」
との意味の手紙を私にくれた。これが「宗像壇の浦」といふあだ名を得た原因である。又長谷場純孝、徳富猪一郎の両君も、踏み留まつて、吾々と手を別つことになつたが、この内閣は、大隈伯の辞職後間もなく倒れて、第三次の伊藤内閣が出来た。
 伊藤侯は、進歩党と自由党に提携を求めたが、閣僚の振り当てで、この交渉は不成立に終はつた。そこで再び民党合同論が起こり、明治三十一年六月二十二日進歩党と自由党とは、旧怨を捨てて合同し、「憲政党」を組織した。
 この時の藩閥の狼狽は、一通りでなかつた。山県侯の如きは、憲法中止説さへ持ち出したと云はれたが、それはとにかく、両党の合同のため、伊藤内閣は、在職僅か六ケ月で辞職し、その後任として憲政党の首領たる大隈、板垣両伯を奏薦した。
 これが我が国に於ける政党内閣の発端で、実に明治三十一年六月廿七日である。
 後から考へれば、伊藤侯の方には、新政党の陣容未だ成らざるにあたり、城を明け渡して、これを撹乱するためのかけ引きもあつたのであらうが、我々は深く思慮もせず、直ちに大命を奉じて隈板内閣を組織した。
 元来自由党と進歩党とが、離るれば藩閥が栄え、連合もしくは合同すれば、衰へることは、初めから分り切つた事であるが、或は政府の離間策に乗り、或は党員同志の嫉妬心から、幾度か、この両党は、接近せんとして常に離れた。明治二十三年国会開設直前にも、九州改進党の山田武甫、嘉悦氏房、武富時敏、長谷場純孝らの諸君が、中心となつて、自由、改進両党の合同を主張し、これが大層人気に投じて、ほぼ合同談がまとまりかけた事がある。その時は新党の名称まで、「立憲」の二字を改進党から取り、「自由党」の三字を附して「立憲自由党」と称する事に決したが、考へて見ると、改進党は、條約改正失敗の後をうけて、非常な悲運にあつた。一方自由党は、大同団結の大騒ぎの後に復活して、勢ひ盛んであつたから、こゝで合同すれば、とても両者は対等の位置を保持することは出来ない。つまるところは、一旦合同してもたちまち分裂するに相違ないと、私は考へてこれに反対した。特に、
「自由党といふ名を附する以上、合同ではなく、改進党の降伏である。」と云つて、大いに反対した。すると九州改進党を除く外は、いづれも私の主張に賛成して、改進党は合同の仲間入りをせぬ事になつたが、その後立憲自由党は星君の意見で、「立憲」の二字を削つて、純然たる自由党に還つてしまつた。
 この時は別として、自由、改進両党の接近を常に阻止して居たのは、星亨君であつた。ことに星君は、大隈伯が大嫌ひで、何かと云へば、すぐ伯を攻撃した。しかし、大隈伯は、これを気にするでもなく、かへつて星君と私共との関係を緩和させよう{*1}とでも思はれたのか、
「君達は、さう星を悪く云ふものでない。」などと語られた。又星君の米国駐箚公使時代(明治二十九年から三十年八月まで)に、大隈伯は二度外相になつたが、星君から送つて来る報告書を私共に示して、
「星は、こんなに勉強してゐる。」と、推賞された事もたびたびあつた。

初めて台閣に列す

 明治三十年頃には、私も政界の有力者の中に数へられるやうになつたが、金の方は一向自由にならず、相変らず貧乏人の評判があつたものと見え、ある保険会社の勧誘員が来て、足下は貧乏だ。死ぬと家族が葬式を出すのに困るから、保険に加入して置け。」
と云ふやうな意味を述べて、しきりに加入を勧めた。私は無礼な申し方と思ひながら、からかひ半分に、
「イヤ{*2}その心配はご無用である。自分は死ねば、必ず国葬になるから、葬式の費用などはいらない。」
と云つて追ひ帰した。ところが、それが問題になつて、「尾崎国葬」と後々までも、私をからかふ材料に使はれた。明治三十一年六月隈板内閣が出来て、私が文部大臣になると、ある同情者が私のところに来たり、真面目になつて、
「尾崎さんいよいよ国葬の時期が近づきました。誠におめでたい事です。」と祝詞を述べた。
 私は江戸払ひの折の大臣遊びから、十年目に、今度は本当の大臣となつたが、この時大隈伯は、初め私を司法大臣に充て、文部大臣には、大東義徹君を据ゑる考へであつた。しかるに大東君は文部省は多くの学者を相手にしなければならないが、自分はそれが困ると云ふ。私が勧説に行くと大東君は、
「元来入閣は好まぬが、自分は司法省廃止の意見を持つてゐるから、これを承諾してくれるなら入閣してもよい。」
と言つた。そこで私は、
「自分は文部省でも司法省でも構はぬ。役割の変更は大隈伯に相談しよう。今日こゝで、司法省廃止の約束は出来ぬが、君が入閣後司法省廃止の案を立て、それが適当なものなら、私は自分が賛成するのみならず、他人をも勧誘しよう{*3}。ともかく入閣し給へ。」
と、説いて入閣を承諾させた。当時司法省は、山県系で固めてゐたから、こんな事を考へたのであらう。それから大東君は司法大臣となつたが、なかなか廃止案を出さない。たまたま行政整理委員会で、控訴院を併合し、その数を減ずる話が出たけれど、大東君は、それにも賛成しなかつた。すべてその局に当たると、周囲で現状維持のみを主張するから、これに動かされて、自分の意見を行ふのに躊躇するやうになるものと見え、さすがの大東君も司法省廃止案をば、遂に提出せずにしまつた。
 こんな関係で、私は文部大臣に廻つたが、その時平岡浩太郎君が、
「柏田盛文君は、教育家として相当経歴のある人物だから、次官に採用してくれまいか。」
と、申し込んで来た。柏田君は、私と大分年齢が違つてゐたが、慶応義塾では同窓で、文章も達者であつた。明治二十五年の選挙大干渉の時、政府党となつて、非常な激戦の後、衆議院議員に当選し、意気揚々と政界に乗り出し、しばらくは薩派一方の驍将として中々幅を利かせて居たが、松方内閣を支持して居たため、その没落後は、ほとんど手も足も出せない悲境に陥つて居た。しかし、私はその人柄を知つてゐたから、平岡君の友情に同意し、早速柏田君の寓居を訪ねた。柏田君は、私の不意の訪問に大層驚いたが、私から、
「次官になつてくれ。」
と云はれたので、ますます驚き、ほとんど言葉の出しやうもない様子であつた。やゝあつて、
「それには何か條件があるか。」
と心配さうに尋ねた。私は、
「何も條件はないが、次官になる以上、大臣のお釜を狙ふことは相ならぬ。」
と戯れて言つた。と云ふのは、彼がまだ慶応義塾在学中、薩人の常として、盛んに少年の後を付け狙つたことや、私も彼に付け狙はれた一人であることなどを、学友から聞かされて居たので、柏田君の、余りにも心配さうな顔を見て気の毒に思ひ、戯れたのである。
 私が文部大臣に就任すると、帝国大学の連中は、総長菊池大麓君を初めとして、続々挨拶にやつて来た。その時、私は、「大東君が怖れて、文相となることを憚つたのは、この連中のためだな」と、思つたから、その人々に向かつて、
「君方は色々な難題を持ち出して、歴代の文相をイヂメル{*4}といふ評判だが、ドンナ難題を持つてゐるのか、ことごとく出して見たまへ。」
と、述べた。菊池総長は、
「イゝエ、決してそんな事はありません。」
と答へ、他の人々は、黙して総長と私との雑談を聞いてゐた。その時、山川健次郎君が、無愛想な語勢と音調で、
「私には何にもご用はないですか。なければ、帰ります。」
と言ふと、菊池君は、俄かに自分の話を中止して、席を山川君に譲つたので、私は、「ハハア、この人は教授中の威望家だな。」と思つた。果たせるかな、山川
君は、他年大学総長となつたのみならず、歴代の総長中でも世間から特に重んぜられたやうだ。
 さて、隈板内閣は、我が憲政史上に於ける最初の政党内閣であつたが、憲政党は合同したばかりで、何分にもまだ訓練が届いて居らぬ。それでも第一回の内閣会議に際し、板垣伯は、
「他日党員がどんなに軋轢しても、自分と大隈伯とは終始かはらぬ。二人は決して争はぬことに、この際血を啜つて約束して置かう。」
と、述べられた。私はこれを聞いて、「尤の提議だ。」と感心した。ところが初めの間こそ、皆さういふ考へで居たが、数週間ならずして、役人の任命に関し競争が起こつた。これがいよいよ激しくなりつゝある間に、星君が八月十五日亜米利加から突如として帰朝した。政府は星君に帰朝の許可を与へなかつたが、故国の風雲を臨んでは、そんな事に頓着する人ではない。彼は届けつぱなしで帰朝し、憲政党内の軋轢をいよいよ激烈ならしめた。
 星君は自分が帰れば、外務大臣になれると信じ、又大隈伯もその気があつたやうだ。しかし、私は強く星君の入閣に反対した。星君は喧嘩好きな人であるから、内に入れても、外に置いても、喧嘩するに決まつて居る。内に入れて喧嘩をするよりも、外に置いて喧嘩をした方が、うるさくないと考へたためである。すると大隈伯は、
「内に入れて置けば、さう喧嘩もすまいよ。」と云つて、しきりになだめられたが、私は断乎として反対した。大隈伯は、私の真意を誤解したのか、ある日雑談の際、私に、
「君は外務大臣にならないか。」
と云はれた。私には、もちろんそんな考へは、いさゝかもなかつたから、直ちにこれを辞退した。
 かくて星君の入閣は行き悩みとなると、星君は、憲政党分裂の策動を始めた。薩長藩閥も、この形勢を見て、憲政党撹乱、大隈内閣打倒の魔手を振るはんとするに至つた時、図らずも私の「共和演説」事件が起こつたので、倒閣陰謀は、急に発展することゝなつた。

文部大臣

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校訂者注
 1:底本は、「緩和させやう」。
 2:底本は、「イや」。
 3:底本は、「勧誘(くわんいう)しやう」。
 4:底本は、「イジメル」。