いはゆる「共和演説」の真相

 明治三十一年八月二十二日、私は帝国教育会主催の全国小学校教員講習会に招かれて、一場の演説をなした。私は、かねてから日本の社会的風潮が、余り拝金主義になり過ぎてゐるのを遺憾に思つて居たから、
「近来、世間にはいたづらに金力を尊んで、節義を思はざる者が多い。かくの如くんば帝国の将来は深く憂慮に堪へない。」と、拝見主義を排斥し、道義の大切なことを演説した。その比喩に、世人はかの米国を拝金宗の本家本元の如く思つてゐるが、米国では、金があるために大統領になつたものは一人もない。歴代の大統領は、どちらかと云へば貧乏人の方が多いと述べた後、日本では共和政治を行ふ気遣ひはないが、今にして拝金的潮流を阻止せずんば、夢に他年一日共和政治になつたと仮定したら、恐らくは三井、三菱の主人は、大統領の候補に推されるであらう、といふ意味を説いた。ところが、当時藩閥の御用新聞であつた東京日々新聞が、この演説をとらへて、私を共和主義者と吹聴したため、藩閥者流は云ふに及ばず、自由派の人々まで、尾崎排撃の火の手を挙げた。
 しかし、私は言ふまでもなく、共和政治を主張したものではなく、かへつてそれとは正反対の意味で道義奨励の演説をしたのである。現に当日演説を聴いた数百名の教育者は、ことごとく拍手喝采してゐたけれども、とにかく問題となつたのだから、私は大隈伯に、
「閣員の一人が、不都合な演説をしたと云ふ非難がある以上、その事実を一応取り調べられた上、相当の処置を施すべきであらう。」と進言した。幸ひ、私の演説は、速記がとつてあり、その速記録は帝国教育会に厳重保管させて置いたから、内閣書記官が、御用速記者を伴ひ、帝国教育会に行つて、これを調べて見ると、「日本が共和国であると夢見たならば、」といふ仮定の話であつて、世間で喧伝するが如き言説は、少しもなかつた。こゝに於いて反対者は、
「尾崎は速記録を改ざんした。」と言ひ出した。かうなれば{*1}、もう私の勝ちである。火の手は漸次鎮まつて来た。
 しかるにその頃、内務大臣板垣伯が、監獄の教誨師に耶蘇教徒を任命した事から、仏敵問題が起こり、大谷派本願寺の石川舜台などは、仏敵板垣といふ文書を配布して、大いに伯を憤慨せしめた。それと同時に、万朝報に、「偽勤王偽忠臣」と題する社説が出た。それは虚偽の忠君愛国を非難したのであつたが、宮内省及び政府の一部では、これを曲解して、「勤王は偽である、愛国も偽である。」と論じたが如く非難し、あまつさへ、これを以て尾崎の教唆によるものと言ひ触らした。甚だしいのは、私が共和演説を非難された腹いせに、万朝報にあんなことを書かせたのだと云つて、わざわざ私の所へ抗議に来た人もあつた。私はそれまでその論文を読んでゐなかつたので、早速目を通したが、別に問題となるべき筋のものではなく、又たとひ悪いにしても、これを取り締まるのは、内務大臣であるから、その旨を説明して帰した。その男は、板垣内相の所へも行つたさうだが、伯も取り合はなかつたらしい。しかし各種の問題を以て、板垣伯を攻めるものはかなり多く、神経質な伯は、ずいぶん困つてゐられたやうだ。その時、局面を一変して伯を窮地より救ひ出すために、誰か入れ知恵をしたらしい。その結果でもあらうか、板垣伯は、ある日突然参内して、
「尾崎とは両立出来ない。」旨を上奏された。
 私の父が、断金隊と称する甲武の浪人組を率ゐ{*2}、板垣配下に属して、会津征伐に参加した関係から、私は幼少の頃より、板垣伯を崇敬すべく教育された。故に政党対立の関係より、伯の率ゐる{*3}自由党をば攻撃したが、伯に対しては、常に尊敬の念慮を抱いてゐた。特に、伯が組閣の初めにあたつて、大隈伯と血を啜つて終始変らぬやうに誓約しよう{*4}と発議されたのに感服して、ますます尊敬の念を高めた。それらのためでもあらうか、伯と私とは閣僚中でも、大いに仲のよい方で、閣議散会の際などには、常に一緒に退出したのであつた。
 しかるに、ある日、閣議は終はり他の閣員は皆退出したのに、板垣伯だけが、まだ残留してゐるから、私は、常例の如く伯と相携へて退出しようと思つて、
「もう退出しようではありませんか。」
と伯を促すと、伯は、
「これから参内しなければならぬ故、ひと足先にお帰り下さい。」と云はれ、何となく不安の体に見えたが、私は気に留めずに一人で、退出した。
 これも、私が、板垣伯に感服した一つの原因であるが、伯は、維新の元勲の一人で、つとに 陛下に親近してゐられたにも拘らず、 陛下に対しては、格外に畏敬の情を抱き、単独で参内上奏する事を憚り、常に閣僚中に同行者を求める習癖があつた。しかるにこの日に限り、一人残つて参内するのは、変なやうには感じたが、この感じ以上には、私は何にも思意せずに伯と別れた。何ぞ図らん、この参内こそ、伯が、私と同一内閣に居る事は出来ないと云ふ上奏をなすための参内ならんとは。
 そんな事とはツユ知らず、共和演説の不当攻撃に対しては、私は既に全勝を得た事と信じて安心してゐると、侍従職幹事岩倉具定公が私を官邸に訪問して、簡単に板垣伯上奏の顛末を述べ、かつ 陛下の御思し召しとして、
「先輩たる板垣伯が両立出来ぬと云はれる以上は、事の如何に拘らず、後輩たる尾崎は退いて、内閣を全うすべきであらう。」と云ふ意味の御沙汰を伝へられた。

隈板内閣瓦解

 岩倉侍従職幹事から、御沙汰を伝へ承ると、私は侍従に対して、
「共和演説の罪責を負へといふ御思し召しなら、私は辞職するより、むしろ国法に拠つて処分せられ、身を以て後の臣子たる者の鑑戒とならんことを希望する。その方が君国のため、適当のご処分であらう。」
といふ意味の事を説いた。侍従は、
「決して共和演説のためではない。たゞ先輩たる板垣伯が、両立し難いと上奏されたためである。」
と繰り返して明言された。私は常に辞表を懐にしてゐる癖があつたから、これを侍従に示し、
「この通り常に用意してあるから、辞表は何時でも捧呈致しますが、共和演説のためとあつては、出しかねます。」
と言つた。侍従は重ねて、
「そのためではない。」
と答へて帰られた。
 そこで私は辞表を捧呈する決心をなし、大隈首相を訪問して、
「政敵が私を攻撃するのは、将を倒さんと欲して、まづ馬を射るの戦法に過ぎない。その目指すところは私ではなく、閣下{*5}であると思ふ。何とかご考慮あつてしかるべき」旨を述べた(共同防禦か総辞職か、何れの道かを取るを適当と考へたのである)。首相は例の楽観的性癖で、
「イヤ君さへ穏やかに辞職してくれゝば、後は大丈夫だ。」
と答へられた。私はさうは思はなかつたが、首相がさう思つてゐる以上は、仕方がないから、後任に犬養君を薦めて、十月二十二日大隈伯に辞表を渡した。
 私の共和演説問題が、やかましくなつた時、私は試に警視庁に向かつて、該事件に関する報告を提出させてみた。しかるにその報告書には、跡方もない虚言が羅列してあつて、その目的は私を陥れるため故意に作製したものゝやうに思はれた。
 その後幾多の年月を経て、友人秋山定輔君の露探事件といふ問題が起こつた時も、私はその根拠となつた警視庁の秘密報告を見たが、それも全然無根の捏造書であつた。その一例を挙げれば、秋山君は某公使館員の妾宅に於いて、露人と密会したと書いてあつたが、これは欧米人は我が国人と違ひ、いかなる場合に於いても、妾宅などで、第三者と会合するものでない事を知らない人の捏造説であること明白だ。コンナ報告を根拠として、罪の有無や、事の曲直を判断されて堪るものではない。
 又共和演説問題について、私が今日でもなほ遺憾に思つてゐるのは、教育者の態度である。帝国教育会に於いて、私の演説を聞いて、拍手喝采した五、六百名の聴衆は、いづれも皆教育者であつたが、右の演説に対して無根の非難が起こつた時に、公然立つてこれを論議したものは、一人もなかつた。私席に於いて、「お気の毒に堪へない」旨を述べたものは、数名あつたが、その意味を公表したものは、私の知る限り、一人もなかつた。私は彼らには教育者たる資格が欠けてゐると思つたが、ソンナ事を云ふと、私が彼らの応援を求めるかのやうに邪推される患ひがあるから、私はその後二十年ばかりの間、一言もこの事実を公表しなかつた。もしこれが欧米人であつたら、必ず事実を公表して、無根の攻撃を反駁したであらう。その例証は沢山ある。
 私の文相在職は、僅か四、五ケ月の短日月に過ぎなかつたから、これぞと指摘すべき業績は何もないが、
 (一)当時教育者の言論を極度に束縛してあつたところの幾多の箝口訓令なるものをことごとく廃棄した事。
 (二)大蔵省の歳入予算計上法を改正し、前三ケ年平均に増加率をも加算させた事。
 (三)日本銀行の某局長山本達雄氏を副総裁に任命せんとする大蔵省の提議に対し、副総裁をして総裁の職務を代行せしむるを不可とし、氏を総裁となすべし
と主張して、その通りになつた事。
などは、今日もなほ記憶に残つてゐる。その他には何もなかつたやうだ。
 さて、首相が私の後任として犬養君を発議すると、果たせるかな自由党出身の三大臣は、これに反対した。首相はやむを得ず首相の職権(そんな職権があるか、ないか、私は知らない)を以て、犬養君を奏薦した。私はひそかに御裁可はなからうかと疑惧したが、案に相違して、御裁可が下つた。この時、私は、
「自分は、まだ政界の情偽に通じてゐない。やはり大隈伯の方が、目先が利いてゐる。この分では、自分の辞職のため、大隈内閣は、持ちこたへる事が出来さうだ。善い塩梅だ。」と思つた。
 犬養君の文相は、御裁可になつたが、その奏薦と同時に提出した板垣伯はじめ自由党三大臣の辞表は、御裁可にならない。大隈伯の楽観説よりも、私の悲観説の方が的中して、私の辞職で、大隈内閣を救ふ事は出来なかつた。政敵の目標は、私ではなくして、大隈伯であつた。二日か三日待つてる間に、敵も味方も、共に暗中飛躍をしたやうだが、自由党三大臣の辞表の御裁可は、遂に降らなかつた。そこで大隈伯は、やむなく内閣不統一の責めを負つて、辞表を捧呈した。かくて我が国の最初の政党内閣は、在職僅か五ケ月足らずで、たちまち瓦解してしまつた。時は明治三十一年十一月初めの頃である。
 かかる事態に陥つたのも、旧自由党と旧進歩党の軋轢に外ならぬが、その最初の原因は、選挙干渉問題であつた。当時の司法次官は、山田喜之助君であつたが、この人が職権を濫用して、自分の選挙を助けたといふ事が、問題となり、内閣でもその処置に困つてゐた。その時私は、
「山田君は、衆議院議員を潔く辞し、再び選挙に打つて出で、その公明正大なる事を証明したらよからう。」
といふ意見を述べたが、実行出来ず、結局両派睽離の最初の原因となつた。それから事ごとに旧自由、旧進歩の両派は軋轢してゐたが、私は、当時旧進歩党の同志は、決して無理なことはしてゐないから、公平な第三者は、必ず旧進歩党に加担するものと思つてゐた。当時海軍大臣の西郷従道侯は、公平な人であり、大隈伯とは別懇の間柄なので、最後には吾々に加担するに違ひないと信じてゐたが、遂に加担しなかつた。これは、後から桂侯より聞いたことだが、隈板内閣の親任式の帰りがけに、宮中の御廊下で、西郷侯は陸軍大臣桂子の肩を叩きつゝ、
「もう少し経つと、自由党と進歩党とが、喧嘩を始めるに違ひないが、お互は、どつちにも加担しないやうに致しませうよ。」と語られたさうだ。
 元来私の辞職は、隈板内閣を維持するためであつたから、その後任には、旧自由派の希望通り、彼らの仲間を推薦した方がよかつたのであらう。旧自由派の大臣は三人に過ぎなかつたのに、旧進歩派は四人の大臣を出し、その上首相が外相を兼任してゐたから、大臣席は三対五の割合で、両党の間に分配せられてあつたのだ。旧自由派の不平を云ふのも、無理はない。特に板垣伯の上奏も、隈伯と両立出来ぬと云ふのではなく、尾崎と両立出来ないと云ふのであつたから、私が身を引いて、その後任に自由派の人を薦めたなら、それで、一時は、内紛が鎮静したのかもしれない。しかるに私は、只一図に、私に対する攻撃の目的は、隈閣打倒に在ると思つたから、一蓮托生の戦法を執るを上策と考へ、次善策としては、どうしても戦ふつもりなら妥協の弱みを見せずに、奮闘する方がよからうと考へ、内心ひそかに危惧の念を抱きながら、私の後任に犬養君を推薦したのであつた。又首相としては、その内閣を維持する見込みなら、私の推薦を拒否して、自由派の人物を奏薦し、以て内紛の一大原因を除去すべきであつたらう。しかるに大隈伯は生来の楽観気分で、最初は自由派を圧伏し得べしと考へ、次にはそれが不成功に終はれば、旧進歩派だけの単独内閣に改造し得べしと考へられたやうだ。その考へは、両つながら失敗した結果、私が最初に危惧した通り、大隈内閣の覆滅となつた。

文部大臣 家族

議会演説の一記録

 喧嘩にかけては、人一倍敏腕な星君は、隈板内閣が、まだ倒壊しないのに、早くも壮士を率ゐて、憲政党本部を占領し、疾風迅雷の勢ひを以て、憲政党を解散すると同時に、旧自由派だけで、新たに「憲政党」を組織した(明治三十一年十月廿八日)。吾々旧進歩派は、その不法を憤慨して、顛末を天下に稟告すると共に、警視庁に抗議書を提出して、解党の無効を論弁したが、内相は板垣伯、警視総監は西山志澄、いづれも旧自由派の頭目であつたから、結局無効に終はつた。そこで吾々旧進歩派も、「憲政本党」と改称して、これに対抗した。藩閥の思ふ壺にはまつて、民党はたちまち分裂したのである。
 さて、旧自由派は、藩閥と共同して、大隈内閣をば倒したが、政権は期待した板垣伯には来ないで、長閥の山県侯の手に落ちた。さすがの政党嫌ひの山県侯も、時勢には抗し難く、又過去の辛い経験により、全く政党を度外視して、政権を保持する事の不可能を悟つたものと見え、有力なる政党を懐柔して議会を操縦せんと欲し、憲政党に向かつて、その手をのべた。
 憲政党は、折から大隈伯及び憲政本党を恨みつゝあつたので、入閣希望を拒絶されながらも、綱領採用といふことで、山県内閣を援助することになつた。
 かくて第十三回帝国議会が東京に招集された日の翌日、即ち明治三十一年十一月七日に、山県内閣は親任されたが、新内閣の対議会準備いまだ整はざるために、大演習に供奉したる山県首相は、憲政党員を大演習地に招き、提携を策した揚句、十二月三日を以て漸く開院式を挙げた。
 この議会に山県内閣は、地租増徴案を提出した。同案は、歴代内閣の癌であつたから、憲政党内にも、反対者が現れた。天下の与論は、非増租に傾いて、有力なる地租増徴反対同盟会が成立した。我が憲政本党は、同会と提携して戦つた。かうなつて来ると、政府も狼狽し、同盟会をば解散命令で沈黙せしめ、黄金と圧迫の非常手段を以て、遂に地租増徴案を通過せしめた。
 かくて同議会では、憲政党は、政府の頤使に甘んじ、一銭の葉書が一銭五厘になり、二銭の切手が三銭となつても、さらに苦情も述べず、政府の増税案をことごとく通過せしめた。当時世間では、政府と憲政党との関係を評して、
「議会は奴隷売買の市場にして、議員は市価を有する動物だ。」と非難した。
 その頃は未だ官尊民卑の気風が盛んであつたから、政府の与党たる憲政党は、かうして政府へ忠勤を励んだ報酬として、高等の官職にありつかんと盛んに運動したが、第十三議会が終はると間もなく、政府は突如、文官任用令、文官分限令及び懲戒令を設けて、猟官運動を防止した。もともと藩閥政府が、日頃蛇蝎視する政党と提携したのは、政策遂行の一方便に過ぎなかつたのだから、既にその目的を達し、地租増徴の難事業も通過した以上は、この挙に出でて党人を圧迫したのも、不思議はない。しかし、これには星君らも、余程困つて、種々交渉したやうだが、山県侯は断乎として、これをはねつけた。かくて政党員は、猟官の道を断たれたが、一方漁利熱に浮かされるやうになつた。ことに山県内閣は政党操縦策として、この手段を選んで、種々の利益問題を提供した。そのため憲政党は、相変らず山県内閣を助けてゐたが、これは政党にとつては、自殺的行為であつた。
 第十四回議会も、こんな訳で無事に終はつたが、野党として政府と戦つて来た憲政本党は、この議会に予算修正動議を提出して、否決された。その時、私は自党を代表して、修正案が否決された以上は、予算全部に反対する旨を述べた。すると、憲政本党以外の各派は、俄かに連合して、
「予算の内には皇室費もある。これに反対するのは不敬である。」と云つて、私を陥れるために、一つの決議案を提出した。何しろ閥族や官僚が、共和演説といふ無根の非難で、私を陥れた後、間もない頃であつたから、私に対しては不敬不忠の言ひがかりが、最も有効と考へたのであらう。
 決議案の提出者中、星君は自由党、佐々友房君は帝国党、元田肇君は官僚派の首領である。決をとれば大多数になるべき形勢であつた。決議案の提案説明が終はるや否や、私はすぐさま、演壇に上がり、まづ、
「提案者は、憲法をも、又予算の何物たるかをもご存じないものと見える。」と喝破して、帝室費は、只計数を合はせるために掲出してあるだけで、議定科目ではない事を述べた。演説は、ものゝ五分間とはかゝらなかつたと思ふが、その僅かの間に、議場は、たちまちザワメキ渡り、あちこちに額を集めて相談を始め{*6}出した。その揚句が、敵党は元田肇君を演壇に送つて、不得要領に、決議案の討議を延期する事になつた。かかる短時間の演説で、これ程の効力を生じたことは、私の長い議員生活中にも、他に類例のない現象であつた。
 その翌日になると、各派の連合軍は、
「尾崎君の言も、さして不穏当といふ程の事もないから。」と曖昧な動議を提出して、この決議案を撤回しようとした。すると、吾々の方では島田三郎君が立つて、逆に、
「皇室の名義を、政争に濫用したのは不都合だ。」と攻めたてゝ、決議案の撤回を阻止し、強ひて決を取らせることにした。その結果は、百五十七票対百十四票で、決議案は見事否決された。さすがに連合軍の中にも、良心に責められて、翻意したものが多数あつたため、この結果を得たのである。

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校訂者注
 1:底本は、「こうなれば」。
 2:底本は、「率(ひき)ひ」。
 3:底本は、「率ゆる」。
 4:底本は、「誓約しやう」。
 5:底本は、「閣下(あなた)」。
 6:底本は、「初め」。