伊藤侯に接近
憲政党は前にも述べたやうに山県内閣に弾圧されながらも、利益問題にひかされて、政府の御用を勤めてゐた。星君の周旋で、東京市街鉄道が許可されたのも、この時である。この悪風は、今日まで残つてゐて、政党の腐敗堕落は大正、昭和の憲政史に汚点を印し、我が立憲政治の信用を著しく失墜した。かうした山県内閣の乱暴には、さすがの憲政党も弱り果て、何とも仕方がなかつたから、第十四議会後提携以来懸案となつてゐた憲政党員の入閣が一蹴されたのを潮に{*1}、挙党伊藤侯の膝下に馳せ参じて、更生を計らうとした。
伊藤侯はその頃すでに、議会政治の常道をば悟り、胸中政党組織の準備が出来てゐたやうであつた。ことに政党嫌ひを看板とする山県侯の悪辣な政党操縦と、そこに醸し出される憲政の堕落を見て、内心快く思はなかつた伊藤侯は、真正なる政党の建設の急務を思ひ立たれ、憲政党の接近を利用して、一気に新党を組織しよう{*2}とした。
当時、あたかも対露関係が切迫し、到底衝突は免れない形勢にあつたが、私はどう打算してもこれ程の不利益はないと結論し、出来ることなら、その衝突を回避したいものと苦心してゐると、伊藤侯もほゞ同様の考へらしいことを間接に聞いた。それに多年我が政敵であり、藩閥の長者であつた伊藤侯が、政党を造るのは、吾々の主張に近づいて来たのである。従来敵であつたからと云つて、吾々と同じ仕事をしよう{*3}とするのに難癖を付けるのは、主義によつて立つ政治家のなすべきところではない。ことに伊藤侯の政党組織に対しては、藩閥方面に反対があり、なかんづく山県侯の如きは、伊藤侯を目して不臣の国賊とまで罵り、猛烈に反対したにも拘らず、伊藤侯は、
「もし元老として政党を組織するのが、いけなければ、爵位を辞してこれに当たるまでゞある。」と明言し、その意旨誠に強固に見えたから、私はこれを助けて真の政党を造らせたく思つた。そこでこの二点から、私は従来の行き懸かりを一擲して、伊藤侯に接近した。
ある時、侯を訪ねて親しく話して見ると、「日露の関係が破れては、国家の不利益」といふ点は、私と同意見であつたが、戦はずしていかにこれを解決するか、又天下の与論はどうなるかの点について、大層心配して居られたから、私は、
「一大決心を要する。君国のために生命を棄つべき場合、世の毀誉の如きは度外視して進まれよ。」
と説いた。そのためでもあるまいが、伊藤侯は日露問題を平和的に解決しよう、朝鮮問題も戦はずして解決したいと決意されたやうだ。そのために露国を訪問されたのは、後の話であるが、私のこの意見を世間では、「満韓交換論」ととなへて非難した。
それから政党組織に関しては、私は伊藤侯に説くに、
「旧自由系の憲政党と、旧進歩系の憲政本党を網羅し、これに侯直参の人々たる官吏出身者及び民間の有力者を集めて、三派鼎立の一大政党を組織するが宜しい。さうすれば、各派互に牽制し合つて、我が儘が出来ない。」
といふ趣旨を以てした。伊藤侯も大いにそれを考へられたやうだが、憲政本党をとれば、大隈伯とも提携しなければならない。しかるに大隈伯が既に参議となつた頃も伊藤侯はなほ兵庫県知事の位置に居り、東京に来て大隈、井上の両伯と意気投合して築地の梁山泊を作つた時代でも大隈伯に対しては、常に一歩遅れて居つたから、内心ひそかに大隈伯を憚つて居たやうに思はれた。どうしても進歩党全部を新政党に誘招する気分を起こさなかつた。随つて私の新政党組織に関する意見は、その初めに於いて一頓挫した。しかし私はなほ旧進歩党全部を参加せしめんと欲する意見を棄てなかつた。
この時、私はまづ伊藤侯の決心を確かめて、しかる後広く同志に謀るつもりであつたから、この事については、大隈伯初め{*4}何人にも相談しなかつたが、私がひそかに伊藤侯と会見した事は、たちまち外聞に漏れ、世上の一大問題になりさう{*5}に見えた。そこで私は大隈邸に犬養、大石両君の来会を求め、腹心を披歴したが、三人とも私に同意しなかつた。但し大石君だけは他の二君が同意するなら、自分も同意すると云つた。又大隈伯は、
「君は伊藤を買ひかぶつて居る。我々ですら出来ない事が、どうして伊藤に出来るものか。」
と云ひ、最後には声色を励まして、
「是非やめてくれ。」
と云はれた。しかし私は、自分の意見が正しいと確信してゐたから、在京党員の総会を開いて愚見を陳述し、以てその賛成を求むる覚悟で、その手続きを運んだ。
しかるに世人はいづれも疑念を抱き、私が朋友を出し抜いて伊藤侯に降参したことゝ、頭から考へるものが多かつた。同志中にも唯私一身の利益を計らんがための挙動と思つたものがあり、甚だしきに至つては、宮中の御信用を回復する手段としてやつたのだなどと言ひふらしたものもあつた。それにも拘らず同志大会に臨んで、親しく赤心を披歴して国家のため賛同を求めようと考へ、予定の時刻に憲政本党本部に出席すると、犬養君は反対論者の紛擾を制止しかねて、とつさの間に私に対して除名処分を断行した。故に私は意見を述べることが出来なかつた。
内閣投げ出しの一幕
さて、伊藤侯が政友会を擁して、政府の一敵国をなすと見るや、山県首相はなほ北清事件の後始末も残つて居たにも拘らず、政友会が創立後十日、未だ準備全からざるに乗じて、九月二十六日突如伊藤侯を後任に擬し、辞表を捧呈して即日椿山荘に隠退してしまつた。やはり往年吾々が自由進歩の両党を合はせて、憲政党を造つた時、伊藤侯が執つた戦略だ。伊藤侯もこれには困つた様であるが、十月七日組閣の大命を拝して、直ちに政友会内閣の組織に着手すると、かねて旧自由派特に星君らの専横を憤つてゐたところの副総裁格の渡辺国武君が突然侯に絶交状を突きつけて脱党した。ところが渡辺君は、数日ならずして再び伊藤侯の門を叩き、軽挙を詫びて復党し、
「心機一転した。」と云つて、平然大蔵大臣に納まつたから、政友会員は大いに激昂し、
「渡辺を除名せよ。」
と伊藤侯に迫つた。この時は渡辺君の総務委員をやめさせて、その場を繕ひ、どうやら十月十九日には第四次伊藤内閣が成立した。そして外務大臣加藤高明君と陸海軍大臣を除き、全部政友会の人々が閣僚となつた。すると今度は星逓相が埋め立て事件、市街鉄道事件等の疑獄に連坐し、世間から「星は天下の公盗だ」などゝやかましく攻撃され、星君の身辺に危険が迫つた。あまつさへ貴族院の山県派は、好機逸す可らずと、政府弾劾を匂はせたから、さすがの星君も居堪れず、十二月廿二日遂に辞職して、原敬君がその後任となつた。
やがてその年の暮れ、第十五議会が開かれると、星君の辞職で政府攻撃の手懸りを失つた貴族院の山県派は、北清事件費に充当するための増税案に、無理難題を持ちかけて散々政府を手古ずらせた。伊藤内閣はかくて悪戦苦闘、漸く同議会を切り抜けたが、ホツとする間もなく閣内に予算問題をめぐつて紛糾が生じた。
その頃蔵相渡辺侠禅は、財政の膨張を憂へ、財政整理の断行を、ひそかに決意して居た。そこで三十四年度予算に対して、年々多額の募債で官業を遂行するは、財政の基礎を危険ならしむるものであると云つて、公債支弁による官業中止を主張し、三十五年度予算にも同断の措置を執らんとした。ところが政友会出身の閣僚は国運発展途上、官業の中止は困ると云ひ出した。そしてかねて組閣当初の悶着以来渡辺蔵相と快くなかつた星君はじめ自由派の面々は、早速この予算問題をとらへて、強硬に緊縮に反対した。しかるに渡辺君は、一身を以て帝国の財政の安危に任じて居る意気込みだから、これは財政整理の基礎案でござると称して一歩も譲らない。そのために内閣は半歳ならずして崩壊の危機に瀕したが、その揚句、海相山本権兵衛、外相加藤高明の両君らの調停で、四月末日の閣議は、時節柄ともかく協力してやつて行かうといふ事に落ち着いたさうだ{*6}。
この一件は、今日流行の赤字財政問題に、自由派と官僚の衝突がもつれ合つたに過ぎないが、伊藤侯だけは問題が重大化するまでそのいきさつを知らなかつたらしい。実はこの問題は極めて簡単なもので、少し財政に注意するものは大抵知つてゐたほどのものであつたが、伊藤侯は若い頃から財政の事は挙げて大隈伯や井上伯に一任し来たつたためか、その方面の知識はすこぶる薄弱であつたやうだ。そこで伊藤侯は右党内の紛擾を見て、大いに弱り、
「なぜもつと早くおれに知らせてくれなかつたか。」と云つて渡辺君に小言を云つたさうだ{*7}。
私は内閣ではこの問題は既に片付いた事とは知らず、余りに不体裁と思つたから、忠告するつもりで、伊藤総理を訪問すると、侯は渡辺蔵相を非難しながら、困つた旨を述べて居られる。そこで私は元気づけるつもりから、いつもの癖で、
「財政困難は、天下周知の事実である。渡辺から聞いて驚いたなどとは、以ての外だ。いやしくも首相たるものは、軍事・財政・外交、この三大事項は、充分心得て置いて、自分が指図せねばならぬ。そんなことでは、総理大臣たる資格がない。おやめになつたがよからう。」
と直言した。ところがその翌日、五月二日に侯は突然辞表を捧呈されたから、各閣僚も皆やむなく辞表を捧呈したが、渡辺蔵相はたゞに辞表を書かないのみならず、かへつて、伊藤侯の翻意を求め、その聴かれざるや 陛下に上奏して、
「伊藤辞すといへども、臣国武の在るあり、 陛下幸ひに叡慮を安んじさせ給はらん事を。」
と云つたやうな意味を述べたさうだ{*8}が、 明治天皇はご聴許あらせられず、最後まで踏み留まつた渡辺君もやむを得ず辞表を捧呈した。
かくて伊藤侯は内閣を投げ出されたが、胸中では誰もその後を引き受けるものがなく、お鉢は再び自分のところに廻つて来るものと思ひ、その時は内閣を改造して出直すつもりであつたらしい。そこでまづ山県侯を推薦したが、侯は案の如くどうしても承知しなかつた。
星亨と私
山県侯は予想通り、組閣を承諾しなかつたので、お鉢は廻り廻つて、遂に桂子のところに行つた。その頃桂子は円転滑脱の手腕をふるつて、第二流の政治家中では既に嶄然頭角を現してゐた。しかし、山県侯や松方侯すら受けないものを、桂子が受ける筈はあるまいと思つてゐると、案に相違して、桂子は交渉を受けるや否や二つ返事{*9}で、受諾して、六月二日新内閣を組織した。その上閣僚には政党出身の人物を除外し、ことごとく官僚中の少壮者を充当した。これには伊藤侯も意外の感に打たれたらしいが、桂子の背後には山県侯が居つたのを思へば、別に不思議もあるまい。
かくて伊藤内閣は難航七ケ月で倒れたが、一方の政友会も成立早々から、自由党分子が強過ぎて、官僚派はこれに対抗し得ず、伊藤総裁の威令も充分には行はれなかつた。ある時、紅葉館で党の懇親会を開いたところが、その席上で川上行義といふ有名な壮士は、総裁なんぞが威張るなら、小便をヒツカケてやると云ひながら、ヅカ々々伊藤侯の面前まで進んで行つて、前をマクツテ放尿した。星君の配下にはかういふ途方もない乱暴者が一人や二人ではなかつたから、なかなか伊藤侯の思ふやうにならなかつた。伊藤侯は、官僚育ちの人物では、到底これに対抗することは出来ないと思ひ、私をして星派を牽制させる考へで、政友会組織後の最初の議会に際しては、私と星君とを挙げて、院内総務に任じた。さうすると{*10}星君は病と称して栃木県小山の別荘に引きこもつて出て来ない。伊藤侯は困つて私に相談したから、私は{*11}、
「星君の病気は私が治して上げませう{*12}。」
と云つて、院内総務を辞した。星君はこれを聞き、直ちに上京し、単独でその職に当たつた。こんな風で、私と星君とは容易に調和、両立する事が出来なかつた。
星君は多年の間訓練した多数の同志を持つてゐるのに、私は孤影寂寞、敵中に孤立してゐるのだから、これに対抗し得べき筈がない。故に私は党内の事務については、一切容喙せず、常に傍観の態度を執つてゐた。かくて日月を経過する間にも、伊藤侯は常に星君と私を調和させようとつとめ、星君もまた何か感ずるところあつて、従来の方針を改むる{*13}を必要と考へたものと見え漸次私に接近するの道を求むる{*14}やうであつた。特に世上の非難を受けて、逓相を辞した後は、聡明なる星君の事とて、僅かに一大臣となつてすら、こんな風では、到底前途の大成を期する事は出来ないと考へ、方向転換と決心したらしく思はれた節もあつた。これは伊藤侯の発意か、星君の依頼の結果か、いづれであつたか知らないが、ある時、伊藤侯が主人となり、私と星君とを招いて、
「君と星君とが仲善くしてもらはなければならぬ。それには両方よく懇談して見るがよからう。」
と云ふ事で、夜の十二時頃まで雑話した事もあつた。その頃私は星君とは性格が違ふから、到底親密に交はる事は出来難いと思つてゐた。ところがその後、星君の方では直接に又間接に接近を申し込んで来た。私は、
「同一政党に居るぐらゐの事は出来るが、特別に親しき友人となることはむづかしい。」
と婉曲に断つた。すると星君は人を以て、
「性格は違ふが、今後は俺が咢堂流にやるから善いぢやないか。」
と云つて来た。これに対し私は、
「可笑しい話だが、小説を読んで見ると、悪人が善人に立ち返る時は、その悪人は概ね滅亡してゐる。死ななければ縛られる。二途その一を出でない。星君が従来の方針を改めて、尾崎流にすると言ふが、これは星君の没落を意味する。遠からず没落する人と特別に懇意になつても仕方がない。」
と言つて断つた。私は真実におよそ人が自分の流儀を捨てゝ、他人の流儀を採る時は、その人の没落の時であると信じてゐた。実際一定の針路を執つて進んでゐたものが、急角度の方向転換をすれば、その虚に乗じて転覆させられてしまふものであると思つてゐた。
それから二ケ月も経つたであらうか、忘れもしない明治三十四年六月二十一日、私はその当時お茶の水にあつた高等師範学校に招かれて一場の演説を試みた。ちやうどその頃星流が青年の間に大層はやつて居たから、私は星君を引き合ひに出して、
「私も星君は偉い人間だと思ふが、片手で金を出し、片手でステツキを振り揚げ、どちらかで他人を服従させよう{*15}といふ、あの流儀では、とても大成する事は出来ない。星君が逓信大臣を辞職せねばならなくなつた一事を見ても分る。将来星君があの流儀を改めれば格別、しからざれば殺されるか、或は牢に入れられるか、どつちかになるであらう。」
といふやうな意味の講演をして、俥に乗つて帰つて来た。私の俥が御茶の水の坂を降ると、
「号外、号外!」
と号外売りが宙を飛んで来る。俥の上で買つて見ると、
「星亨刺客に殺さる。」
といふのであつた。星君は東京市参事会室で伊庭想太郎のために刺し殺された。
私もこの時はビツクリした。当時星君は収賄問題その他類似の事件で、非難の中心になつてゐたから、いつかは失脚するだらうと思つてゐたから、「精神的に死ぬぞ」と云ふつもりで演説したのであつたが、肉体的に殺されようとは思はなかつた。誠に気の毒な事であつた。
伊藤侯が内閣を投げ出して、大磯の滄浪閣に引込んだ時、私が訪ねると、侯は、
「西園寺にも会つたら、よからう。」
と言つて、隣地にある西園寺侯の別荘に使ひをやつた。しばらくすると侯はモーニングコートを着てやつて来た。滄浪閣の畳敷きの日本間で、椅子テーブルはそこにならべてあつたが、主人も私も無論スリツパを穿いて居つた。しかるに西園寺侯は庭から靴のまゝで上がつて来て、悠然として腰を掛けた。少しもわざとらしいところはなく、その様子がいかにもよかつた。やはり生まれと育ちは争へないものだと私は思つた。
さて、伊藤侯は桂内閣が出来てひまにはなつたが、星君没後も自由党と伊藤直参派の間に内訌が絶えず、政友会統率は随分面倒であつた。折柄日露の関係はいよいよ険悪に赴きつゝあつたので、これを調整しよう{*16}と、 陛下のご承認を得て、露西亜への旅立ちをされた。それは明治三十四年九月十八日の事である。丁度議会を控へて{*17}ゐたので、侯は私と松田正久君を院内総務に命じ、一切を任せて露西亜に行かれた。
校訂者注
1:底本は、「機会(しほ)に」。
2・3:底本は、「しやう」。
4:底本は、「始め」。
5:底本は、「なりそう」。
6~8:底本は、「そうだ」。
9:底本は、「返辞」。
10:底本は、「そうすると」。
11:底本、ここに読点はない。
12:底本は、「上げましよう」。
13:底本は、「改める」。
14:底本は、「求むる」。
15:底本は、「服従させやう」。
16:底本は、「調整しやうと」。
17:底本は、「控えて」。
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